《ぼくは幼な心を編集しつづけている》
この言葉を『千夜千冊エディション 少年の憂鬱』の中に見つけた瞬間、ジャイアンの中に、あるひとりの巨人の姿が浮かびました。藤子・F・不二雄先生です。ご存じ『ドラえもん』の生みの親です。ジャイアンを名乗る者として避けて通れません。2020年は「ドラえもん50周年」と銘打たれた年。その締めくくりとして3DCG映画『STAND BY ME ドラえもん 2』が11月20日より公開されていますが、観に行っちゃうんだろうな。
F先生は1996年9月23日に亡くなりましたが、その半年前、先生の仕事場でインタビューしました。のちにこれが、先生の最後のインタビューになったと知りました。F先生は来客があると、ベレー帽をやおら取り出すんだそうです。
「お客さんが来るから、藤子・F・不二雄にならなくっちゃね」
とおどけるのがF先生の流儀。
もちろんこのインタビュー時も、ベレー帽をかぶっていました。この時に伺ったのが、自分の中にある子どもの頃の夢や希望、好奇心を描いてきた、という話でした。でも実はそれが難しい。なぜなら、知らないうちに自分の視点が高くなっていて、「大人から見た子ども」を描こうとしてしまうから。あぁ、「幼な心」は脆くて壊れやすいのです。
《子どものころ、僕は“のび太”でした》
(『藤子・F・不二雄の発想術』小学館新書)
F先生の有名な言葉です。だいたい、こんないい加減な主人公はいません。人間の弱さをすべて背負い込んでいるようなところがあって、そのくせ「ぼくはやる!」と大胆に宣言(放言)してみたり、かと思うと「いっしょうけんめいのんびりしよう」と平気で開き直ったりする。なぜか憎めないなと思ったら、自分の中の「幼な心」と重なる部分があるからでした。
ここにF先生の秘密があります。そうです、幼な心を編集しつづけることで、『ドラえもん』などの作品が生み出されていたのでした。
《子どもを知るもっとも有効な方法は、自分の中の子どもを見つけることです。過去の自分を、あるがままに見ることです》(同前)
アイデアや閃きは「外」から持ってくるものじゃない。自分の中、「幼な心」にあったのです。では「自分の中の子ども」とは何でしょう。それは《「好き」であることを優先》(同前)させることです。子どもの頃好きだったモノ、熱中したコト、そこが常に出発点(B)なのです。実際、先生の仕事部屋には所狭しと、恐竜のフィギアやおもちゃが並べられていました。
今の自分=大人から出発すると、子どもに媚びてしまう。だからB=幼な心。ここから、あんなこといいな、できたらいいな、というTに向かって連想を動かしていく。その過程(P)で拾ったモノ――ザラザラしたものや半分欠けた思い出が漫画になる。
そうか、F先生はのび太に会いに行ったのか。F先生は幼な心BPTを繰り返していたのです。
余談ですが、『ドラえもん』の本質は幼な心にあると正確に看破したのは、あの高畑勲さんでした(ご本人に直接、確認しました)。《子どもたちの夢想空間を笑いの中へ解放してくれる、解放戦士こそ、『ドラえもん』なのだ》(楠部三吉郎『「ドラえもんへの感謝状』小学館)
これは、二度目のアニメ化に向けて、F先生を説得するために書かれた企画書の一節です(高畑勲さんがこの企画書を書いていました)。一度目のアニメ化失敗で躊躇していたF先生は、これを読んで大きく頷き、テレビ朝日でのアニメがスタートすることになるのです。
敬愛する手塚治虫や、元パートナーの藤子不二雄Aが大人向けマンガに軸足を移していったのに対し、藤子・F・不二雄先生は頑なに「子ども向け」にこだわり続けました。F先生は、子ども時分の「引き出し」を常に傍らに置いていたのでした。引き出しは幼な心に繋がっていたのです。
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