【追悼】松本零士先生「マンガのスコア LEGEND24メカと美女、そしてロマン」加筆版

2023/02/26(日)13:00
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※(2023/2/25記)

突然の松本零士先生の訃報に衝撃を受けているところです。

最近、レジェンドな作家が次々と鬼籍に入られるので、若干、心臓が強くなってきたように思っていたのですが、さすがにこれはこたえましたね。

 

下の本文を読んでいただければわかるように、私は松本アニメ全盛期の70年代後半に小学生時代を過ごした、まさに直撃世代です。

私より、もう一回り上の、大きいお兄さんたち(60年前後生まれのいわゆるオタク第一世代(浦沢直樹の回参照)たち)は、もう少しマニアックな見方をしていたかもしれませんが、私たち小学生世代にとって松本零士は、ただひたすら問答無用でカッコイイものでした。青年の鬱屈など無縁な子供にとって、鉄郎は、もちろん映画版の二枚目バージョンで決まりです。ハーロックもカッコよかった。

いつまでも耳に着いて離れない「われらの旅立ち」とともに松本零士先生のご冥福をお祈りしたいと思います。

 

◇◆◇◆◇

 

(以下2021/3/23筆再掲)

 今を去ること十年ほど前、「宇宙戦艦ヤマト」の実写映画が公開されました。主演の木村拓哉が何かと笑いの的になっていたことを覚えている人もいるでしょう。

 キムタクともあろうものが、何故あんな大失敗することがハナから見えている地雷感満載のオファーを受けたんでしょう。ある世代の男子にとって、ヤマトのコクピットに乗れるという魅力は、それほど抗しがたいものだったのかもしれません。

 

 ところで、男子は機械好きが多いですよね。クルマ・鉄道・航空機などの乗りもの系、戦車・戦艦・戦闘機などの兵器類、モデルガンなどの銃火器、あるいは腕時計、オーディオ機器、カメラ、パソコン、アマチュア無線etc…。

 なんで男子はこんなに機械が好きなんでしょう。私も男子ですが、機械全般が大の苦手で、世の男子の機械好きには奇異なものを感じます(クルマは、ただの移動の手段にしか見えませんし、時計は単に時刻を知るための道具なので、安くて文字盤の見やすいものを使っています)。

 Legend50の面々から、機械への嗜好性の強い作家を探してみると、鳥山明、大友克洋、宮崎駿の名前が浮かびます。これらの人の描く機械類には彼らの偏愛ぶりがうかがわれて、機械オンチの私にすら、なまめかしい魅力が伝わってきます。しかしダントツは、やはり松本零士でしょう。

 メカを描かせると右に出る者はいないと言われる松本零士ですが、その魅力を解明するためにも、ここは一つガンバッてメカの出てくるコマを描いてみようと思います。

 

松本零士「銀河鉄道999」模写

(出典:松本零士『銀河鉄道999』②少年画報社)

 

 一、二コマ目にメカっぽい構造物がちょこっとだけ出てきますが、こんなもんで勘弁してください。 表面に丸っこいメーターのようなものが見えますね。松本零士の機械へのフェティシズムは、戦艦や戦闘機などの乗り物本体もさることながら、コクピットの中、とりわけ計器類に向かいます。俗に【零士メーター】とも呼ばれていますが、アナログな計器類に対する偏愛ぶりは尋常でないレベルで、とにかく過剰にごちゃごちゃ密集している状態を好んで描きます。

 そして機械自体にも、微妙に【ペンタッチ】がついていますね。ふつうメカの輪郭は均一な線を引くものですが、松本零士の場合、かなりしっかりと強弱がついていて、どこか【有機的】な感じがします。松本零士は、あきらかに機械を、意思を持った生命体だと思っていますね。

 その上【描き文字】までが、どこか有機的です。あの歯磨きのチューブのような独特の形状の描き文字には、妙な色気を感じます。

 

 ところで田中圭一先生情報によると、松本零士は、なんと【カブラペン】で作画しているのだとか。これは竹宮恵子のカブラペン以上に衝撃的です。私は、もしも人から「Gペンって、どんなペンですか」と聞かれたら「松本零士みたいなのが典型的なGペンの線です」と答えるつもりでした。まことに汗顔の至りです。

 

 一方、コマ構成の方を見ていくと、これまた独特です。変則的なコマ使いを好む作家は珍しくありませんが、松本零士はちょっと極端なぐらいそれが多くて、ほぼ全編、変形ゴマです。とくに【薄くスライスしたようなコマ】が多いですね(このページは長方形のコマが出てきますが、松本零士にしては珍しいことです)。

