東北は土と水の国―千夜千冊1418夜『日本の深層』(梅原猛)はいう。その山が川が海が、人々を生かし、時には命を奪いもしてきた。恵みと災害は表裏一体。そんなワールドモデルの物語を、イシス編集学校未知奥連メンバーの記憶に尋ねた。
シーザーが見ていた海は、海岸線ではなく水平線だった。
未知奥連の若頭であり、[守]の師範を務める井ノ上シーザーは、18歳まで八戸市郊外にある高台で過ごした。そこは昭和41年に造成が始まった新興住宅地だった。
少年の自分を想い起そうとすると、高台から少し遠くに見下ろしていた海が見える。
遊刊エディストのオープンとともにDUST記事を連打して、エディストのスピードを体現したシーザー。メディアが軌道に乗ってくると、45[守]学衆に「遊刊エディストの歩き方」を紹介したり、「DUST宣言」のもとDUSTライターを募集したり、止まらぬ勢いのままピカソと三島を同時に擬いたりして、エディストに湿度高めな熱風を送ってきた。(未読の方はシーザー記事の熱帯雨林を渉猟いただき、その後忘れずこの記事に戻ってきてくださいね)
そんな熱気と湿気を帯びたシーザーは、エディストスタート時にはタイのバンコクで駐在員として8年目を迎えていた。その前は大連・北京・蘇州合わせて中国で11年、新卒でメーカーの営業職に就いてからほとんどの時間を海外で過ごしてきた。
それが2020年の春先、COVID-19のパンデミックによって国境を越えた移動が難しくなる直前に、まるで飽和する人々の気分を鋭く受信したかのようにグローバリズムに飽きていたシーザーは、約30年ぶりに八戸に戻ってきた。
父は青森市の生まれ、母は北京生まれ。弘前市出身の母方の祖父は、満州で新聞記者をしていたこともあった。
津軽藩の弘前と南部藩の八戸は、同じ青森県の中でも方言がまったく違い、津軽藩の藩祖である津軽為信が南部に対して下克上をして独立したことから、合い入れないとよく言われる。けれど、シーザーが育ったのは、どちらの方言を話すこともなく、そのような対立軸を意識しない家庭環境だった。
それが、中学・高校と次第に八戸の中心部に通うようになると、どんどん八戸の方言を使うクラスメートたちに囲まれるようになっていった。新興住宅地にはいなかった、漁師や農家の子とも机を並べるようになり、絡まれたりもして、カルチャーショックを受けた。
今いる場所が落ち着かないのは、そのころからずっとだ。居場所がないなぁと思いながら、海の向こうには何があるのだろうと考えていた。
このしっくりこなさが苦しくて、ヒリヒリして、どこに落ち着けばいいのかやるせなくて、もう死に場所を考えるのが面倒だとすら思っていた。
花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける
千夜千冊753夜(西行『山家集』)で取り上げられている一首だ。
そのヒリヒリした自分と、どこか同じだと思えたモデルがあるか聞いた時、シーザーはふたりの名前を挙げた。そのうちのひとりが西行だ。
中国語も英語も使いこなすため、中国では中国人に、タイではタイ人に間違われる。一方で、青森の方言が身についていないため、青森では地元の人だと思われない。シーザーは時々、自分が「キマイラだよなぁ」と思う。
場所によって“擬く”ことができるのと同時に、今まで住んだ土地は記憶の中で分断されている。記憶を想い起こして重ねたりもしない。その理由を尋ねると、「過去を考えてもしかたないじゃないですか」と言い切った。
シーザーのトポスは、今まで住んだ何か国もの土地ではなく、常に“向こう”を想わせる水平線だ。むろんその境界を超えようとして近づいて行っても、海の輪郭線は随時引き直されて遠ざかるばかり。結果として、トポスは位置としての点ではなく、運動としての波が視覚に結晶した水平線となる。
心から心にものを思はせて 身を苦しむるわが身なりけり
惑ひきて悟り得べくもなかりつる 心を知るは心なりけり
753夜は、『山家集』からこの二首を引いて、こう語る。
「このように心を心に見て、その心を心で知ってみるというのは、そもそも何が「うつつ」で何が「夢」かの境界を失うことを覚悟することでもあった。いいかえれば、つねに境界に消息していく生きかたに徹するということだった。」
境界としての水平線が逃げていくのではなく、そもそも境界を無化するために超えようとしているのだ。だから、落ち着く場所はなく、ずっと苦しい。
八戸に戻ってきてから立ち寄ったかつての新興住宅地は、当然ながら全体的に古くなっていた。
海を見ていた公園のジャングルジムはなくなり、海側には家ができて、海が見えなくなった。
2011年の3月11日には中国にいた。戻ってきて、東北の人は傷を負いながら達観している、と感じた。地震はまた起こるものと当然のように思っている。
身体が越境しなくてもここがそのまま、まるでここではないどこかになってしまう可能性が常に頭の中にある。
もちろん、シーザーは移動に飽きたわけではないし、ヒリヒリもし続けている。
それを飼いならす方法もいろいろと試してきた。
シーザーから西行の名前を聞いた時、もうひとり挙がったのはもちろん、編集的先達と掲げるベイトソンの名だ。
千夜千冊1241夜(モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』)は、「世界から魔術が退嬰していったのは、ミメーシスが活用されなくなったからだろう」といい、ミメーシスとは「すべての知識を、身体的に、演劇的に、感応的に解釈するということ」だという。
シーザーも、概念化できない“ヒリヒリ”をやり過ごす魔術を求めて、身体的実験を繰り返してきた。
まず高校時代には演劇部で、自分の上に役を重ね、擬いてみた。
弘前の大学時代には、ワンダーフォーゲル部に所属し、白神山地や八甲田などを巡って3回死にかけた。雪山で手の先が冷たくなり、指を動かすとジンジンする感触に、やっと“ヒリヒリ”に強度で匹敵する“生きてる感”を取り戻した。
それから、好きなJAZZの音の中に埋没し演奏者に擬いて、インプロビゼーションから身体性を得ている。
インタビューは、シーザー自ら同席を願った未知奥連弦主の森由佳師範との3人で、Skypeのグループ通話で行った。
翌日、「近所の寺に座禅に行ったらすっきりしました」とのメッセージがグループに軽やかに届き、森師範がシーザーを評した「甘え上手」との言葉が頭によみがえった。
林 愛
編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。
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