ChatGPTについて編集工学の立場から評価するためには、そもそも「人工知能(AI)」というものが人間の知能を機械的に模倣する試みであるところから語り起こす必要があるでしょう。このことは、AIが「人間もどき」であると同時に人間が「AIもどき」であることを示唆しています。
この稿ではAI開発の歴史や技術的な話題に深入りすることは避けますが、編集稽古の場に欠かせないであろう視点を提示してみようと思います。
たとえば文章を作成するときに、原稿用紙の一マス目に書き記される文字は、この世に存在する文字の数だけ可能性があります。次いで二マス目、三マス目と文字を埋めて行くと、その文字列の組み合わせは、仮に文章フォーマットを「バベルの図書館」のレギュレーションに限ったとしても、計算上では何とこの宇宙に存在する全ての素粒子の数より遥かに多い無限のバリエーションが存在することになります。
けれど私たちは文章を書くとき、このように無限の可能性のなかから文字を無作為に選ぶようなことはしません。どんな言語でも文字列には一定のパターンがあって、近年ではそれらを体系的に収集して「言語コーパス」と呼ばれるデータベースに整理されています。
(ちなみに私は創文の際に、辞書ツールとしてコーパス『少納言』をしばしば参照しています。馴染みのない言葉のニュアンスや言い回しを、実例のなかで文脈ごと検索できて便利です)
こうしてコーパスが膨大な人間特有の言語パターンをデータ化することで、人間の言語データは機械的に計算可能な情報となりました。そうすると機械はその情報群を「確率モデル」として受容し、やがてデジタル空間に「言語モデル」を構築するに至ったのです。
「言語モデル」は機械が計算によって構築したものですから、たとえば任意の文字列が統計的に確率の高いものであるかどうかを判定することができます。あるいは、ある単語が一つの文章のなかで他のどんな単語と同時に使われる場合が多いかを見ていくと、単語の登場頻度から単語どうしの意味の関連性を数値的に評価することができてきます。その点で、言語モデルは言語についての「評価機械」と呼ぶことが出来るでしょう。
この評価能力は、更に深層学習(ディープラーニング)の技術によって仕事量を巨大化させながら精度を高め、いよいよ「大規模言語モデル(LLM)」と呼ばれる人工システムへと発展しました。ChatGPTはこのカテゴリーに属します。
ここで強調しておきたいのは、これまで「検索」のためのツールだったスマートデバイスが、今や情報を「評価」するマシンへ進化したということです。今のところ、大規模言語モデルはまだまだ少なくない問題が指摘されていますが、テクノロジーの進化速度を思えば、早晩そのポテンシャルが人間の期待を超える存在となる可能性は大いに想定し得るでしょう。
人間とAIの共生時代に想定すべき「評価」の3審級
照合する評価:
ルール、法律、慣例など、与えられた条件やガイドラインに沿って情報の適否を評価する審級。
大量かつ高速な情報処理が求められる場面で情報処理の精確さを人間と機械とで比べた場合、評価関数(アルゴリズム)の設定が適切ならば機械による照合評価が人間のそれに勝るだろう。ただし、グレーゾーンの評価については、むしろ評価判断に混入する人間の曖昧さや気まぐれさなどが「人間味」と賛美されたりもする。
連想する評価:
与えられた情報を別の情報群と照合し、互いの類似性や相似性を見出して関連度の高い情報を検索、探索、抽出する評価。
近年まで連想評価は人間の独壇場だったが、ディープラーニングによって機械的に訓練された知能モデルの登場によって、評価エンジンとしてのAIは、データベースの拡張性、情報検索のモーラ力、評価パフォーマンスの速度や安定性などにおいて、そのポテンシャルが人間を凌駕することを証明しつつある。
冒険する評価:
集積された既知の情報群から、その隣接領域や波及領域にまで探索空間を拡張し、未知の情報を取り込みながら新しい意味や価値の創出へ向かう評価。人間がAIに勝ろうとするなら、この審級での評価力が問われるだろう。
連想評価によって新たに導出される情報が予想可能な領域に留まれば、それは凡庸な評価に過ぎない。だが、私たち人間の好奇心は常に「よくよく練られた逸脱」を歓迎する傾向にある。このとき、機械の評価関数を敢えてデチューンして「意味や価値から適度に逸脱する」または「適度な間違いを生み出す」ためのツールとしてAIを使うことも可能だろう。そうだとしても、期待や想定を心地よく裏切りながら既存の情報構造を更新する評価を導くためには人間の身体感覚を伴うメトリック(測度感覚)が不可欠となる。
さて、私たちが大規模言語モデルに触れるときに見逃せないことがもう一つあります。それは、人間と機械の情報交換が「自然言語」を媒介にして行われていることです。
自然言語とは、人間が人間同士で意思疎通を図るために社会や文化のなかで発展させてきた、いわば「人間の人間による人間のためのことば」のことです。わざわざ「自然」と断っているのは、それが人工的なものではなく自然発生したものであることを表明しています。
この自然言語が、21世紀に至ってあらためて情報交換回路のハブとして再インターフェース化されたことは特筆しておかなくてはなりません。
とはいえ、人間に固有の自然言語を人間の生態系の外にある機械に対して植え付けたことの衝撃を、私たち人間が正しく予測することは不可能でしょう。機械は、人間が生得的な3Aによって学習するのとは異なったプロセスで人間の言葉を獲得し、ますます流暢に操るようになる筈です。そして、機械の側の情報空間において、人間の言葉は人間とは異なる意味や価値を生んでいくことでしょう。
このとき、人間とAIとのエディティング・モデルの交換の行方が予測不能であるからと言って、それを悲観的に考える必要はないと思います。私たちにとってのアドバンテージは、このモデル交換を「ことば」が媒介していることです。今こそ人間は「ことばの力」を鍛え直す時代なのだと思います。
果たして、私たちは「ことば」によって何処へどのように運ばれて行くのでしょうか。
行く先の未知を憂うばかりではなく、道のりの自由に遊ぶ余計にこそ、おそらく編集工学は加担しようとしているのだと私は考えています。
花伝式部抄(39花篇)
::序段:: 咲く花の装い
::第1段:: 方法日本の技と能
::第2段::「エディティング・モデル」考
::第3段:: AI師範代は編集的自由の夢を見るか
::第4段:: スコア、スコア、スコア
::第5段::「わからない」のグラデーション
::第6段:: ネガティブ・ケイパビリティのための編集工学的アプローチ
::第7段:: 美意識としての編集的世界観
::第8段:: 半開きの「わたし」
::第9段::「わたし」をめぐる冒険
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
<<花伝式部抄::第21段 しかるに、あらゆる情報は凸性を帯びていると言えるでしょう。凸に目を凝らすことは、凸なるものが孕む凹に耳を済ますことに他ならず、凹の蠢きを感知することは凸を懐胎するこ […]
<<花伝式部抄::第20段 さて天道の「虚・実」といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一念の未生と已生なり。 各務支考『十論為弁抄』より 現代に生きる私たちの感 […]
花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
<<花伝式部抄::第19段 世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き […]
<<花伝式部抄::第18段 実はこの数ヶ月というもの、仕事場の目の前でビルの解体工事が行われています。そこそこの振動や騒音や粉塵が避けようもなく届いてくるのですが、考えようによっては“特等席” […]