花伝式部抄 ::第7段:: 美意識としての編集的世界観

2023/06/27(火)11:51
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花伝式部抄_07

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 美容師などという仕事をしていると、「感性」や「センス」や「美意識」について問われることがよくあります。
 たいていは「センスがないと美容師は出来ませんよね」といった文脈なのですが、いえいえ、そんなことはありません。感性やセンスや美意識は生まれつき誰もが備えているものですから、美容師にとっての問題は「美意識があるかないか」ではなくて、それがサービスとして提供できる状態に「陶冶されているかどうか」なのです。

 

 美意識とは、デザインや表現、人の行為や態度について、イケてるイケてないを判別したり、好き嫌いや快不快を感じ取ったりする感覚や気持ちのことです。ビイシキと言うと世間では「意識高い系」などと揶揄されることもあって、ちょっと気取ったニュアンスを纏った言葉になってしまっている面がありますが、本来の美意識は生得的な身体感覚に根ざした測度感覚です。それは社会的な価値観よりも先行し、ときには文化的な同調圧力にすら抗うように働き、経済的な損得勘定にも左右されることのない、とてもピュアなメトリックだと言えます。

 私が気に入っている説明は、美意識を自転車に見立てるものです。曰く「それは私たち一人一人が跨っているところの乗り物で、それを私たちは物心ついた頃から乗り回しながら他者と出会い、モノとつき合い、世界を見ている」という訳です。この比喩は学生時代に見かけた雑誌のコピーなのですが、非常に編集工学的な考え方だと思います。自転車にはギアや車輪やサドルなどのパーツがありますから、私たちはときどきそれらに油を刺したり、磨いたり、チューニングしたり、カスタマイズを行うなどしてメンテナンスする必要があって、しかも幸せなことに多くの先人たちが整備や点検のためのツールやメソッドを用意してくれています。

 

 ただし承知しておかなくてはならないことは、美意識はどこかからダウンロードできるような類のものではないし、OSをインストールするようにして身につけられるようなプログラムではないということです。他者や世界との相互作用のなかで、自分の感覚とその反応の様子を自覚的に観察しながら体験的に感得していくものであるという点で、美意識とは極めて相互編集的なプロセスにおいて培われる「編集感覚」と言えるでしょう。

 

◎美意識の芽

 

” ところで「素敵」や「あ、いいな」の始まりは、実はちょっとした違和感のはずだ。大きな違和感は、ただの不気味になってしまうけれど、たとえば差し色のようなもの。単調になりがちな同系色を刺激してハズシやアクセント効果でいきいきとした色彩感をつくり出す。つまり、あれは計算された違和感。”

(『美意識の芽』GIGA SPIRIT/五十嵐郁雄 より)

 

ms@Tumblr

深谷のTumblr(現在は更新停止中)のスクリーンショット

 

自分がどんな情報に対してビビッドに反応するのか知ろうとするなら、たとえばTumblrのようなwebツールを利用して気になる画像をのべつスクラップする作業が有効だ。はじめから意図や方針を明確に持ってコンパイルする必要はない。膝をゆるめて、タイムラインに流れる情報に感応する自分の感覚を観察すべし。 “どこかで「!」という楽しいサインに出会ったら、そのたびに意識して、少し慎重に、それがどこから来るかを考えてみる。この習慣が身に付くと、自然と触発される体質ができてくる。”(前掲書より)つまり「ちょっとした違和感」とはアフォーダンスの変名なのだ。

 

 良くも悪くも美意識は個人的かつ主観的な感覚です。もう少し言葉を展くと、自分自身の体験やイメージメントに基づきながら洞察や直感や見方づけをもたらすもの、と言い換えられるでしょうか。つまり、アナロジーを動かす編集エンジンとしての主体が美意識の正体なのです。

 

 考えてみれば当たり前のことなのですが、「情報」はただそこにあるだけでは情報ではありません。情報は、「わたし」もしくは「あなた」によって発見され、位置づけられることによって情報単位として発生します。

 このとき、その情報は「わたし」や「あなた」にとって非自己の存在です。非自己との遭遇によって「わたし」や「あなた」のなかで何らかの感覚が起こって、非自己の存在を情報として発生させる。この出来事を裏返しに記述すれば「自己は非自己によって構造化される」と書くことができます。

