【三冊筋プレス】食と共存、その願いとは(増岡麻子)

2023/04/19(水)08:00
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SUMMARY


 私たちが食べてきたものとは何か。思い返すとそこには過ごしてきた日々の記憶がつき纏う。例えばおやつには家族や友人とのエピソードが潜んでいて、おやつを前にすると誰もが子どもの表情に戻る。小川糸が紡ぐ生死が混ざりあう場に「おやつ」はやさしく私たちを待ち受けている。記憶は台所にも瀬戸内海を臨むホスピスにも、どこだか分からない皆から忘れ去られた世界にも横たわる。
 ブローティガンが描く西瓜糖でできたコミュニティ「アイデス」と〈忘れさられた世界〉はもろく、儚い。甘い西瓜を煮詰めたときに漂うのは命の滋味か、悲劇か。
 イラストルポライターの内澤旬子は廃屋を改造して、三頭の豚を食べるために飼う。豚を交配させ、育て、共に過ごしたのちにかれらを屠殺し、調理して食べる。かれら三頭の存在は内澤の体内に残り続けていると実感する。
 もう少し生き長らえたい、生きた証を感じたい。どこにもないものをまとわせながら、生命の感触を信じたい。どんなかたちであってもその望みとともに「食」はあるのだ。


 

■人生を肯定するもの、おやつ
 食べるという行為と味わうことで生まれる感情はつながっている。
 小川糸の『ライオンのおやつ』は瀬戸内海のホスピスで最後の日々を過ごす主人公、雫の物語だ。余命を宣告されホスピスでの穏やかな生活のなかで、身体が弱り、意識が遠のいてくる雫がかろうじて時間の感覚を取り戻すのは、週に一度、日曜日の午後三時からおやつの間で開かれる、おやつの時間だった。この時間が来ることで一週間経ったことがわかる。雫の生きる希望であり、節目にもなっていた。「おやつの記憶は、喜びや楽しさをまとっている。人生を肯定的に受け取れるのでないかと思いました」と小川は語る。

 

■何でもないもの、西瓜糖
 私たちが生きた時間と記憶とはふと蘇るものかもしれない。『西瓜糖の日々』で描かれるコミューン的な場所、“アイデス”(iDEATH)ではあらゆるものが西瓜糖で作られる。橋も家も言葉も西瓜糖でできているのだ。そして、もうひとつ“忘れられた場所”という空間に住み着いている男性「インボイル」とその仲間。虎に食べられた両親とその虎を殺した「わたし」。愛や暴力、喪失を描く寓話的な作品だ。ブローティガンが綴る西瓜糖でできた“アイデス”と“忘れられた場所”は もろく、儚い。甘い西瓜を煮詰めたときに漂う気配は命の滋味か、悲劇か。

 

■畜産が体内に残したもの
 イラストルポライターの内澤旬子は廃屋を改造して、三頭の豚を飼った。目的は食べるため。世界各地の屠畜現場を取材してきた著者が抱いた、家畜が「肉になる前」が知りたいという欲望が彼女を突き動かす。受精から立ち会った三匹を育て、やがて食べる会を開く。この経験から得たのは畜産とは単純なサイクルではないという事実だ。生き物を育てていれば、愛情は自然に湧く。「健やかに育て」と愛情をこめて育て、それを出荷つまり殺して肉にして経済とする。ここに内澤はある種の豊かさを感じるという。

 私たちが食べてきたものとは何か。思い返すとそこには過ごしてきた日々の記憶がつき纏う。おやつには家族や友人とのエピソードが潜んでいるからか、おやつを前にすると大人の誰もが子どもの表情に戻る。小川糸が紡ぐ生死が混ざりあう場に「おやつ」はやさしく私たちを待ち受けている。記憶は台所にも瀬戸内海にもホスピスにも、どこだか分からない、忘れ去られた世界にも横たわる。                       

 内澤の体内に、三頭の豚の存在はしっかりと残り続けている。
 もう少し生きていたい、生きた証を感じたい。どこにもないものをまとわせながら、生命の感触を信じたい。他者の命の死と生と、自分との共存を感じたい。どんなかたちであっても、その願いとともに「食」はあ
るのだ。

 

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕
∈『ライオンのおやつ』小川糸/ポプラ社
∈『西瓜糖の日々』リチャード・ブローティガン/河出書房新社
∈『飼い喰い 三匹の豚とわたし』内澤旬子/KADOKAWA

⊕多読ジム Season13・冬⊕

∈選本テーマ:食べる3冊

∈スタジオ*スダジイ(大塚宏冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体

 

    『ライオンのおやつ』 
   /          \
 『西瓜糖の日々』――『飼い喰い 三匹の豚とわたし』


  • 増岡麻子

    編集的先達:野沢尚。リビングデザインセンターOZONEでは展示に、情報工場では書評に編集力を活かす。趣味はぬか漬け。野望は菊地成孔を本楼DJに呼ぶ。惚れっぽく意固地なサーチスト。