編集用語辞典 20 [イメージメント]

2025/03/18(火)08:09 img
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八田英子律師が亭主となり、隔月に催される「本楼共茶会」(ほんろうともちゃかい)。編集学校の未入門者を同伴して、編集術の面白さを心ゆくまで共に味わうことができるイシスのサロンだ。毎回、律師は『見立て日本』(松岡正剛著、角川ソフィア文庫)の章を時節に因んで取り上げ、身近なできごとへ対角線をいくつも引きながら、愉しい語らいのなかで日本という方法の深い奥行きを垣間見せていく。

『見立て日本』のまえがきには、このように書かれている。

 

花見だんご、月見うどん、きつねうどん、親子どんぶり。日本人は見立てが得意だと思われている。たしかに、いろいろ遊んできた。歌舞伎や浮世絵や黄表紙には見立ての技法が駆使された。・・・見立ては連想と暗示を駆使して「滲み」「仄めかし」「うがち」をおこす。間接話法とも暗喩の一種ともいえるし、理屈嫌いともいえる。しかし見立てることによって、かえって物事や事態の本質が伝わることもある。速く伝わることもあるし、虚をつくこともある。日本の実景を「百辞の百景」と見立てて、写真と文章を合わせてみた。芭蕉は「虚に居て、実を行ふべし」と言った。少し肖ってみた。

 

あとがきにはこうある。

 

日本における見立ては、国の見立てから松竹梅の見立てまで、古今・新古今の歌語による見立てから釈迦三尊や浄土の見立てまで、北斎の富嶽や広重の五十三次からマンガ・アニメのポップジャパンの見立てまで、ほぼあらゆる場面に使われてきた。日本の見立ては「王手飛車取り」のような万能性を持っているのである。

 

見立てはものごとの「らしさ」に着目してイメージをつなげ、マネージしていく編集である。私たちはふだんから、何かを考えるときも、誰かに思いを伝えるときも、つねにイメージをマネージしている。『知の編集工学』(松岡正剛著・朝日文庫)では、「私たちは一人一人がイメージ・エディティング・プロセッサーであり、イメージ・プロセッシング・エディターなのである」と説く。

 

私たちには生きたイメージ・プロセッサーが内蔵されている。「体」と「心」がばらばらにならないように、これをイメージでつなごうとしているプロセッサーだ。私たちは、知覚・認識・判別・選択をのべつおこないながら、さまざまな行動をする。認知と行動をくりかえし試みているのだが、認知も行動も「体」と「心」で少しずつ別々にマネージしているので、そこをつなげていくためのイメージ・プロセッシングが必要なのである。そのうち誰の中にもそれなりのイメージ・プロセッサーができあがっていく。その仕上がり具合は一人一人まちまちで、それが性格や思考の癖(長所と短所)をつくっているとも言える。ごく一般的には、外界からの入力刺激があり、そこで入力済みの情報の呼び出しと検索がおこり、その中から情報の連合のためのパターン・マッチングがおきる。認知科学やコンピュータ・サイエンスでは、このプロセスを情報処理と呼んでいる。しかし、私はこのプロセスにはイメージの編集がかかわっているので、情報処理というより〈情報編集〉とするべきだとおもっている。私たちは一人一人がイメージ・エディティング・プロセッサーであり、イメージ・プロセッシング・エディターなのである。

 

イメージ・エディティング・プロセッサーである編集的自己にとって、イメージメントは、3A(アナロジー、アフォーダンス、アブダクション)を存分に発揮して世界や他者と自己を関係づけていく編集プロセスなのである。

 

 

■編集八段錦になじむ

 

たとえば私たちが既知と未知のあいだでイメージを獲得するのは、こんなふうである。

 

私たちの「体」と「心」はイメージ(image)とマネージ(manage)のあいだをたえず行ったり来たりしているのである。「体」と「心」のあいだだけではない。「チシキ」(知識)と「イシキ」(意識)のあいだでもイメージとマネージがしょっちゅう動いている。たとえば、私たちは「オートバイ」「北海道」「交響曲」についてのイメージを浮かべることができる。オートバイに乗ったことがなく、北海道に行ったことがなく、交響曲の構成をあまり知らなくても、それらのイメージが出入りする。・・・そういうイメージは私たちのどこかでマネージされてきたにちがいない。(『知の編集工学』)

 

