花伝式部抄::第17段::「まなざし」と「まなざされ」

2024/06/18(火)08:01 img
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花伝式部抄_17

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 信じてもらえない話だろうけれど、私の人生で最も古い記憶は0歳のときの光景です。
 光の溢れる丘のようなところを、父に抱かれて、空へ向かって上っていく場面。私はただただ眩しくて、おまけにひどく眠くて、後ろから母の呼ぶ声が聞こえるけれど、どうにも身体が不自由で、目を開けることも振り返ることもできず、くったりと微睡の底で為す術もなく降伏している__。
 ひょっとしたら後に書き換えられた記憶なのかも知れませんが、カラダというものの存在を初めて自覚する瞬間の出来事だったと解釈しています。きっと私は、まだ首もすわっていなかったのでしょう。

 

 この遠く朧げな記憶を、私は物心ついて以来、何度も人生のなかで反芻しているのですが、要点は「意のままにならない」というところだと考えています。
 母の声(もちろんそのときは「母」という言葉を知らず、ただ自分にとって大切な存在らしき者の声、という程度の理解だったのですが)に反応しようとするものの、身体が意のままにならない。身体が意のままにならないどころか、その「意」すら、どこから来たのか判らない。きっとどこからか来たのだろうけれど、それは自ら能動的に出現したわけではなく、父の腕から伝わる加速度と、光の圧倒的な眩しさと、「わたし」を呼ぶ母の声によって、微睡の底から「わたし」という意識が切り出されたように感じたのでした。

 

 「わたし」とは環境と他者によって描出される存在である、という考え方はきわめて編集工学的な視点だと思います。
 もしもこの世界に「わたし」しか居なければ、「わたし」は「わたし」の存在に気づくことがないでしょう。何らかの事情で「わたし」が他者や外部との「境界」を得ることが、ワタシとセカイの対発生を導くです。

 つまり「わたし」の目覚めは、「わたし」についての目覚めであると同時に他者や環境についての目覚めでもあって、ワタシとセカイはコヒーレントな関係にあることを示しています。そしてワタシとセカイの境界上にはたらく「浸透圧」が、そこから連鎖する全ての編集を駆動させて行くのです。

 

障害物を乗り越える

障害物に遭遇した「わたし」が「グレーのブロック」を乗り越えようとしている。「わたし」は手に持っていた「黒い荷物」をブロックの上に置いている。このとき、「グレーのブロック」は意のままにならない存在であり「わたし」の行為主体性を制限しているが、同時に「わたし」に対して「それを乗り越える」という行為可能性アフォーダンスを与えている。一方、「黒い荷物」は意のままになる存在であり「わたし」の一部または延長である。しかし、それを手にしたままでは障害物を乗り越えることができない。

 

さて、この場面で「自他」の境界はどこに見出されるだろう?

 a)「わたし」と「わたしのカラダ」の間

 b)「わたし」と「黒い荷物」の間

 c)「わたし」と「グレーのブロック」の間

 d)「わたし」と「ブロックのムコウ」の間

 e)「わたし」と「赤い地面」の間

 f)「わたし」と○○の間

 

 第15段でみたように、私たちは何かに差し掛かったとき、それが何なのか認知しようとします1次インタースコア。その認知作業は「わたし」の内側で起きる出来事ではありますが、「わたし」から対象へ向けて「まなざし」を差し向ける行為でもあります。これを編集稽古では「注意のカーソル」と呼んでおり、すなわち「意」を注ぐ者と「意」を注がれるモノとの相即を告げています。
 インタースコア編集力を培おうとするなら、この「まなざし」について自覚的かつ他者的に観察する稽古から始めるべきでしょう。

 

 いみじくも[015番:マンガのスコア]が、スコアリングの隣に「評価」が在ることを示唆しているように、人の「まなざし」は必ず何らかの評価を含んでいます。それは愛や憧れかも知れないし、批判や嫌悪の類かも知れません。スコアリングとは、そうした温度や質量を持った「まなざし」が然るべき文法によって任意のメディアに定位されたものである、と定義してもよいでしょう。

 ただし、スコアリングは評価を定めて「定評」を導こうとするのではなく、「評」の字義通り平らかに言を尽くす態度を保ちたいものです。スコアはいつでも人と人、人とモノ、モノとモノの間にあって、コチラ側から見れば「まなざし」だけれど、ムコウ側から見れば「まなざされ」なのだということです。そしてつまるところ、「まなざし」は「まなざされ」の受容と共にあって、「わたし」は「まなざされ」によってイマココに結像するのです。

 

 さて以上に述べたことは、「まなざし」と「スコアリング」が同義であることを示そうとしています。この論に同意していただけるなら、「まなざし」は編集可能である、ということを重ねて強調しておかなくてはなりません。

 定量スコアが既存のメトリックに囚われているなら、未知や別様を模索する余地を見出したい。定性スコアが「わたし」の視点に固着しているなら、まずそれに気づき、他や外と交換したい。定型スコアは、そこから編集を起こすための土壌でありたい。

 スコアをスコアによって破ること。その編集姿勢を、私たちは「インタースコア」と呼ぼうとしているのだと思います。

 

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花伝式部抄(スコアリング篇)

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 ::第12段:: 言語量と思考をめぐる仮説

 ::第13段:: スコアからインタースコアへ

 ::第14段::「その方向」に歩いていきなさい

 ::第15段:: 道草を数えるなら

 ::第16段::[マンガのスコア]は何を超克しようとしているか

 ::第17段::「まなざし」と「まなざされ」

 ::第18段:: 情報経済圏としての「問感応答返」

 ::第19段::「測度感覚」を最大化させる

 ::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし

 ::第21段:: ジェンダーする編集

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