 変形ゴマを多用する作家としては、ほかに手塚治虫、石ノ森章太郎などがいますが(連載第一回、手塚治虫①の模写を見てください)、この両者は’50~60年代を通して、コマ割りの実験をしてきた人たちです。ちょうど、プログレッシブロック(=前衛ロック)が、やがて伝統芸になっていったように、当初は実験的で斬新な試みだったものが、そのまま手癖として残ってしまっているようなところがあります。

 しかし、松本零士は、そのような実験性に対する娑婆っ気のようなものは、あまり感じられません。むしろこういうふうにしか描けないから描いている、という雰囲気が濃厚です。彼の中に充溢している叙情やポエムな感性が、スクエアなコマ割りを許さないのでしょう。

 

■少女マンガからSFまで

 

 松本零士は1938年1月25日生れ。これは、なんと石ノ森章太郎と全く同じ生年月日です。

 つまり松本零士は、トキワ荘グループや劇画系の人たちと、だいたい同じ世代なのですね。出自も彼らと、どこか似ていて、最初は「漫画少年」への投稿から始まったというあたりがいかにもです。そして高校在学中には、すでに「毎日小学生新聞」に連載を持っていました(ちなみに手塚治虫、藤子不二雄、園山俊二のデビューも「毎日小学生新聞」です)。

 高校卒業後に上京。初期の頃はやっぱり少女マンガ家でした。このへんも、この世代の作家に共通していますね。ご本人にとって少女マンガは意に染まぬ仕事だったと回想していますが、これはちょっと意外です。というのも松本あきら(当時のペンネーム)の少女マンガは、とても手慣れていて、しかたなく描いていたという感じはしません。

 

 60年代初頭までの松本零士は、どこからどう見ても少女マンガ家でした。しかし60年代に入る頃から、少女マンガの世界は、水野英子や、牧美也子(松本零士の奥さん!)など女性作家の時代になり、男性作家が、しだいに駆逐されるようになっていきます。松本零士も徐々に少年誌にシフトしていくようになり、ようやく自分のやりたかったSFマンガに、次々と着手していくようになりました。

 

(『電光オズマ』①若木書房/『潜水艦スーパー99』秋田書店)

 

 60年代の終わり頃が、メカや美女、独特のカット割りなどの松本零士スタイルが、急速に完成していく時期に当たります。

 一つの転機となったのが、青年誌に進出して初の連載となった「セクサロイド」(1968~70)でした。ここで松本零士特有の、爬虫類的な、ぬめっとしたプロポーションと、足下まで届く極端に長いブロンドの髪をまとった美女のスタイルが、ほぼ完成します。その後しばらく「漫画ゴラク」は、松本零士の描く美人画が表紙を飾っていました(ご関心ある方は「漫画ゴラク 松本零士」で画像検索してみてください。他にも「漫画アクション」のモンキー・パンチとか「プレイコミック」の石森章太郎など、青年誌の表紙は一人の作家が毎回、美人画を描いて雑誌のカラーを出していた時代があったのです)。

 

 東芝のマスコットキャラとのタイアップマンガ「光速エスパー」(1968~70)などを見ると、松本零士の画風が完全に確立していることがわかります。メカにしろキャラにしろ「電光オズマ」(1961~62)、「潜水艦スーパー99」(1964~65)などの60年代前半の作品と比べても格段に進化していますね。ほんの数年のあいだに松本零士の、あの独特のスタイルが完成していったのです。

 

(『セクサロイド』①朝日新聞出版/『光速エスパー』①朝日ソノラマ)

 

■メジャー化への第一歩

 

 しかし、ようやく自分の好きなスタイルで好きなマンガを描けるようになった松本零士ですが、人気には程遠く、きわめてマニアックなSFマンガを描く人、というポジションにとどまっていました。

 松本零士がメジャー化へ踏み出す第一歩となったのは、SFでもファンタジーでもなく、四畳半ものである「男おいどん」(1971~73)でした。

 松本の四畳半ものは「別冊漫画アクション」連載の『元祖大四畳半大物語』(朝日新聞出版)が先行していたのですが、「少年マガジン」でスタートした『男おいどん』(講談社)の方で人気が沸騰したのです。この作品、夢だけは大きいが、何者でもない青年の鬱屈の日々を描いた青春もので、子どもが読んで面白いものだったのか謎なのですが、とにかく松本零士最初の大ヒット作品となりました。当時の「少年マガジン」の読者層が、かなり高年齢化していたことを伺わせます<1>。

 

(『男おいどん』①講談社)

 