 そうだとすると、美意識は自我や自意識に先行する感覚として既にあって、その働きによって「わたし」や「あなた」という存在がエピジェネティック(後成的)に発現することがわかります。このことは、美意識には主観性とともに普遍性や触媒性があることを示しています。その点、世のビイシキがいかがわしさを纏うのは、「わたし」が先立とうとするあまり美意識が後付けになってしまっているからなのかも知れません。

 

 

 さて、以上のように本稿は「美意識」というものを編集資源として捉え直すことを目指そうとしているのですが、そのためには「美」という言葉に刷り込まれている一定の価値意識について点検しておかなくてはなりません。ここでは付録として、四方田犬彦『かわいい論』を借りて視点を添えておくことにいたします。

 

◎「美しい」と「かわいい」

 

「美しい」と「かわいい」

 

「美」について考えるとき、対概念として「かわいい」を想定することでイメージの特性が浮かび上がって見えてくるだろう。「美しい」が西洋の一神教的な完全無欠さを想起させる一方で、「カワイイ」はどこか不完全で、何かしらの欠落を孕んでおり、多神教的な世界観すら感じる。「カワイイ」の多義性には日本的美意識が滲んでいるように見える。

 

 

◎「かわいい」の変遷

 

「かわいい」の変遷

 

今日の私たちにとって「カワイイ」という言葉は、もはや陳腐なプラスチックワードと化していて、イメージの核心を捉えるのは難しい。強いて辞書的定義を試みれば以下のようなニュアンスだろうか。小さなもの。どこかノスタルジックでもあり、母性本能をくすぐられるもの。フラジャイルで儚げなもの。ロマンティックで夢想的な世界への扉を開くもの。見ているだけで「萌え」を誘うもの。凡庸かもしれないけれど無害で、でもちょっと謎なもの。一方、英語の「cute」や「pretty」は、もともと「鋭い」というニュアンスがあって、そこから「利口な」→「巧みな」→「立派な」→「心地よい」→「かわいい」と意味がズレていった。これと較べると、日本語の「カワイイ」はそもそもの出自が異なることがわかる。

 

(参考:『かわいい論』四方田犬彦/ちくま新書

 

 日本発の「カワイイ」という感覚がワールドワイドに浸透して行ったのは平成の歴史とシンクロしていました。

 そもそも「カワイイ」が欧州でブレイクするキッカケとなったのは、イタリアのTVで放映されたアニメ『美少女戦士セーラームーン』だったようです。1994年のことでした。その年、ちょうどボローニャに映画史の研究のため滞在していた四方田犬彦さんは、ある日突然田舎駅のポスターがセーラー服の金髪少女に張り替えられ、その後あっという間にイタリア全土が月野うさぎちゃんに席巻されて行ったことに衝撃を受けたと書いています。
 歴史は繰り返すと言うように、「カワイイ」の流行は、かつて幕末日本がパリ万博(1867年)に浮世絵を出品しジャポニズムのブームを巻き起こして印象派への流れを導いたことと相似しているようにも見えます。

 

 その後の平成日本でギャルたちが「美しい」ではなく「カワイイ」を競ったのは、日本的な美意識が発動したからこその知恵だったのかも知れません。何故なら「美しい」には絶対的な尺度があってヒエラルキーを伴いますが、「カワイイ」には多様多彩なメトリックが存在するので、いくら「私が一番カワイイ」と主張したところで個性を誇示するばかりです。つまり「カワイイ」は階級闘争を起こすことがないのです。

 このことはエディティング・キャラクター(編集的個性)の解発を考えるうえで示唆深い現象だと思います。

 

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花伝式部抄(39花篇)

 ::序段::  咲く花の装い
 ::第1段:: 方法日本の技と能
 ::第2段::「エディティング・モデル」考
 ::第3段:: AI師範代は編集的自由の夢を見るか
 ::第4段:: スコア、スコア、スコア
 ::第5段::「わからない」のグラデーション
 ::第6段:: ネガティブケイパビリティのための編集工学的アプローチ
 ::第7段:: 美意識としての編集的世界観
 ::第8段:: 半開きの「わたし」
 ::第9段::「わたし」をめぐる冒険

スコアリング篇)>>


  • 深谷もと佳

    編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。