未知奥トポスめぐり 超え続ける水平線―八戸のシーザー

2020/10/13(火)10:01
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 東北は土と水の国―千夜千冊1418夜『日本の深層』(梅原猛)はいう。その山が川が海が、人々を生かし、時には命を奪いもしてきた。恵みと災害は表裏一体。そんなワールドモデルの物語を、イシス編集学校未知奥連メンバーの記憶に尋ねた。

 


 

 シーザーが見ていた海は、海岸線ではなく水平線だった。
 未知奥連の若頭であり、[守]の師範を務める井ノ上シーザーは、18歳まで八戸市郊外にある高台で過ごした。そこは昭和41年に造成が始まった新興住宅地だった。

 少年の自分を想い起そうとすると、高台から少し遠くに見下ろしていた海が見える。

 

 遊刊エディストのオープンとともにDUST記事を連打して、エディストのスピードを体現したシーザー。メディアが軌道に乗ってくると、45[守]学衆に「遊刊エディストの歩き方」を紹介したり、「DUST宣言」のもとDUSTライターを募集したり、止まらぬ勢いのままピカソと三島を同時に擬いたりして、エディストに湿度高めな熱風を送ってきた。(未読の方はシーザー記事の熱帯雨林を渉猟いただき、その後忘れずこの記事に戻ってきてくださいね)

 

 そんな熱気と湿気を帯びたシーザーは、エディストスタート時にはタイのバンコクで駐在員として8年目を迎えていた。その前は大連・北京・蘇州合わせて中国で11年、新卒でメーカーの営業職に就いてからほとんどの時間を海外で過ごしてきた。
 それが2020年の春先、COVID-19のパンデミックによって国境を越えた移動が難しくなる直前に、まるで飽和する人々の気分を鋭く受信したかのようにグローバリズムに飽きていたシーザーは、約30年ぶりに八戸に戻ってきた。

 

 父は青森市の生まれ、母は北京生まれ。弘前市出身の母方の祖父は、満州で新聞記者をしていたこともあった。
 津軽藩の弘前と南部藩の八戸は、同じ青森県の中でも方言がまったく違い、津軽藩の藩祖である津軽為信が南部に対して下克上をして独立したことから、合い入れないとよく言われる。けれど、シーザーが育ったのは、どちらの方言を話すこともなく、そのような対立軸を意識しない家庭環境だった。

 

 それが、中学・高校と次第に八戸の中心部に通うようになると、どんどん八戸の方言を使うクラスメートたちに囲まれるようになっていった。新興住宅地にはいなかった、漁師や農家の子とも机を並べるようになり、絡まれたりもして、カルチャーショックを受けた。
 今いる場所が落ち着かないのは、そのころからずっとだ。居場所がないなぁと思いながら、海の向こうには何があるのだろうと考えていた。
 このしっくりこなさが苦しくて、ヒリヒリして、どこに落ち着けばいいのかやるせなくて、もう死に場所を考えるのが面倒だとすら思っていた。

 

  花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける

 

 千夜千冊753夜(西行『山家集』)で取り上げられている一首だ。
 そのヒリヒリした自分と、どこか同じだと思えたモデルがあるか聞いた時、シーザーはふたりの名前を挙げた。そのうちのひとりが西行だ。

 

 中国語も英語も使いこなすため、中国では中国人に、タイではタイ人に間違われる。一方で、青森の方言が身についていないため、青森では地元の人だと思われない。シーザーは時々、自分が「キマイラだよなぁ」と思う。
 場所によって“擬く”ことができるのと同時に、今まで住んだ土地は記憶の中で分断されている。記憶を想い起こして重ねたりもしない。その理由を尋ねると、「過去を考えてもしかたないじゃないですか」と言い切った。

 

 シーザーのトポスは、今まで住んだ何か国もの土地ではなく、常に“向こう”を想わせる水平線だ。むろんその境界を超えようとして近づいて行っても、海の輪郭線は随時引き直されて遠ざかるばかり。結果として、トポスは位置としての点ではなく、運動としての波が視覚に結晶した水平線となる。

 

  心から心にものを思はせて 身を苦しむるわが身なりけり
  惑ひきて悟り得べくもなかりつる 心を知るは心なりけり

 

 753夜は、『山家集』からこの二首を引いて、こう語る。

 「このように心を心に見て、その心を心で知ってみるというのは、そもそも何が「うつつ」で何が「夢」かの境界を失うことを覚悟することでもあった。いいかえれば、つねに境界に消息していく生きかたに徹するということだった。」

 

 境界としての水平線が逃げていくのではなく、そもそも境界を無化するために超えようとしているのだ。だから、落ち着く場所はなく、ずっと苦しい。

 

 八戸に戻ってきてから立ち寄ったかつての新興住宅地は、当然ながら全体的に古くなっていた。
 海を見ていた公園のジャングルジムはなくなり、海側には家ができて、海が見えなくなった。

 

 2011年の3月11日には中国にいた。戻ってきて、東北の人は傷を負いながら達観している、と感じた。地震はまた起こるものと当然のように思っている。
 身体が越境しなくてもここがそのまま、まるでここではないどこかになってしまう可能性が常に頭の中にある。