イメージ化されたものは知覚組織によってマネージされ、過去にマネージされた知覚や記憶によって、新たなイメージが引っ張られる。そうやって知らず知らずのうちに身に着けたイメージが、どのようにマネージされているか、私たちはふだん気にすることはあまりない。だがそこにこそ、イメージメントの秘密が隠されている。この情報編集の技法やエディティング・プロセスを明らかにし、取り出せるようにと、松岡正剛が考え出したのが「編集八段錦」だ。『知の編集工学』(朝日文庫)や『知の編集術』(講談社現代新書)に、詳しく述べられている。

 

  1. 区別をする(distinction)・・・情報単位の発生
  2. 相互に指し示す(indication)・・・情報の比較検討
  3. 方向をおこす(direction)・・・情報的自他の系列化
  4. 構えをとる(posture)・・・解釈過程の呼び出し
  5. 見当をつける(conjecture)・・・意味単位のネットワーク化
  6. 適当と妥当(relevance)・・・編集的対称性の発見
  7. 含意を導入する(metaphor)・・・対称性の動揺と新しい文脈の獲得
  8. 語り手を突出させる(evocation)・・・自己編集性の発動へ

 

イメージは意味を暗示する。編集八段錦g.の「含意」とは、「解釈されつつある自他の情報系に隠れていたかもしれない文脈を獲得すること、つまり「別様の可能性」の獲得を示している。ここまでの編集にまったく新しい息吹が与えられる大変重要なイメージメントのプロセスだ。見立てやメタファーやアナロジーなどによる含意の導入は、受け手の3Aをも促し、コミュニケーションを豊かにしていく。

イシス編集学校の応用コース[破]では、文体編集術、クロニクル編集術、物語編集術、プランニング編集術の4つの講座で、基本コース[守]で学んださまざまなメソッドを応用し、アタマの中にあるイメージやヴィジョンを端的に取り出し、相手に伝わるためのイメージメントを実践する稽古を行う。そうやって3Aや編集八段錦に袖を通し、身体になじませていくのだ。

 

 

■アルス・コンビナトリアでつなぐ

 

編集八段錦のプロセスを経ながらイメージを具体化していくイメージメント。その編集技法をひと言であらわすと、アルス・コンビナトリア(ARS COMBINATORIA)になる。『別日本で、いい』(松岡正剛編著・春秋社)にはこのように書かれている。

 

私の仕事の眼目は「方法を編集する」ということ、および「編集を方法にする」ということにある。編集といってもいろいろで、雑誌づくりも映画づくりも編集だし、ラグビーのチームプレイも、囲碁将棋もシンガーソングライティングも、化石研究も物語をつくるのも編集だ。商品開発も料理をするのも編集で、そもそも信仰も思索も編集なのである。・・・編集が生み出すさまざまな方法をまとめて言うと、何になるのか。ラテン語でいうと「アルス・コンビナトリア(ARS COMBINATORIA)」という方法になる。・・・アルス・コンビナトリアは英語でいえば〈Art of Combination〉だ。「組み合わせの方法」あるいは「結合のアート」のことだ。ARSは〈アート〉つまり方法のことをいう。もともとはルルスとライプニッツが提案した用語だ。・・・さまざまなモノやコトを組み合わせる作業をARS(アート)として捉えるということなのである。外からアートをもってくるのではなく、その作業自体がアートになっていくということだ。思索が詩になり、石や材木が家屋になり、声が歌になり、土が壁になり、裁縫がファッションになり、祈りが仏像になるように、そういう思いを抱いて編集を促していくということだ。思いを抱いてどうするのかというと、作業がアート(方法)となってモードやスタイルを生んでいくようにする。いくつかのコード(要素)が組み合わさってモードとなり、知覚に訴えるスタイルになっていくようにする。文章も音楽もそうやってモードやスタイルを示していったわけである。哲学も文学もマンガもそうやって生まれ、建築もオペラも陶芸もそうやって作られた。これが、アルス・コンビナトリアとしての編集なのである。

 

アルス・コンビナトリアは、言葉と場とイメージを共鳴させ、記憶と想起を促しながら相転移を起こし、そこから新たな文化を創発していくイメージメントなのである。

 

 

■コンティンジェンシーとラグビーをつなぐ

 

