しかるに、あらゆる情報は凸性を帯びていると言えるでしょう。凸に目を凝らすことは、凸なるものが孕む凹に耳を済ますことに他ならず、凹の蠢きを感知することは凸を懐胎することと表裏一体で、凹なるものはやがて凸なるものとして表出します。凸なるものは可視化されているが故にスコアしやすく、凹なるものは奥に潜んでいるが故にスコアしにくい。畢竟、スコアリングは凸において凹を含みながら記述せざるを得ないのです。
とはいえ、凸と凹はたんにネガポジではなく、凸と凹は互いに残響しあう面影どうしです。その凹なるものを如何にしてスコアリングし得るか、という問いが本連載「スコアリング篇」を貫くテーマでした。そして、スコアリングという作業にコミットすればするほど、スコアラーは自身の編集態度を問われ、スコアをめぐるメディアの醸成を求められ、帰するところ、もともとの観察対象に新たな意味や価値を見出して行くことを見てきました。
【い】「表れているもの」をビビッドに定量スコアすればするほど、私たちは却って「表れているものが表そうとしているもの」を遠ざけてしまうことになりかねない。(第12段)
【ろ】他方、スコアラーが既存の価値基準と記述方式を用いてスコアリングするなら、スコアされる者は既存の価値観の内に留まり続けてしまう。(第13段)
【は】ならば、定量スコアを既存のメトリックから解放し、未知や別様を模索する余地を見出したい。定性スコアが「わたし」の視点に固着しているなら、まずそれに気づき、他や外と交換したい。定型スコアは、そこから編集を起こすための土壌でありたい。(第16段)
【に】そのために私たちが用意しなくてはならないものは、情報経済圏を出入りし循環する情報の収支と動向をスコアリングする「簿記」である。(第18段)
【ほ】スコアをスコアによって破ること。その編集姿勢を、私たちは「インタースコア」と呼ぼうとしている。(第17段)
第11段で提示した「問:編集稽古の充実は、何をもって測れば良いか?」に立ち戻って回答するなら、凹なるものを描出するには如何なる“方法”(スコア)の開発をもってしても十分ではないことを宣告したうえで、ようやく達成できるとしたら、観察対象に差し掛かるスコアラーの“実践”(スコアリング)によってのみ為されるのだ、と私は宣言しようと考えます。つまり、“方法”はそれを「実践する」という動詞によって活性するということです。このあたりまえの摂理を、花伝式目は「方法は人と混じる」と教えています。
そうだとすると、「編集工学を学ぶ」ということの本質は“方法のインストール”ではなく“方法の実践”にあることが見えてくるでしょう。すなわち、編集道に伏せられた「守・破・離」は、その実践を通して、それを実践する者のみに、明かされていくのです。
【へ-1】そこを歩く人が居ればこそ、それは「道」として意味や価値を成す。(第15段)
【へ-2】「歩く人」が「道」と重なり合っていくプロセスには3段階の審級が認められる。(第15段)
【へ-3】編集の生命は、審級のあるシステムにおいて育まれる。(第15段)
省みれば、私たちの「知」とは、それがいかなる知識情報であれ、全て必ず身体的な体験を通して受肉されたものです。もしも人工知能が真の知を獲得することがあるとするなら、それは既にSci-Fi作家たちによって予告されているように、“人工生命”の誕生の先にある筈です。方法(あるいは型)と人間が切り離せないように、知(あるいは情報)と生命が相即不離であることを、私たちは今後ますます思い知らされて行くことでしょう。
型と人のあいだ、情報と生命のあいだこそが、編集工学の射程に置くところであることは今さら強調するまでもありませんが、そこは未だ人類が充分に言語化し得ていない領域でもあることを、私たちは承知しておく必要があるのだと思います。
【と】情報が結節点に差し掛かっていよいよインターチェンジ(交換)されようとするとき、その様相は「超情報」と呼ぶのが相応しい。(第19段)
【ち】ワタシはセカイを観察することを通して再帰的に自己の“描像”を獲得し、多様な自己像を得ることによってワタシとセカイをめぐるスコアリングの解像度を高次化させて行く。(第20段)
【り】私たちは自己を分化しつつ再統合する過程で、他者や環境からのアフォーダンスを借りながら、相対的に何らかの“ジェンダー”を担いつつインタースコアしあう。(第21段)
では、“身体的な体験”が“知の獲得”に不可欠である、という命題が真であるなら、それを“体験する主体”とはいったい何者なのでしょう?