 

 もちろん、シーザーは移動に飽きたわけではないし、ヒリヒリもし続けている。
 それを飼いならす方法もいろいろと試してきた。

 

 シーザーから西行の名前を聞いた時、もうひとり挙がったのはもちろん、編集的先達と掲げるベイトソンの名だ。
 千夜千冊1241夜(モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』)は、「世界から魔術が退嬰していったのは、ミメーシスが活用されなくなったからだろう」といい、ミメーシスとは「すべての知識を、身体的に、演劇的に、感応的に解釈するということ」だという。
 シーザーも、概念化できない“ヒリヒリ”をやり過ごす魔術を求めて、身体的実験を繰り返してきた。

 

 まず高校時代には演劇部で、自分の上に役を重ね、擬いてみた。
 弘前の大学時代には、ワンダーフォーゲル部に所属し、白神山地や八甲田などを巡って3回死にかけた。雪山で手の先が冷たくなり、指を動かすとジンジンする感触に、やっと“ヒリヒリ”に強度で匹敵する“生きてる感”を取り戻した。
 それから、好きなJAZZの音の中に埋没し演奏者に擬いて、インプロビゼーションから身体性を得ている。

 

 インタビューは、シーザー自ら同席を願った未知奥連弦主の森由佳師範との3人で、Skypeのグループ通話で行った。
 翌日、「近所の寺に座禅に行ったらすっきりしました」とのメッセージがグループに軽やかに届き、森師範がシーザーを評した「甘え上手」との言葉が頭によみがえった。

  • 林 愛

    編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。

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コメント

1~3件/3件

山田細香

2025-06-22

 小学校に入ってすぐにレゴを買ってもらい、ハマった。手持ちのブロックを色や形ごとに袋分けすることから始まり、形をイメージしながら袋に手を入れ、ガラガラかき回しながらパーツを選んで組み立てる。完成したら夕方4時からNHKで放送される世界各国の風景映像の前にかざし、クルクル方向を変えて眺めてから壊す。バラバラになった部品をまた分ける。この繰り返しが楽しくてたまらなかった。
 ブロックはグリッドが決まっているので繊細な表現をするのは難しい。だからイメージしたモノをまず略図化する必要がある。近くから遠くから眺めてみて、作りたい形のアウトラインを決める。これが上手くいかないと、「らしさ」は浮かび上がってこない。

堀江純一

2025-06-20

石川淳といえば、同姓同名のマンガ家に、いしかわじゅん、という人がいますが、彼にはちょっとした笑い話があります。
ある時、いしかわ氏の口座に心当たりのない振り込みがあった。しばらくして出版社から連絡が…。
「文学者の石川淳先生の原稿料を、間違えて、いしかわ先生のところに振り込んでしまいました!!」
振り込み返してくれと言われてその通りにしたそうですが、「間違えた先がオレだったからよかったけど、反対だったらどうしてたんだろうね」と笑い話にされてました。(マンガ家いしかわじゅんについては「マンガのスコア」吾妻ひでお回、安彦良和回などをご参照のこと)

ところで石川淳と聞くと、本格的な大文豪といった感じで、なんとなく近寄りがたい気がしませんか。しかし意外に洒脱な文体はリーダビリティが高く、物語の運びもエンタメ心にあふれています。「山桜」は幕切れも鮮やかな幻想譚。「鷹」は愛煙家必読のマジックリアリズム。「前身」は石川淳に意外なギャグセンスがあることを知らしめる抱腹絶倒の爆笑譚。是非ご一読を。

川邊透

2025-06-17

私たちを取り巻く世界、私たちが感じる世界を相対化し、ふんわふわな気持ちにさせてくれるエピソード、楽しく拝聴しました。

虫に因むお話がたくさん出てきましたね。
イモムシが蛹~蝶に変態する瀬戸際の心象とはどういうものなのか、確かに、気になってしようがありません。
チョウや蚊のように、指先で味を感じられるようになったとしたら、私たちのグルメ生活はいったいどんな衣替えをするのでしょう。

虫たちの「カラダセンサー」のあれこれが少しでも気になった方には、ロンドン大学教授(感覚・行動生態学)ラース・チットカ著『ハチは心をもっている』がオススメです。
(カモノハシが圧力場、電場のようなものを感じているというお話がありましたが、)身近なハチたちが、あのコンパクトな体の中に隠し持っている、電場、地場、偏光等々を感じ取るしくみについて、科学的検証の苦労話などにもニンマリしつつ、遠く深く知ることができます。
で、タイトルが示すように、読み進むうちに、ハチにまつわるトンデモ話は感覚ワールド界隈に留まらず、私たちの「心」を相対化し、「意識」を優しく包み込んで無重力宇宙に置き去りにしてしまいます。
ぜひ、めくるめく昆虫沼の一端を覗き見してみてください。

おかわり旬感本
(6)『ハチは心をもっている』ラース・チットカ(著)今西康子(訳)みすず書房 2025