私が『記憶術全史』をずっと手元に置き続けてきたのは、じつはいうと「離」のためだけではない。記憶の女神ムネモシュネの薄情ときまぐれを何とか超克したいという、ある悩ましい事情のせいである。この数カ月、ピアノの発表会にむけて、「いっさいの誤りを犯さない完璧さ」をめざして、夜ごとあの手この手で「暗譜」の精進をしていたのだ。
プロ・アマを問わず、クラシックピアノに携わる人にとって、「暗譜」こそは最大の試練であり、発表会や演奏会の舞台で起こりうる悲惨な“事件”やトラウマの元凶となってきたものではないだろうか。高名なピアニストでも、本番で暗譜が飛んで演奏が止まってしまったとか、出口がわからなくなって堂々巡りしてしまったというような恐ろしいエピソードがあれこれ伝えられている。発表会では、ショパンやリストの難曲を弾きこなすような上級者たちが、暗譜が飛んで四苦八苦しながらなんとか曲をつないでいるようすを何度か見てきたし、私自身たいして複雑な曲に挑戦しているわけでもないのに、ミスタッチをしたとたんに頭が真っ白になって右往左往したことがある(ベートーヴェンのソナタだった)。
クラシックの世界では、ほとんどの楽器は本番中も楽譜を見ながら演奏するのが普通なのに、唯一ピアノだけが(室内楽や伴奏の時を除いて)、「暗譜」での演奏がジョーシキとされてきた。なぜそんなことになってしまったのかといえば、19世紀にクララ・シューマンやフランツ・リストといった天才ピアニストが登場して、長大な曲を暗譜でばりばり弾き始めたからだ。おかげでクララやリストのようなヴィルトゥオーゾになれないアマチュアたちまでが、暗譜での演奏を強いられるようになってしまった。
もっとも、暗譜による演奏は作曲者への敬意を欠くとか、楽譜の正しい読解(ソルフェージュ)をないがしろにするといった否定的な意見もずっとくすぶってきた。近年は、必ずしも暗譜にこだわらないピアニストたちも出てきているようだ。忘れていいことでも忘れられないという苦悩を抱えるほど記憶力のよかったリヒテルも、晩年は楽譜を見ながら演奏していたし、私が実際に行ったコンサートではイーヴォ・ポゴレリチやミシェル・ベロフなどが、堂々と楽譜を広げて演奏していた。
私のピアノの師匠である岳本恭治先生は、「演奏の完成度を高めるためには暗譜すべき」派だが、記憶力が衰えて頼りなくなっているような熟年層にまで無理をさせる必要はないと考えているらしい。発表会のときも暗譜するかしないかは自分で決めさせてくれる。それでも私は発表会のときだけではなく、ふだんのレッスンでもできるだけ暗譜をして弾くようにしている。暗譜が好きだとか得意というわけではない。楽譜を見ながらではうまく弾けないので、弾きたければイヤでも暗譜するしかないのである。先生によるとこれは本末転倒で、まずは楽譜を見ながら鍵盤をブラインドタッチできるように練習を積み重ねていくべきなのだという。“幼少の手習い”に“五十の手習い”を強引に接ぎ木してしまった私は、楽譜を見ながら弾くという研鑽がまだまだ圧倒的に足りていないのだ。
そんな私が、発表会が近づいてくると必ずやるのが、日々の反復練習によって一通り暗譜できたものを、もう一度視覚的(楽譜)、聴覚的(音)、運動的(運指)、さらには音楽構造的に解体してからインプットしなおすという作業である。反復練習によって惰性的に覚えてしまった記憶は、本番という非日常的な時空にさらされたとたんにあっけなく飛んでしまいやすいのだ。
いにしえの「記憶術」さながらに、楽譜を一小節ずつに区切って音符の形や意味を矯めつ眇めつ観察し、一音一音の響きと運指を確かめながら、意図的に記憶の結び目をつくっていく。惰性ですらすらと弾き流してしまわないよう、わざと楽譜の最後の小節からひとつずつ前に戻りながらインプットしなおすということもやる(かなり面倒な作業だが、私にとっては編集工学的な記憶術実験のつもりでもある)。
こういった地道な作業を積み重ねることで、強固な暗譜がやっとこさ完成するわけである。
ただし、そこまでやっても、本番の緊張や焦りで暗譜が飛んだり途切れたりするリスクは完全にはゼロにはならない。岳本先生も「すべてのことをやりきったとしても、それでも100%の保証がないのが暗譜というものです」とおっしゃる。
つくづく、クララとリストは罪作りな天才、ムネモシュネの女神は薄情だと思う。
太田香保
編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。
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