<多読ジム>Season10・春の三冊筋のテーマは「男と女の三冊」。今季のCASTは中原洋子、小路千広、松井路代、若林信克、増岡麻子、細田陽子の面々だ。男と女といえば、やはり物語。ギリシア神話、シェイクスピア、メリメ、ドストエフスキー、ポール・ボウルズ、アレクシエーヴィチ、『とりかへばや物語』に漱石に有島に春樹に村田沙耶香までが語られる。さらに話は、戦争や民俗学や生物学やフェミニズムやブルシット・ジョブにも展開していく。
砂漠を歩く女、女を見下ろす空
彼女の目の前には果てしない砂漠だけがあった。ポール・ボウルズ『シェルタリング・スカイ』はニューヨークに暮らす作曲家のポートとその妻キットの物語だ。夫婦関係にも都会の暮らしにも倦怠感を覚えていた二人は新天地を求めて、友人のタナ―とともに北アフリカへ旅立つ。あやふやな三角関係を漂わせるなか、腸チフスに感染したポートは苦しみながら死去する。夫の死が夫婦の愛を気づかせたーーーそんな皮肉な結果に混乱したキットは宿舎を抜け出し、ひとりサハラ砂漠を放浪する。そして、さらなる悲劇に襲われる。
舞台は終盤、キットとポートが旅を始めたアフリカの町、アルジェへ戻るが、美しく都会的だったキットに落とされた影は永遠に消えることはなかった。
神が生まれ、世界が始まった
アメリカ文明とアフリカの大自然の下で男女が交錯するよりも遥か昔。光も形もない「虚空」から天と地を司る神が現れた。天空の神はウラノス、地の女神はガイアだ。串田孫一『ギリシア神話』では、ウラノスとガイアをはじめとした神々の物語が綴られる。天と地の神が交わり、地上に山や木、花、生物を、天には星が生まれ世界が始まった。ガイアの子孫である神々は社会の秩序や繁栄だけでなく恋、好奇心、死など様々なものをこの世にもたらしていく。
故国の呪縛から逃れて
キットを惑わせ、ポートを死に至らしめたのも神の裁量だったのだろうか。アフリカに広がる虚空、足にまとわりつく砂は彼女の心身の平穏を奪い、「帰還の不能」を示唆する。情熱を取り戻そうとした夫婦の結末は余りにも残酷だった。
しかし、生まれた地から逃れられず、家族への呪縛に囚われる苦しみも過酷といえる。荒木優太の『有島武郎―地人論の果てへ』は作家、有島武郎の一生を地理学的概念「地人論」に重ねて論考するものだ。薩摩藩の下級武士であった父は、長男の武郎に対して過度な期待をかけ、儒教と西洋文明との二元的な教育を施した。アメリカ留学を機にアナーキズムに目覚めた武郎は、日本での家長制度から逃れるようにユートピアを求めて文学活動へ進む。
「生まれ落ちた地球上のある座標、自分の生まれ故郷なるものは個人の意志ではどうしようもない宿命的なもの」と唱える「地人論」を抱えながらも「魂」や「人間の個」を文学から交換し合いたい。それが武郎の夢見た未来だった。
空と地は何を護るのか
サハラ砂漠を眺めながらポートは妻に語る。「このへんの空は、じつにふしぎだね。ぼくはよく空を見ていると、それが何か堅固なものでできていて、その背後にあるものからぼくらを庇護してくれているような感じがする」
映画『シェルタリング・スカイ』より(監督/脚色:ベルナルド・ベルトルッチ,1990年公開)
恵まれたアメリカでの暮らしを捨て、アフリカで再出発しようとした彼らも、広大な砂漠や疫病の前では完全に無力だった。空という神は彼らを護るのではなく、冷徹にその手を放したのだろうか。
アメリカの文明を倦んだポートとキットはアフリカの地にまみれ、汚され、生まれたままの人間に還った。血脈の呪縛を宿命と見なした武郎は、祖父の建てた別荘で心中を選んだ。帰還の途はポート、キット、武郎それぞれが目指した「解放」とはまったく異なるものだったかもしれない。しかし、故国の地から遠ざかれば遠ざかるほど、最果てに向かえば向かうほど、新しい血が混ざり合い純度は落ちてゆく。その混沌とした魂こそ、男と女の本来の姿なのだという、神のささやきが聴こえてくる。
映画『シェルタリング・スカイ』より(監督/脚色:ベルナルド・ベルトルッチ,1990年公開)
Info
※アイキャッチ画像はイメージ
『シェルタリング・スカイ』ポール・ボウルズ/新潮社
