病理医として、日々の研鑽と人材育成のための内外での研修。
二児の母として、日々の生活と家事と教育と団欒の充実。
火元組として、日々の編集工学実践と研究と指導の錬磨。
それらが渾然一体となって、インタースコアする「編集工学×医療×母」エッセイ。
「医者に言われた時点で病気になる」という考え方は、唯名論っぽい。唯名論は、中世の神学から生まれた思想で、フランシスコ会のウィリアム・オッカムが主張した。「名称があってこそ、それが実在するのだ」という考え方であり、病名がつくことで病気になるのだという主張にぴったり当てはまる。たしかに名指しされなければ、その事象を認識し、思考を進めていくことは難しい。実際、名称にこだわった唯名論は、そのままスコラ哲学へと発展しながら普遍論争を繰り広げ、その中でスクール(学派)も誕生していく。物事の概念を学ぶ素地は、唯名論に用意されたといってもいい。医学の歴史にも深くかかわる。
一方、中国思想において唯名論と類似した考え方に、正名論がある。ニュアンスや思想は異なるけれど、名辞を重要視する点において似ている。診断されて病気になるという考え方は、正名論的でもある。お医者さんに「〇〇病です」と威厳たっぷりにいわれると、とても正しく思える。医者側としては、つねに正しい診断が求められているという状況が、正名論の「名実一致」や「君主の遣うべき正しい言葉」を目指している感いっぱいである。そういえば、わたしの勤務する大学の学是は、「仁」だった…それが実践されているかどうかは、診療を受ける患者さんが判断することだけど…。
でも、唯名論とか正名論だけでナットクしちゃっていいのだろうか。診断のプロセスに狂言的な要素はないのか。言葉に表すことで零れ落ちる大事なサインはないのか。一度診断が下されてしまうと情報がマスキングされてしまうという経験は、まじめに医者をやっているなら必ずあるはずだ。一度これだと確信を持ってしまうと、それと矛盾する症状や検査所見が出てきても自分に都合よく解釈してしまいがちである。かなり治療が進んでから、まさか!ということになる。われわれ病理医も臨床医の見立ては参考にするけれども、それに引きずられないように気をつけないといけない。臨床医の「この病気に決まっていますよね?」という圧に押しきられ、なんとなく「そうですね」としっくりこないまま病理診断してしまうとあとで痛い目に逢う。今までの経験を振り返ると、正名論で突っ走るのは危ないなぁと思う。自分が君子のようだと天狗になっている時ほど、落とし穴が待っているようにも思う。ボスの「病理医は、臨床医から絶大な信頼を得てからが勝負だよ」という言葉が深く身に沁みる。
孔子の正名論における名実一致の「実」は、政治のことをいうが、ここでは「名」が「病名」なら、「実」が「カラダ(の症状)」、名実一致することが「適切な治療」というふうに置き換えて考察を進めてみる。
夏樹静子の『椅子がこわい』という本がある。千夜千冊(146夜)でも取り上げられている。筆者は、激しい腰痛に1年以上悩まされ、死ぬしかないと思い詰めるほどになるのだが、最終的に腰痛の原因が心身症であると判明し、そのことを受け入れた瞬間に腰痛が嘘のように治るのである。筆者は、ありとあらゆる診療科を受診し、祈祷に至るまで様々な治療法をかたっぱしから試してみる。この本を読んでいると、患者さんは、名実が一致したと感じられる診断が欲しいのだなとしみじみ思う。自分の病名がわからないことは、深刻な診断を下されるよりずっと不安であるのだ。筆者が腰痛の原因が心身症であることをなかなか受け入れられなかったのは、こんなに激烈な痛みがただの心の病(≒気のせい)からくるわけがないと思うからだ。筆者にとっては、激しい腰痛の「実」と、心身症という「名」が、一致しているとはにわかに思えなかったにちがいない。がんなど直接異常を観察できる病気に比べて、心の病はとらえどころがなく、名実一致の診断を下すことは至難の業だと思う。
色々と考察してきたが、やはり、患者さんのために、正名論の王道を突き進み、名実が一致する病名を探し出すことが医者の使命なのだろうか。正名論バンザ~イ!で終わりたいとも思ったが、やっぱりそんなことはないと思う。最終的に正名的なアプローチに向かうとしても最初は、惑って惑って、結論をなるべく先延ばしにするべきだ。救命救急の医療現場でもなければ、可能な限りあいまいさの中に身を置きながら、「実」をよく観察し、様々な言葉を当てはめる試みは繰り返すべきだと思う。狂言的な状態を最初にどのくらい作れるかは、診断において実はとても大切なんじゃないかと思う。名づける前の「実」をありのまま感じることで、様々な問いを自らに興し、あらゆる可能性をそこに仮置きしたまま考察を進められるのではないかと思う。そんなふうに日々、診療ができたら、すごくかっこいいのだけれど。
正名と狂言の混ぜ具合は、診療にかぎらず、すべての情報編集において、よくよく研究するべきである。バシッと名づけ、名づけられ、キリリと編集的にキャラ立ちし、すべてを引き受けようと敢然と立ちあがることは大事。一方で、悩んで迷ってさまよって、グレーであり続けながらより良い方法を模索するときも必要。揺らぎながら編集的でありたいと思う。次回は、揺らぎながら編集的であり続ける方法、「問感応答返」についてちょっと違う角度から考えたい。