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おしゃべり病理医 編集ノート - イシス編集学校、オトナの仲間入り
- 2020/06/02(火)10:46
昨日、イシス編集学校はハタチになった。晴れてオトナの仲間入りである。
2000年6月といえば、わたしは医学部5年生で、病院実習に明け暮れる日々を送っていた。当時は、臨床研修制度がなく(現在は卒後2年間の臨床研修が義務化されている)、医学部の学生が今の臨床研修医のような役割を担っていた。今の研修医が聞くと驚くのだが、様々な難しい(危ない)手技も医学生の分際でかなりやらせてもらっていた。「前立ち」といって、手術に入って執刀医の真向かいに立ち、介助に当たることもあった。
今の職場の院長先生は、当時はばりばりの外科医でたまたまわたしのオーベン(指導医)だった。2週間の外科研修中、トイレに行く以外は先生と行動を共にした(変な意味ではない)。午前は乳がん、午後は胃がん、というように、抜群に手術の上手な先生と一緒にたくさんの手術に入った。病棟回診でも、金魚の糞のように先生について回り、傷口の消毒や包帯交換やドレーンの確認、そして画像の見方や手術記事の書き方など色々なことを教えてもらった。数々のオーベンの中で、ずば抜けて教育熱心な愛溢れる先生だった。その先生は、新しく設立された附属病院で院長先生となったのだが、そのもとで、かれこれ15年近く仕事させていただいていることを考えると、なんて恵まれているのだろうと思う。
この年の数々の経験は20年経った今でも忘れられない強烈なイニシエーションだった。病理医になった理由も今ふりかえると、院長先生のような素晴らしい外科医とつねに一緒に仕事できるということも大きかったと思う。あっというまに20年が経ったが、手書きの病理診断報告書やフィルムを使って撮影していた検体の写真は、またたくまに電子カルテやデジカメに変わっていった。細胞の形態だけでどれだけ正確に診断できるか勝負してきた病理医の仕事に、分子レベルで腫瘍細胞の特徴を捉える免疫染色が入り、陽性陰性の二項対立的なジャッジが組み込まれることになった。さらには、遺伝子診断がこの数年であっという間に診断業務に浸透してきた。
現在医学部の学生が学部中に学ぶ専門知識は、医学の急激な進歩に伴い、わたしの時と比べておそらく2倍以上になっているだろう。とにかく何もわからないまま身体を動かしていたわたしたち世代と比較すると、ずっと勉強することが増えてそれはそれで大変そうである。
何よりもこの20年、ゲノム研究が飛躍的な発展を遂げたことが医療のパラダイムシフトの一番の要因である。2000年前後は、ちょうどヒトゲノム計画が進んでいて、人間の全塩基配列が解読された頃である。20年経った現在は、次世代シーケンサーによって1回の検索でヒトゲノムを網羅することも可能になった。遺伝子だけで細胞の働きや性質がすべて解読できるにはまだまだ道のりは長いと思うが、確実に医療の質は様変わりしているのである。
日常生活においてもインターネットが急速に普及し、ここ数年はスマートフォンでいつでもどこでもあらゆる情報を入手できるようになった。COVID19パンデミックでリモートワークのニーズも増し、ネット社会は次のステージに進んだようにも思う。しかし、ツイッターなどのSNSでは、生々しい無編集な言葉が垂れ流され、容赦なく人を傷つけ死に向かわせる。Googleに代表される大雑把なサーチエンジンによって、相変わらずテキストはばらばらに分解され、文字が意味から剥がされるようになっている状況は改善していない。情報はいつだって編集されるのを待っているのに、ただただ流れていく厖大な情報を前に人々は右往左往するばかりだ。
このようにビッグデータ社会が加速する20年間、イシス編集学校は、「方法」を学ぶネットの学校として、社会の片隅で着実に成長してきた。これほどに社会の一番の課題をど真ん中から言い当てている学校は他にはないだろう。だれしも肥大したネットとそこを高速で流れる多量な情報の扱い方、すなわち「方法」がわからず手をこまねいているのだから。
編集学校でひそかに行われるネット上の編集稽古では、文字に多様な意味が宿り、その多元的な可能性によって、集う人々を癒してもきた。先鋭的でありつつもアジール的な側面を併せ持つことは、編集学校の最大の魅力である。ネットなのに懐かしい、ネットなのに日本的といった、不思議な場がじっくり醸成されて現在に至る。
1479夜『人文学と電子編集』は、2012年にアップされた千夜千冊である。2011年の秋に編集学校をビジネススクールだと勘違いして入門したわたしが、破を受講している最中の千夜である。松岡校長はこの本の主題である編集文献学について解説し、そろそろ知的編集組織の浮上が必要であると述べている。本書は、やっと訪れた「編集工学の夜明け」にあたるものだと期待感をにじませているが、この千夜から8年経った現在も夜明けのままのような気もする。新たなナレッジサイトの構築と柔らかいリベラルアーツの発動は、これからの社会に急務である。本千夜にはこうある。
新たなナレッジサイトのためのデジタルアーカイブが劇的に生まれる最大の可能性は、一方ではそうした学知の側からのデジタル・リベラルアーツの構築と編集が期待されるのだが、他方では、知的情報のバリューチェーンとサプライチェーンとを統合できるプロデュース&ディレクター組織が、新たな研究機関や産業界や企業に誕生することにあるのではないかとも思われる。
この千夜から8年経った現在、編集学校の枠を超えた「意味の市場」の試みはまだまだ足りないように思う。昨年に、この遊刊エディストが誕生し、NEXT ISISとして編集学校の外へ編集工学的な試みを提案していく場ができたが、ようやくスタート地点に立ったということだろう。「編集工学の夜明け」はそろそろ脱したい。
イシス編集学校が、社会に編集工学を拡張する企みを実行するときが到来している。オトナ編集学校は、これからもっともっとラディカルになるべきでなのである。
オトナなイシス