■絶対に組織写真
「ホンモノの細胞も組織もそれはそれは美しいんです。かわいいんです。しかも『病理図鑑』なのですから、細胞や組織の顕微鏡写真をたくさん使いたいです」
編集者の山本さんは、困った顔をしながら「わかりました」と帰っていった。
(1週間後)
「営業に、書店員さんの意見も聞いて回ってもらったんですが、顕微鏡の写真を入れたら即、医学書コーナー行きだそうです。専門書なんだということで奥の方のフロアに置かれるのがオチです」
「そうなんですか…」
「先生の執筆の目的は、一般の方に専門的な内容を、ということですので、最初から専門色が強すぎて、専門書コーナー一直線というのは避けたいのですが」
「うっ。で、でも、やっぱり少しは顕微鏡の写真入れたいんです。フルカラーにしたら高くなってしまいますか」
「はい。2000円は超えます。売れなくなります」(きっぱり)
「うーん…」
「書店員さんが、先生が参考に描いてくださったこのイラスト、かわいいですねって。こっちの方が親しみやすいしわかりやすいですって」
「そうかな」
「ええ。やはり素人ですと、正直、顕微鏡の写真を見せられても何がなんだかわからないです」
「そうですか…」
「寄藤さんも先生の絵の方がずーっといいですっておっしゃってました」
「え?寄藤さんが?」
「はい♪ 先生の絵、すご~く褒めてましたよ~」(満面の笑み)
「ほんとに?」
単純なわたしは、寄藤さんの話が出たところで、ころりとなった。そこから組織写真をお手本に、絵を描く日々がはじまった。わたしの図解編集生活は、寄藤さんとの出会いで始まったといっても過言ではない。偶然にも13[離]の準備も同時期に始まり、離で学ぶ内容も図解してみろ、というむちゃぶりが師匠、蜷川明男さんから来ていた。こちらは、勝率2割以下といったところで、図解してみるたびに、「意味わからん」と突き返されては何度もやり直し、まるで、宗方コーチと岡ひろみのラリー的様相を呈していた(らしい)←目撃者、野嶋真帆さん談。台所、リビング、書斎、職場の机、と、ところかまわず絵を描く日々が何か月も続いた。
とにかく、プロのイラストレーターではないし、描き方を学んだことは一度もない。お金を払って買ってもらう本に載せる絵として、どのくらいのクオリティーが求められているのかもわからず、思うように描けなかったりした。迷ったときは、寄藤さんのご著書にそのヒントを求めることにした。『ラクガキ・マスター』(美術出版社)、『デザインの仕事』(講談社)、そして、『絵と言葉の一研究』(美術出版社)が、わたしにとっての「寄藤三冊屋」で、一時期、この3冊がそばに寄り添ってくれていた。
■部分と全体
寄藤さんは、最初の『おしゃべりながんの図鑑』も先日上梓した『おしゃべり病理医のカラダと病気の図鑑』も、いずれも原稿を熟読してくださっていた。最初に、組織写真はすべてやめて、イラストに描きなおすという方針を強く勧めてきたのも寄藤さんだったらしく、わたしがこの本を書く意図や本の特徴や魅力を私以上に理解したうえで、ベストな表現方法を提示してくださっていたのである。
文章とイラストが連動するように紙面デザインも寄藤さんは相当こだわっていた。紙面はページごとに異なった段組みにして、イラストの位置も、フォントのわずかな間隔も1ミリ単位で最後まで調整されていた。
細部に編集は宿ると、松岡校長もいうが、細部へのとことんのこだわりを持ちつつ、つねに部分と全体をかわるがわる確認し、何度も何度も修正してくださっているのが、校正が進む過程でよくわかって本当にありがたかった。
デッサンを描くことは、そのようにして部分と全体について
捉える訓練にもなるだろうと僕は感じてきました。
p.100『デザインの仕事』
寄藤さんは、本もポスターも何もかも、つねにシステムと捉えて、デザインをされているのだ。千夜千冊1230夜『一般システム思考入門』に詳しく書かれているが、システム思考は、境界と見方が組み合わさっている。さらに、部分と全体について以下のことに留意する。
イ・全体は、部分のたんなる寄せ集め以上のものだろう
ロ・部分は、全体のたんなる断片以上のものだろう
組織は、細胞のたんなる寄せ集め以上の機能と構造を形成しているし、細胞ひとつひとつには組織のたんなる断片以上の驚くべき特徴が備わっている。
絵を描くときは、組織全体の大まかな枠組みを捉えつつ、細胞ひとつひとつの輪郭も丁寧に追うことにした。そうすると、細胞同士のインタラクティブなふるまいが組織全体の構造を形成していくということを改めてよく理解できた。
システム思考の目的である、
1.思考のプロセスを改善する
2.特定のシステムを研究する
3.新しい法則をつくるか、古い法則の整備する
以上の3つが自然とわたしの頭の中で起こっていることに気づいた。いつも何気なく顕微鏡で観察しているひとつひとつの細胞がなぜこの形をしているのか、その必然性が愛しくなったし、何度も人体の仕組みの素晴らしさに感動することとなった。
■対象への愛情
執筆途中、寄藤さんからメールをいただいた。
小倉さんの細胞の絵をはじめて拝見したときは驚きました。
それぞれが専門領域の知見に裏打ちされているだけでなく、
妙な言い方になりますが、愛にあふれているとでもいいま
しょうか、がんや細胞の変化に向けていらっしゃる眼差し
のあたたかさが伝わってくる絵で、自分の絵もこのように
ありたいと感じました。
驚くとともに、描く勇気をたくさんいただいて涙が出てきた。
僕は、絵を描くということの中には、描く相手を自分の世界
に呼び込んでゆくといいますか、極端に言えば自分の一部と
して感じていくような側面があると思います。
そして、自分もまた相手の一部になっているという確信のよ
うなものが、絵を描くことの楽しみです。
それは、僕の中では、なんとなく細胞と細胞のつながりとい
いますか、ある膜面が交流を通して新たに形成されていくよ
うなイメージと重なっています。
わたしも描いている絵そのものと一体になる快感を楽しめるようになってきたところで、寄藤さんも同じような体験をされているのかと思うと、絵が上手か下手かということを気にするよりも、愛しく思う対象の輪郭をひとつひとつ丁寧にたどってあげればいいのだと思えた。
そして、寄藤さんご自身が絵を描くプロセスを細胞と細胞のつながりに見立ててくださったその優しさが心に沁みた。こんな素敵な方に本のデザインをお願いできるなんて幸せだなぁと思った。
たぶん、「わかりやすく伝える」ことの中には、「その素晴らしさを
伝えたい」という気持ちが含まれている気がする。
なにかを「わかる」というのも、別の言葉で言えば、なにかを「好き
になる」っていう話なのだろう。
p.195『絵と言葉の一研究』美術出版社
これからも自分が好きになったヒトやモノのことを、それらがどんなに魅力的で素敵なのか、ずっと伝え続けていきたいと思う。
わたしのお気に入りイラスト
炎症の過程「ゆるゆる→パンパン→カチカチ」
『おしゃべり病理医のカラダと病気の図鑑』CCCメディアハウスより
小倉加奈子
編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。
「御意写さん」。松岡校長からいただい書だ。仕事部屋に飾っている。病理診断の本質が凝縮されたような書で、診断に悩み、ふと顕微鏡から目を離した私に「おいしゃさん、細胞の形の意味をもっと問いなさい」と語りかけてくれている。 […]
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