 このあと、いよいよ「松本零士の時代」が始まるのですが、このへんから、私自身、物ごころがつき始めた時期にあたるので、どうにも冷静ではいられません。

 

■いよいよ「松本零士ブーム」到来

 

 松本零士のマンガとアニメの関係は切っても切れないものがあり、とりわけ70年代後半期に大爆発と言っていい盛り上がりを見せた「松本零士ブーム」は、正確には「松本零士アニメブーム」でした。もちろん原作マンガも人気を呼び、特に『銀河鉄道999』(少年画報社)は、「少年キング」の看板作品として長期連載されていました。とはいえ、やはりアニメの盛り上がりが第一であったのは否めません。

 若い頃より、手塚治虫に劣らぬほど、アニメ制作に執心<2>していた松本零士は、「宇宙戦艦ヤマト」の制作に関わって以降、単なる原作者の立場を超えて、積極的にアニメ制作の現場に関わっていくことになります。「ヤマト」に関しては、のちに司法を巻き込む泥沼の闘争となり、事実関係もかなり錯綜していますが、松本が、かなりな程度関わっていたのは間違いないところでしょう(絵コンテはおろか原画まで、かなり描いていたとされています)。

 

(『松本零士・初期SF作品集』小学館)

「ヤマトは松本零士のもの」であることを

様々な角度からアピールした作品集

 

 70年代後半期、私を含む多くの子どもたちにとって「宇宙」のワクワク感を感じさせてくれるのは、「スター・ウォーズ」よりも、「ヤマト」や「999」でした。

 とにかく松本アニメには、その独特のフォルムを持ったキャラクターたちや、怪しげな女性スキャットの流れる劇伴音楽のムードなどとあいまって、何か強烈な印象を子ども心に植え付けるものがありました。

 

「宇宙戦艦ヤマト」の、主人公・古代進のお兄さんが、艦長の制止を振り切って強大な敵に体当たり攻撃を仕掛けていくシーンは、今でも強烈に目に焼きついています。敵勢の集中砲火を浴びながら宇宙の藻屑と消えていく姿には、なんともいえぬ悲壮美がありました。

 それは平家物語の昔から、近代戦における特攻の美学にいたるまで、連綿とつづいてきた危険で甘美なエートスでもあります。松本零士の宇宙SFには、単なるスペースオペラにはない、唯一無二の独特の香りがありました。

 

■充実の黄金時代

 

 1974年の初放映時は不振により半年で打ち切りになったテレビアニメ「宇宙戦艦ヤマト」ですが、再放送で人気に火がつき、「月刊OUT」などの特集で、マニア筋の評価を獲得し始めます(大島弓子の回で紹介したとおり、初期のコミケは少女マンガ中心だったのですが、このへんからアニメ勢が参入してくる流れが出てきました)。

 1977年の劇場版の上映あたりから、いよいよブームは本格的なものとなり、翌1978年「さらば宇宙戦艦ヤマト」で、マニア層を超えた全国的大ヒット作品となります。それから毎年夏休みシーズンになると松本アニメが公開され、ヒットを連発する数年が続きました。大雑把な年譜を作るとこんな感じです。

 

1977年夏「宇宙戦艦ヤマト」    配収9億

1978年夏「さらば宇宙戦艦ヤマト」 配収21億

1979年夏「銀河鉄道999」       配収16.5億

1980年夏「ヤマトよ永遠に」    配収13.5億

1981年夏「さよなら銀河鉄道999」   配収11.5億

1982年夏「わが青春のアルカディア」配収6.5億

 

数字からも如実に読み取れますが、当時リアルタイムで少年時代を過ごした私自身の実感からしても、松本零士最後の盛り上がりは「さよなら銀河鉄道999」で、翌年の「わが青春のアルカディア」は、イマイチ盛り上がっていませんでした。

 

 実は「わが青春のアルカディア」は、私が生まれて初めて一人で観に行った劇場映画でした。「ヤマト」や「999」などの劇場版は、テレビ放映での鑑賞だったので、松本アニメを初めて封切時に観るという体験にワクワクしつつも、すでに時代は松本零士ではなくなりつつあることも、うっすらと感じてはいました。そして、なんとなく予想していたとおり、イマイチ楽しめずガッカリして劇場を出た記憶があります。タイミングを逃しちゃったのですね。

 

 それにしても、当時のマンガやアニメを巡る状況は、進化発展のスピードも速く、今の我々の目から見ると、まさにドッグイヤーという感じがします。松本零士ブームというのも、急速に盛り上がったかと思うと、あっという間に収束していったのですね。私自身は「こども時間」を生きていたので、けっこう長く感じていましたが、こうして、あらためて年譜をたどってみると、思いの外、短かったことに驚かされます。

