おしゃべり病理医 編集ノート - 脱力のクオリア

2020/03/02(月)11:04
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 毎週月曜日に、ゴートクジで太極拳の稽古がひそかに行われていることは、以前から知っていた。何かのきっかけでいつもは忙しい月曜日の夜にたまたま伺ったら、靴を履き替え稽古に向かおうとしているみなさんを見かけたからだ。
 
 うらやましい。時間があったら、毎週通いたいくらいだが、月曜日は、会議と術中迅速診断がてんこもりの曜日である。うーん、残念だ。
 
 太田香保さんの連載OTASIS「脱力の共約不可能性」がとても興味深かった。香保さんが太極拳を稽古する不埒なモチベーションの告白から始まる脱力の考察は、ピアノと太極拳の差異を観察しながらしだいに編集工学的な分析に向かう。ピアノも太極拳も脱力の効能を活用する一方で、両者が究めていく動きは真逆である。類似と差異の両方を抱えて進めていく編集工学をもって「共約不可能性」を越えるか、あるいはあっさり認めて割り切るか。いずれにしても脱力を求め、ピアノと太極拳の稽古に勤しんでいるという話に共感しながら、わたしは今までどんなふうに脱力をとらえていただろうかと考えるきっかけとなった。
 
 わたしも子どもの頃、少しだけピアノを習っていた。が、お稽古ごとというものは、師匠との出会いによって、その運命が決まるといっても過言でないと思う。小声で言うが、残念ながらピアノの先生運はわたしにはなかったようだ。週1回のピアノのレッスン日が近づくにつれて憂鬱になる。出された課題曲が面白くなくて、全然練習していなかったから。重い足取りで先生のお宅に伺い、ピアノの前に坐る。先生は練習してこなかったでしょ?と鉛筆の頭で私の手の甲を神経質につついた。
 
 ピアノは挫折したが、大学に入り友達に誘われて交響楽団に入り、バイオリンに挑戦してみることにした。先生にも恵まれて、基礎的な奏法をしっかり指導してもらい、なんとかみんなに交じって、交響曲を弾けるようになった。指揮者のもと、様々な楽器の音の渦の中に身体ごとすっぽり混ざって、ひとつの曲を創っていくのはとても心地が良かったし、楽しかった。合宿に行って、連日朝昼晩、稽古しつづけると、部屋の白い壁に楽譜が見えてきてしまう「オーケストラあるある幻視」も経験した。チャイコフスキーやドボルザーク、ベートーベンやブラームス、様々な曲を演奏した。ただ、三つ子の魂百まで、とはよく言ったものである。結局、今になってもコツコツ続けられているのはバレエのレッスンだけである。
 

 ピアノやバイオリンなどの楽器演奏は、香保さんのいうように、正確な分節化(アーティキュレーション)が密接にかかわる。それは、オーケストラでたまたま音大生の隣で演奏した時に衝撃を受けるほどだったのでよくわかる。一音一音を減衰することなく、正しい音程と長さで演奏できることが、楽器の持つ力を引き出し、表情豊かな表現に向かう第一歩なんだな、ということがよくわかった。「脱力」しなければ、細かく音を刻んでいくのは難しい。小さな筋肉たちを適度に脱力させ、的確に音符のひとつひとつを捉え、楽譜のうえを自在に踊れるようにひたすらに音階練習を繰り返す。

 ピアノでもバイオリンでも発表会本番は、脱力問題に向き合うことになった。緊張して、脱力からほど遠い状態になると、ピアノの場合は指がもつれた。バイオリンの場合は、弦を押さえる左手のもつれに加え、弓を持つ右手の方がさらに大きな問題をおこす。緊張してがたがた震えると、弓が弦のうえで不必要にバウンドしてしまうのである。バイオリンが泣く、と表現されるようなビブラート奏法は、弦を押さえる左指の力を微妙に揺らすことによって生まれるのだが、震えた右手によるビブラートはニセモノであり、オケではみんなそれを「びびらーと奏法」と自嘲気味に呼んでいた。

 
 以前、「バレリーナは分節化のプロ」というエッセイに書いたように、バレエも、筋肉の分節化が必要である。ただ楽器演奏と異なり、バレエは、全身のより大きな筋肉たちを身体の中心でコントロールするような感覚がある。ダイナミックな動きになることもあって、わたしの場合は、楽器の演奏と比較して過度な緊張をせずに踊ることができる(と、かっこよく言ってみたが、最近はずっと運動不足解消と気分転換を目的に稽古に向かっているため、ひとさまにお見せできるものではないのですが)。ただ、そんなアマチュアレッスンでも、調子が良いときは、筋肉が互いに引っ張りあう力が均衡して、身体が内側から開いていくような解放感ある。筋肉が伸びやかになり、脱力による余地が生まれているのかもしれない。

 太極拳はどこまでも区切られないゆっくりと連続した動きが特徴であるが、バレエの場合は、区切られたポーズをどのようにつなげるか、脱力と緊張のコンビネーションを追求する。
 バレエの脱力は、ピアノとも太極拳ともやはり違うもののようである。まさに「共約不可能性」。情報の地と図の関係と言い換えることもできるだろう。脱力という「図」は、何を「地」にするかで意味が変わってくる。
 
 ただ、「脱力」という言葉の意味するところは乗り物によって異なったとしても、身体感覚的には、共通するところがある。脱力という木があったとして、見えている幹や枝や葉っぱは異なっていても、根の部分、アーキタイプ的な意味を孕む感覚はきっと同じように思う。その感覚は、クオリアといえるかもしれない。
 
 クオリアは、脳科学者、茂木健一郎さんの研究テーマであるが、千夜千冊713夜『脳とクオリア』https://1000ya.isis.ne.jp/0713.htmlにこのように説明されている。

   クオリアというのは、簡単にいえば脳(というよりも発火ニュー
  ロンたち)が感知している「質感」のようなものなのだが、いざそ
  れを言葉にしようとしてもたいていは言葉にならないものをいう。

 脱力のクオリアはふわふわとらえがたいかもしれないが、ピアノにも太極拳にもバレエにもその動きの根っこにあるクオリアはかなり同質のものだと思う。

   「らしさ」としてのクオリアは、それが何にどのように“くっつ
  いてくる”のかを見逃せば、それで見えなくなっていくものなのだ。
  クオリアはまたまた下意識に逃げこんでいく。そこで、その“くっ
  ついてくる”を感じた瞬間に、できれば、勝負を試みたい。そして、
  「いま、ぼくはこういうことを言おうかなと思ったんだけど、その
  ときね‥」
   というぐあいに、この“くっつき”を次々に暴露する必要がある。

 ピアノや太極拳やバレエに感じる脱力という共通点から端を発し、それぞれの「くっつき具合」を捉えていくことは、情報の構造を明らかにし、類似と差異を重ねていく方法論につながる。それこそが、「共約不可能性」を越えていく方法になるだろう。「らしさ」としてのクオリア自体、それを活用するにはやはり分節化が必要なのだ。
 
 脱力のクオリアとはどんな感覚であろうか。様々な動きの根っこにあるもの。おそらくそれは、快感に近いものであると思う。力が不足している状態だからこそ生まれる余地、解放へ向かう余力。おなかの底から湧き上がる編集的自由のクオリアは、脱力がその極意なのかもしれない。
 
 
脱力のクオリア
  • 小倉加奈子

    編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。

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