ラガーマン平尾誠二と松岡正剛。まったく異なる領域の二人が対談した『イメージをマネージする』(集英社文庫)という一冊がある。平尾氏のラグビーは、筋書どおりのシナリオとは別に、いつも場とともに動くイメージのダイナミズムによってゲームを組み立て、別様の可能性へと変革しつづけていた。松岡正剛は対談の中でこの方法に光を当て、「まさにイメージメントだ」と評価している。あとがきにはこのように綴っている。

 

もっとも共感させられたのは、平尾のラグビー・ストラテジーが私がずっと考えてきた「情報編集哲学」とかなりの部分で一致するということだった。・・・平尾も私も、ラグビーを通して、いかようにも「コミュニケーションの秘密」を語りうることに気がついたのである。それを一言でいえば、ラグビーにおける「イメージ」と「マネージ」をつなげたということだ。

 

対談では、コミュニケーション(エディティング・モデルの交換)や、新しいモードやスタイルの生まれる鍵が、イメージとマネージをつなげていく動的なプロセスにあることが浮き彫りになっていく。

 

松岡:マネージをイメージして、またイメージをマネージする。ふたつは一緒に考えられなければならないでしょうね。ところがこのふたつはついつい分離するんです。なかなかつながらない。また、マネージが得意な人とイメージが得意な人も別々になってしまうことが多い。でも、スポーツでも、また企業や文化でも、実はマネージとイメージは切り離せないんですね。

 

平尾:やはりそれぞれのプレーヤーにはイメージがなくてはならないわけです。しかもそのイメージはかなり豊富である必要がある。ひとつだけのイメージは実はマネージと同じで、それはスキルなんです。そうではなく、たくさんのイメージを思い浮かべて、自分のアタマの中でラグビーを拡張していかなければダメなんです。・・・ラグビーには静的な要素と動的な要素があるんです。静的なものはだいたいデータになりますね。・・・しかし、もうひとつ動的なものがあって、それはイメージにしかならないんですが、それがはたらかないとダメなんです。静的なマネージメントをしておき、それとは別にイメージは試合中に動き回る。・・・いちばんたいせつなことは、各プレーヤーがイマジネーションの中において、「連続性というイメージ」や「拡張というイメージ」をしっかりもつということですよ。そのイマジネーションがなければ、いくら変革しようとしてもムリですわ。

 

平尾氏がラグビーで見出したのは、変化しつづける場と共振していくイメージメントだった。

『イメージとマネージ』でラグビーのゲームをめぐって深められたこうしたイメージメントの重要性は、そのまま組織論へとつなぐことができる。『エコノミスト』の巻頭言の連載を集めた『背中のない日本』(松岡正剛著・作品社)では、次のように語られている。

 

日本企業の多くは会社的主題と社会的背景との関係を軽視し、内側と外側を分けすぎた。それでは、どこから手をつけるのか。まず、「マネージ」と「イメージ」という言葉をつなげてみることから着手するべきだろう。マネージの拡大はイメージの充実と等価でなければならない。それを私は、「マネージメントも大切だが、イメージメントも大切だ」というふうに言ってきた。

 

内側と外側を分けないイメージメントを、組織の中でどのように仕組んでいけばよいのだろう。『別日本で、いい』では「別様の可能性」というキーワードを軸に、詳細に綴られている。

 

(別様の可能性の)〈別〉は何を意味しているかというと、oneに対するanotherをさしている。oneがあってなおもうひとつの(別の)anotherがありうることを言っている・・・このような〈別〉への思いをあらす概念に、「コンティンジェンシー」(contingency)がある。・・・コンティンジェンシーとはもともとは、「不確実性、偶有性、偶発性、代行性」などを意味する言葉で、社会学やビジネスシーンやIT現場ではよくつかわれる。たとえば80年代のアメリカで話題になった経営理論では、どんな環境の変化にも適用できる万能な組織はなく、万能なリーダーはいないという判断にもとづいて、「ゆらぎ」や「変化」を内包する経営方針をたてることをコンティンジェント・マネジメントと呼んでいた。・・・コンティンジェンシーはどのように発動できるのだろうか。第一には、組織やシステムに何かのトラブルがおこったときに、修正に向かう枝と別の方向に転換する枝の両方をインストールしておかなければいけない。そのトラブルは小さなものであっても見逃せない。第二に、そうした別の枝に向かうことを担う人材や才能や技術を、少数であれ用意しておかなければならない。・・・第三に、組織は状況判断や環境判断のための敏感な感知センサーを内包しているべきなのである。・・・第四に、コンティンジェントなきっかけはたいてい偶然の出来事に見えることが多いので、計画や仕事を「合理」(リクツや数字)だけで組み立てたり評価することを、ときに中断できる勇気をもたなければならない。リスクに近いところで偶然性を無視しないようにするのがいい。第五に、組織やシステムはある程度のノイズ、リダンダンシー(冗長度)、遊び、複雑さ、カオスが必要だということである。