映画『シェルタリング・スカイ』より(監督/脚色:ベルナルド・ベルトルッチ,1990年公開)
『有島武郎―地人論の最果てへ』荒木優太/岩波書店
『ギリシア神話』串田孫一/筑摩書房
多読ジム Season10・春
∈選本テーマ:男と女の三冊
∈スタジオよーぜふ(浅羽登志也冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐
著者プロフィール
∈ポール・ボウルズ
作曲家、作家、翻訳家。ニューヨーク生まれ(1910~1999年)。本著の映画『シェルタリング・スカイ』(1990年公開)の原作者としてその名は広く知られる。17歳のときアーロン・コープランドと出会い、その後コープランドの元で作曲を学ぶようになる。20代、30代の間、ニューヨークの劇場のために音楽を書いて生活をする一方で、ヨーロッパ、北アフリカ、南米、メキシコと世界中を旅する生活を送っていた。1931年にモロッコのタンジールを訪れたのがきっかけで、1947年よりそこに居を構え永住する。師であったコープランドとは、友人、同僚として世界各地を旅している。ボウルズは異郷的な場所やものに強く惹かれる傾向があり、自身の音楽には世界各地のメロディーやリズムの影響が見られる。作曲家としての仕事以外に、モロッコ各地を訪れローカルの音楽を録音、収集し、レコードとして残している。
またフランス語をはじめ、語学に長けており、モロッコ文学の翻訳もしている。ガートルード・スタイン、テネシー・ウィリアムズ、アレン・ギンズバーグ、ウィリアム・バロウズなど当時の人気作家たちとの交流も多い。主な著書に『極地の空 The Sheltering Sky』、『雨は降るがままにせよ Let It Come Down』など、主な音楽に「2台のピアノのための協奏曲」などがある。
∈荒木優太
日本の日本文学研究者。2009年3月、明治大学文学部卒業。2011年3月、明治大学大学院文学研究科日本文学専攻博士前期課程修了(修士論文題目「有島武郎のアナクロニズム―『或る女』と『断橋』の間で」)。2015年に投稿評論「反偶然の共生空間―愛と正義のジョン・ロールズ」が第59回群像新人評論賞優秀賞を受賞(選考委員は大澤真幸、熊野純彦、鷲田清一)。同作について、法哲学者の吉良貴之は「ロールズ『正義論』の意欲的な読み方を示すものであるとともに、ご専門の近代日本文学への応用可能性も感じさせ、いわば〈法と文学〉の実践例としてとても興味深い」と評している。大学に所属しない「在野研究者」を自称し、En-Soph、パブー、マガジン航などのウェブ媒体を中心に日本近代文学の研究やフランス哲学の作品翻訳などを発表している。おもな著作に『これからのエリック・ホッファーのために―在野研究者の生と心得』(東京書籍、2016年3月)などがある。
∈串田孫一
1915年、東京市芝区生まれ。父は三菱銀行会長の串田萬蔵。駿河台や永田町や一番町に育つ。1938年東京帝国大学文学部哲学科卒。中学時代から登山を始めた。1938年、処女短編集『白椿』を刊行、戦前は上智大学で教鞭をとる。戦後、1946年に『永遠の沈黙 パスカル小論』を上梓、『歴程』同人となる。旧制東京高等学校で教鞭をとり、1955年、最初の山の本『若き日の山』を上梓、1958年、尾崎喜八らと山の文芸誌『アルプ』を創刊、1983年に終刊するまで責任編集者を務めた。また矢内原伊作や宇佐見英治らが創刊した文芸誌『同時代』にも同人として参加。東京外国語大学教授を務めたが1965年退官。同年から1994年までFMラジオ番組「音楽の絵本」でパーソナリティを務めた。初見靖一の筆名をもつ。1980年に紫綬褒章を受章。2005年7月8日に老衰のため死去。著作は『山のパンセ』をはじめ、山岳文学、画集、小説、人生論、哲学書、翻訳など多岐に
わたる。長男は俳優・演出家の串田和美。
増岡麻子
編集的先達:野沢尚。リビングデザインセンターOZONEでは展示に、情報工場では書評に編集力を活かす。趣味はぬか漬け。野望は菊地成孔を本楼DJに呼ぶ。惚れっぽく意固地なサーチスト。
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