この問いは、平たく言うと「ワタシは誰?」と言い換えられます。私たちは誰もがこの問いを、物心ついた幼い日の白き朝に、恋に目覚めた思春期の蒼き夜に、社会ともどかしく対峙する赤き昼に、何度も何度も繰り返し、さまざまに言い換えながら、自問自答し続けるようにして人生を生きているのではないでしょうか。深く遠い普遍的な問いでありながら、胸の内に秘められたささやかで個人的な問いでもあり、この問いによって生の方向へ背を押されもするし、抑圧や疎外に苛まれたりもする。正解はなく、解釈の多様のみが導かれるばかりの問い___
問いがどれほど遠く深くても迷うことなく生を邁進する者には__そういう人がいるとすれば、ですが__、おそらく編集稽古は必要がないでしょう。けれど、生の解像度を高めようと欲する者にとって、正解のない問いをめぐって共読する体験は、何ものにも代えがたい価値がある筈です。なぜ共読に価値があるかと言えば、ワタシとセカイは対発生するからであり、自己は非自己を観察することを通してのみ獲得し得る描像だからです。
私は今シーズンの連載を締めくくるにあたって、「インタースコアラー」なるニューワードを提案したいと考えています。「インタースコアラー」という語彙によって定位させようとしているものは、“私たちが編集稽古を通して獲得しようとしている自己像”のことです。
これまで私たちは編集学校の教室に立つ「師範代」を「編集コーチ」と説明してきました。けれど師範代が「指南」をする目的は、学衆の学びを支援することのみに留まらない筈です。もちろんコーチングは師範代の機能に含まれるのですが、編集工学の実践者を「コーチ」と呼ぶことは、その目的を矮小化させる説明に思えてなりません(むしろ“コーチング術”を切実に求められるのは「師範」ではないでしょうか)。
編集稽古は、教室での共読を通して学衆と師範代が相互編集しながら、両者が共に「編集的な自己」(Editing Self)を培って行くプロセスに他なりません。そのプロセスの一部始終に、師範代は観察者兼稽古者として差し掛かり__つまり、他者的な視線を持ちながら自らも体験者として参画する__、“凸なるものが孕む凹なるもの”を“凸なるもの”によってスコアリングすること。その行為を「指南」と呼ぶのであり、その営為をもって師範代は再帰的かつ能動的に「編集的な自己」を獲得し、学衆に対しては“脱自己化”を促しながら“再自己化”を導いて行くのです。そしてさらに、出来得ることなら、そこで記述した“自己をめぐる再生の物語”を教室だけに閉じることなく、定型スコアとして描出しセカイへ持ち出して行く___。
以上のあらましを「師範代とはインタースコアラーである」という言辞をもって宣言しようと思うのです。
==花伝式部抄::スコアリング篇::了==
花伝式部抄(スコアリング篇)
::第10段:: 師範生成物語
::第11段::「表れているもの」を記述する
::第12段:: 言語量と思考をめぐる仮説::第13段:: スコアからインタースコアへ
::第14段::「その方向」に歩いていきなさい
::第15段:: 道草を数えるなら
::第16段::[マンガのスコア]は何を超克しようとしているか
::第17段::「まなざし」と「まなざされ」
::第18段:: 情報経済圏としての「問感応答返」
::第19段::「測度感覚」を最大化させる
::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
::第21段:: ジェンダーする編集
::第22段::「インタースコアラー」宣言
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
<<花伝式部抄::第20段 さて天道の「虚・実」といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一念の未生と已生なり。 各務支考『十論為弁抄』より 現代に生きる私たちの感 […]
花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
<<花伝式部抄::第19段 世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き […]
<<花伝式部抄::第18段 実はこの数ヶ月というもの、仕事場の目の前でビルの解体工事が行われています。そこそこの振動や騒音や粉塵が避けようもなく届いてくるのですが、考えようによっては“特等席” […]
花伝式部抄::第18段:: 情報経済圏としての「問感応答返」
<<花伝式部抄::第17段 イシス編集学校は「インタースコア編集力」を、「編集的な場」において、「編集的な作法」によって学ぼうとする学校です。 といっても、[守][破]で学ぶ学衆にとってはイ […]