 

松岡正剛が掘り起こした平尾氏のラグビーの方法は、イメージメントを駆使したコンティンジェンシー・ラグビーだったのだ。イメージとマネージをコンティンジェントにつなぐイメージメントでは、ゆらぎやトラブルこそが、新しい意味や価値や創発性を生んでいく。

 

 

■別様の可能性のアーキタイプへ

 

イメージメントにおいてとりわけ大切な別様の可能性を捉えるために、松岡正剛は歴史やものごとの発生の原初に戻って考えなおす方針を打ち立てた。そのときに参考になったのが、三浦梅園の反観合一という見方だったという。

 

江戸後期のケタはずれな思索者で大胆な表現者でもあった三浦梅園に『玄語』がある。続刊に『敢語』と『贅語』もあって、まとめて「反観合一の条理学」と名付けられている。反観合一というのは、一つの現象や象徴にはたいてい一対の互いに相反しあう概念がひそんでいて(隠れていて)、その一対が何かのきっかけ(機縁)によって二つながら顕われてくるという見方のことをいう。梅園はこの見方を反観合一と言ったのだ。そして、この条理は「一即一一」と言いあらわせるとみなした。「一」と見えるものには、当初に選択された一と、その一に触発されたもうひとつの一とが潜在しているというのである。「一」は「一、一」で出来ているというのである。・・・こうして梅園は、自然界や世俗界の多くの価値観をあらわす概念は、もともといくつかの対概念から生じたもので、そこには「陽―陰」「天―地」「精―神」「気―物」といった原初の「一、一」が先行していたとみなし、それらが次々に分岐してさまざまな概念言語をつくりだしていったと展望した。・・・これは、驚くべきone-anotherの関係仮説だった。(『別日本で、いい』)

 

このあと、one-anotherの見方を、日本史の見方へと重ねている。

 

日本史はすでに慈円の『愚管抄』が喝破していたように、「顕るるもの」と「隠るるもの」との同時的な葛藤によって語られるべきなのである。「顕」と「冥」は一対のone-anotherなのである。ただしこの「顕」と「冥」を語るにあたっては、かなりの腕が必要だ。格別な言述力が必要だ。これについては、本居宣長が決定的なヒントを提出していた。歴史の結末に頼った「ただの詞」では突っ込めない。どんどん滑っていく。それに代わる「あやの詞」の彫琢が忽然と浮上する必要がある。そこにこそ日本編集思想と日本アルス・コンビナトリアの骨格が見えてくる。こういう格別な言述力だ。

 

「あやの詞」について、千夜千冊第1089夜・尼ヶ崎彬『花鳥の使』には、こう書かれている。

 

「ただの詞」は世のことはりをあらわし、「あやの詞」は心のあはれをあらわす。「あやの詞」は「ただの詞」のあらわす内容をより巧みに表現するのではなく、「ただの詞」ではあらわしえないものを語る。この「あや」をもってあはれをあらわす文学様式が、すなわち和歌なのである。・・・その「あや」をもって言葉をつかうとは、そこに見えていないものやことをあらわす作用を発するということである。見えないから見えさせる。それが和歌の動向になる。

 

本来はなかなかわかりあえない自分と他者とのあいだに深い共感をはぐくむ「あやの詞」は、揺れ動く情感や心の機微や弱さや矛盾を掬い取りながら、縁を編みなおす。歌によってしかあらわせない、もののあはれを知ることによって初めて紡ぎだされるあやの詞は、日本という方法の奥底に潜みながら、溢れるほどのイメージを滾々と湛え、エディティング・モデルの交換や一座建立を支えてきたのだろう。和歌のアーカイブから遠く隔たってしまった今、言語化できない隠るるものへと近づき、フラジャイルな共感を呼び覚ましてイメージを共有するためにはどうしたらよいのだろうか。「あやの詞」による共有知をどのように育んでいくのかが、現代のイメージメントで切実に問われている。

