東北は土と水の国―千夜千冊1418夜『日本の深層』(梅原猛)はいう。その山が川が海が、人々を生かし、時には命を奪いもしてきた。恵みと災害は表裏一体。そんなワールドモデルの物語を、イシス編集学校未知奥連メンバーの記憶に尋ねた。
阿武隈や五十四郡のおとし水―千夜千冊850夜が紹介している蕪村の一句だ。阿武隈川はかように多くの里を流れ、「奥の細道」でも芭蕉はこの川に沿って旅をした。その一方で、古来「暴れ川」との異名をもち、昨年10月に台風19号がもたらした大雨によって、多くの箇所が氾濫した。
そんな川の近くで暮らすことの怖さをずっと感じてきた、とイシス編集学校[守]鈴木康代学匠はいう。 阿武隈川の源流から、その長さの3分の1ほど下ったところにある郡山に生まれ過ごしてきた。
学匠が愛車の白いオーリスで市内を見て回ると、現在においても閉まったままの店舗があり、道端の交通標識に川の水が運んできた草が引っかかって乾いてしまったままになっていたりもする。
福島県内で床上浸水の被害があった家屋は1137棟、そのうち956棟が郡山市内だった。また、阿武隈川沿いの郡山中央工業団地の被害額は402億円にのぼり、日立が撤退を発表するなど、東日本大震災からの復興に向けて福島県を牽引してきた地元経済への影響が避けられない状況だ。
郡山が現在のような規模の街になったのは、戊辰戦争後、明治新政府の農業水利事業第一号地区として、猪苗代湖から水を引く安積疎水が整備されたことによる。それまで、現在の郡山の中心部は、少雨地帯かつ阿武隈川より高いところにあるため、農業に適さない原野だった。それが、維新後の士族の反乱対策のための開拓地として着目され、琵琶湖・那須ともに日本三大疎水に数えられる治水工事によって、郡山は米穀生産量日本一の市になった。
この疎水は市の観光Webサイトで、大久保利通の「最期の夢」とも紹介されている。郡山は戊辰戦争で大きな犠牲を出した会津藩の土地、その相手方である薩摩藩の大久保の、「『どうして夢にならなきゃいけないんだ』って思いましたけどね、最初に聞いた時は」といつもの笑い含みではありながらも、学匠は強い言葉を口にした。
安積疎水ができる前の江戸時代以前、阿武隈川に沿う奥州街道沿いの宿場町にとって、川は唯一の貴重な水源だった。地域では、有徳者の拠出と住民による毎月の積立で復旧費用のための講をつくって、水害に備えながら、川の恵みを受けていた。そうして川とともにある暮らしを守ることが、共同体を形づくっていたんでしょうね、と学匠は感慨を漏らした。
そのうちのひとつである小原田宿の、川から100メートルほどのところに家がある学匠は、「川で遊ぶな」と言われて育った。ゆったりとしているように見えて実は流れが速い阿武隈川では、水難事故がしばしば起こるという。「だって怖いですもん」と、学匠はその言いつけを守り、冬に土手で草そりをする以上には川に近づかなかった。学匠の感覚では、「海は怖くないんですけど、川と湖はダメなんですよね、落ちる気がして。あ、山の中の川は大丈夫です」ということだそうだ。
「水は怖い」と語った学匠だが、それとは矛盾しないかのように、「ずっと見ていられるんですよ」ともつぶやいた。家の近くの山から見下ろすと、いつも川面が輝いている。波立っているからでなく、悠然と流れているから鏡のように陽の光を映している。乾いた大地にみずみずしい水が流れていて、「母なる川」という表現が腑に落ちる、と。近づくのはおそろしい、でも遠くから眺めると目が離せない、そんな阿武隈川が、白河の関に源流をもつ、東北の入り口の「母国」だ。
千夜千冊1417夜、森崎和江「北上幻想」の副題は、「いのちの母国を探す旅」だ。3.11以降「母国」という言葉に「深遠な愛着をもつようになって、いつかこの言葉を強く発しなければならないと感じてきた」と松岡校長は明かしている。しかし、「母国とは、必ずしもたんに生まれ育ったクニや民族性の中だけで見出せるような、ものではない。」「われわれの「胸の津波」を直撃する“何か”」であり、「探さなければ見つからないもの」だという。
新型コロナウィルス感染症のパンデミックにより、世界中で移動の制限が強まっている。帰りたい場所に帰りにくくなった人、会いたい人に会いにくくなった人も多い。ますます「母国」というトポスを、この言葉の響きとともに、“何か”として想わなければならない事態となってきた。
災害には、CBRNEというカテゴリーがあるそうだ。これは化学 (chemical)・生物 (biological)・放射性物質 (radiological)・核 (nuclear)・爆発物 (explosive)の頭文字で、ここでは放射線と感染症による災害が同じカテゴリーに分類される。
3月半ば、郡山市内の大学に勤務している女性が新型コロナウィルスに感染したという情報によって、大学の学生や関係者が見知らぬ人から「コロナ」と指をさされるなどの嫌がらせが数十件あったという。そのニュースを受けて、「9年前の原発事故時に経験した差別と同じだ」という声があった。
ウィルスも放射能も目に見えないもの、そしてヒトにはハンドリングが困難で、災害が起こった時に終息の見込みが立たない。その不安が「(特定の)大学」「福島」という見知った名前の箱に投げ込まれる。その分類をこそ、言葉を使うひとりひとりが編集しなければ、きっと呼吸困難にならずに有事を生きることはできない。
東北の自然を想い冒頭に「災害と恵みは表裏一体」と書いたが、果たして放射線災害や感染症災害も、ヒトにとっての何らかの恵みの代償だとでもいうのだろうか。目に見えなくておそろしい、だからこそ見つめなければいけない、「胸の津波」そのものの問いだ。
阿武隈川の名前は、小中学校の校歌の歌詞で何度も歌って育った、と学匠はいう。どんな年代の人とも、それぞれの阿武隈川の記憶で話ができる。明治以前の原野から経済で福島県を牽引する都市へ、風景が上書きされても、川だけはずっとそこにある。
阿武隈川の土手は中学校のマラソンコースだった。女子中学生がジャージ姿で友達とおしゃべりするにはいい場所なんですよ、と学匠はいつもの語尾が照れたような笑いになる口調で教えてくれた。部活のランニングの途中で、友達との話に夢中になりながら、見るともなく目に映っていた川を、今も毎日見ている。
林 愛
編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。
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