それでも、この70年代後半からの一時期、超新星のように強い光芒を放った「松本零士の時代」は、同時代を伴走した者にとっては、いつまでも燦然と輝き続ける奇跡の時代なのです。

 

 

◆◇◆松本零士のhoriスコア◆◇◆

 

【零士メーター】92hori

銀河鉄道999の機関室のビジュアルは印象的ですが、もはや合理的な観点からは逸脱していますね。冷静に考えれば、あんなにメーターはいらないだろうと思うのですが、とにかくカッコイイからいいのです。

 

【ペンタッチ】77hori

メカに入り抜きの強い線を入れる傾向は、高橋留美子にも見られますね。たぶん松本零士の影響でしょう。

ちなみにかつて松本零士のアシスタントをしていた新谷かおるの証言によると、松本零士は定規やコンパスの使用を極端に嫌い、メカもできるだけフリーハンドで描くように指導していたそうです。

 

【有機的】83hori

宇宙戦艦ヤマトの、波動砲のついてる舳先が極端に膨らんだパースは、子どもの頃はなんの疑問も感じていませんでしたが、よく考えると不思議なフォルムです。もともと戦艦大和の船首は、バルバス・バウ(球状船首)と呼ばれる、流体力学的に波をスムーズに通り抜けるためのデザインになっているのですが、それがヤマトになると、喫水線下だけでなく全体的に丸みを帯びた形にデフォルメされているのですね。もはや、あの特徴的なパースを抜きにしてヤマトは考えられないほどイメージを決定づけてしまいました。

 

(2024年1月6日こっそり追記)

のち、あの独特のフォルムの淵源は小沢さとる先生にあると知る。

https://ameblo.jp/addicto/entry-12503031155.html

 

松本先生自身は、あのパースが、さほど得意ではなかったという説も。

https://ameblo.jp/addicto/entry-12513668788.html?frm=theme

 

【描き文字】66hori

子どもの頃の私が強く反応したのは、メカよりもむしろ、あの独特の描き文字の方でした。あの描き文字は大好きで、よく真似したものです。

 

【カブラペン】75hori

今回の松本零士の模写はさすがにGペンを使いました。なにしろ田中先生ですら松本タッチの絵を描くときに「松本先生は、なんとカブラなんですよ~」とか言いながらGペンに持ち替えてましたし(笑)

 

【薄くスライスしたようなコマ】89hori

縦にスライスしていたり、横にスライスしていたりすることが多いのですが、あんなに細長いと、絵が描きづらくってしょうがないと思うのですが、平気なんでしょうか。

 

 

  • ◎●ホリエの蛇足●◎●

 

<1>1968年「早稲田大学新聞」の見出しに載った「右手にジャーナル、左手にマガジン」の標語が、ちょっとした流行語になるほど、当時の「少年マガジン」は大学生が読むものになっていました。当時の読者層のうち55%が大学生・社会人だったというデータもあります。表紙に横尾忠則を起用したり、大伴昌司に先鋭的なグラビア企画をさせたりと、攻めに攻めていた「マガジン」ですが、看板作品であった「巨人の星」の連載終了と、「あしたのジョー」の休載を機に70年秋ごろから部数が雪崩を打ったように落ちていきます。実は「マガジン」の大部数は両作品の人気に、おんぶに抱っこであったというのが実情でした。さすがの編集部も「マガジン」青年誌化路線の誤りに気づき、71年春に就任した新編集長・宮原照夫の指揮のもと、本来の少年誌に戻す大改革に乗り出します。『男おいどん』の連載時は、編集部による読者層の切り下げ政策が進むなか「マガジン」から大学生以上の読者が徐々に離反していきつつある過渡期にあったようです。

 

<2>昭和30年代半ば頃、本格的なアニメを作りたいと思っていた松本零士は、ジャンクショップから大量の映画機材を購入。そのことから何らかの闇商売に関与しているのではないかとの疑いを受けた松本先生は、突然、警視庁から自宅に踏み込まれて捜査を受けるはめに。同好の士である手塚治虫や石森章太郎と機材の貸し借りをしていた関係で、この二人も同時に手入れを受けたそうです。このハプニングを、松本先生は、懐かしさを込めて「自称日本3大アニメマニア芋づる事件」と呼んでいます(『わたしの失敗Ⅱ』産経新聞社より)。

 

「マンガのスコア」バックナンバー

 

アイキャッチ画像:松本零士『銀河鉄道999』⑦少年画報社

  • 堀江純一

    編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。