 

 

■芭蕉のイメージメントに肖る

 

合理的なことわりの世界では見えない、隠るるもののイメージメントは、別様の可能性を広げていく格別な編集力である。『別日本で、いい』の中で、このイメージメントの力を芭蕉の「虚に居て実を行ふべし」という言葉に読み取っている。

 

「虚に居て実を行ふべし」。この芭蕉の言葉は森川許六の『風俗文選』に各務支考の一文として伝えられたもので、支考は翁が次のような考え方を述べたのを覚え書きにした。翁はこう言ったという。「寂寞は情としてあらわれる」、「風流はといえば、その姿にあらわれる」。そして「風狂は言語にあらわれるものだ」。ではその言語とはといえばと言って、「虚に居て実を行ふべし。実に居て虚に遊ぶ事は難し」と続けたというのである。・・・芭蕉から受け取るべきは虚と実の両方の発想なのだ。芭蕉のダブル・コンティンジェンシーを理解することなのだ。

 

この芭蕉の言葉を理解するために、芭蕉の俳諧の意図をこう説明する。

 

芭蕉の俳諧は「付合」に始まった。付合とは、誰かが詠んだ句に付けてこれを受けて読むことをいう。連歌から連句に及んだ編集的創作様式だ。他者との連携を含んだ付合による句は「付句」と呼ばれた。このような付合連句は何人もの連なりが生み出すものだから(偶有性を孕んでいるものなので)、どんなイメージが付合で次々に連鎖していくかは、あらかじめわかるものではない。けれども俳諧師たちはサッカーやバスケットのプロのプレイヤーのようなものだから、どんな言葉のイメージをマネージすればいいかは、寄せていける。俳諧師にはイメージメントが可能なのである。だから付合の作法やニュアンスに困ることはない。

 

では、どのように虚に入って実を動かすのだろうか。

 

それは、まずもって「うつり」(移)、「ひびき」(響)、「にほい」(匂)を重んじなさいということだった。そして、これらをイメージメントしながら俳諧セカイとしての「俤」(おもかげ)、「位」(くらい)、「景気」(けいき)をつくっていきなさいと、そう奨めたのである。・・・芭蕉は「実の位や景気」に惑わされるなと言ったのだ。惑わされないようにするには、付合で「うつり」「ひびき」「にほひ」を感じあってその場の座衆と連なり、そのうえで「実」に向かいなさい(俳句を選び出しなさい)と、そう、言ったのである。・・・芭蕉は「虚」がわからないようでは(虚に実感できないようでは、また虚において他者と連なれないようでは)、「実」においては何も起こせないと見たのである。これはまさに「世界」と「世界たち」とをバロック的につなげる方法であり、アルス・コンビナトリアを展いていきたいと思った編集工学がめざした方法と大いに重なっていた。

 

「虚」のイメージが先行することなく、「実」を「虚」のイメージにしている現代では、現実の延長が続いている。「実の位や景気」に惑わされないためには、日常と地続きの単純化された一義的な解釈を手放し、ポリフォニックで述語的な〈エディトリアリティ〉へと向かうイメージメントが大切だ。それは、主体と客体に分かれた実の世界を溶かし、いまだ語りえない隠るる面影を仄見せてくれるだろう。他者と連なりながら面影を擬き、場を生成しつづけるイメージメントは、確固とした〈主語〉や〈私〉の枠組みを手放したおぼつかなさやあてどのなさの中で、育まれていく。

 

 01[編集稽古]

 02同朋衆

 03先達文庫

 04アリスとテレス大賞

 05別院

 06指南

 07エディティング・モデル]

 08花伝所

 09師範代

 10注意のカーソル

 11エディトリアリティ

 12守破離

 13番選ボードレール

 14インタースコア

 15アブダクション

 16[物語編集力

 17[編集思考素

 18[勧学会(かんがくえ)

 19[ISIS(イシス)]

 20 [イメージメント]

 

 

                                                     

アイキャッチ画像:穂積晴明

  • 丸洋子

    編集的先達:ゲオルク・ジンメル。鳥たちの水浴びの音で目覚める。午後にはお庭で英国紅茶と手焼きのクッキー。その品の良さから、誰もが丸さんの子どもになりたいという憧れの存在。主婦のかたわら、翻訳も手がける。

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