「俄(にわか)」とは、吉原を彩る三十日間の祝祭。楼主が競い、遊女が舞い、芸者が笑う――賑わいの渦のなか、町全体が芝居仕立ての夢を演じ続ける。だが、その喧騒の奥で「俄」はふと仮面を外し、まったく別の関係性が立ち上がる。制度と役割をひととき脱ぎ捨て、思いがけない自由に触れる――そんな一瞬が、「俄」にはたしかに息づいていた。
大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けするこの連載。第十二回も、語り足りない想いがそっと滲み出る。今回はその余韻をたどるように、番外編として続きをお届けします。
大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第十二回は、吉原の即興祭礼「俄(にわか)」を舞台に、祝祭が「政(まつりごと)」として始まりながらも、本来の「遊び」や「解放」の力によって文化的共同体へと変容していく過程を描いた物語です。
物語の冒頭に登場する「俄」は、楼主たちの商売上の競争や見栄の張り合いと深く結びついており、祝祭的な華やかさよりも、むしろ利害の衝突を前面に押し出した、“政(まつりごと)”の様相を呈しています。しかし、物語が進むにつれて、遊女や町人たちが即興寸劇に加わり、さらには楼主たち自身も仮装し演じるようになると、「俄」は次第に制度の外へと逸脱し、祝祭本来の一体性と浮遊感を取り戻していきます。そこに描かれるのは、秩序や身分を一時的に反転させ、社会的役割から解放されることで成立する、演劇的共同体の生成です。
祝祭とは元来、「もう一つの世界」によって現世(すなわち、私たちの世界)が許容されるための、特別な仕組みでした。日本の古代において「まつり」は、神の世界と人間の世界を接続するための儀礼であり、そこでは天皇が神祇を祀る中心的な媒介者の役割を果たしていました。
たとえば、大嘗祭や新嘗祭のような国家儀礼では、天皇が神に供物を捧げ、神意を受け取ることで、国家統治の正統性が確保されました。この構造のなかで、「まつり(祭)」は「まつりごと(政)」と不可分の関係にあり、文化とは本来、秩序と権力を正当化する制度の一部として機能していたのです。
しかし、祝祭とは同時に、そうした秩序の一時的な反転を許す場でもありました。神を迎える「非日常の時間」として、身分や日常の役割を外し、「もう一つの自己」や「他者」を演じることが可能になります。『べらぼう』の「俄」は、まさにこの構造を、民衆の側から再演する即興的な祝祭装置として立ち上がっているのです。
朋誠堂喜三二が『明月余情』の序文で述べる「速戯(にわか)」という呼称には、その即興性と美的感受性が凝縮されています。
鳥が啼く東の華街に速戯をもてあそぶこと、明月の余生を儲けて紅葉葉の先駆けとせんと。ある風流の客人(まれびと)の仰せを秋の花とす。我と人と譲りなく、人と我との隔たりなく、俄の文字が整いはべり。
ここで「速戯」は、瞬間に燃え上がり、瞬時に消える即興の芸能として称揚されます。そして、「明月の余生」「紅葉の先駆け」といった自然の比喩が示すのは、既に沈んだ光から新たな季節の兆しを掬い取ろうとする美意識です。「客人(まれびと)」は祝祭における“神のような他者”であり、「我と人との隔たりがなくなる」という描写は、演者と観客の区別が消える共同体的空間を指しています。こうして「俄」は、一回限りの時間と空間の中で、現実を一瞬だけずらし、社会の構造そのものを再構成する文化装置となるのです。
蔦屋重三郎は、「俄における覇権争いを源平合戦さながらに描く」という企画を喜三二に持ちかけ、当初はその趣向に喜三二も興味を示しました。しかし、鱗形屋への配慮から、喜三二は本文の執筆を辞退し、序文の執筆のみに留まることとなります。
喜三二の辞退を受けて、蔦屋は俄の舞台裏を自らの視点で記録する道を選びます。そうして構想された『明月余情』は、俄の実況中継であると同時に、その全貌を記録しきれないという限界をあえて引き受けた、極めてユニークな文化的ドキュメントです。
『明月余情』には、「記録に残らないものが、記憶に残る」という逆説的理念が込められています。彼が目指すのは、出来事の完全な再現ではなく、その場には確かに存在した“気配”や“余情”を未来に届けることです。
ここには、「可視化されないものをいかにして形にするか」という、第十回の花魁道中でも提示された「可視化のパラドックス」が再び浮かび上がっています。記録とは、あらゆるものを保存する技術ではなく、未来に向けた文化的な問いかけであり、想像力を喚起する“余白”の創出でもあるのです。
物語の終盤、楼主たちが自ら仮装し、「俄」に演者として加わる場面があります。彼らは観客ではなく能動的な演者となり、制度的役割から一時的に解放された“もう一つの自己”を生き始めます。
ここで重要なのは、その演技が個人の変化にとどまらず関係性そのものを変容させる力を持っている、という点です。
敵対関係にあった大文字屋(伊藤淳史)と若木屋(本宮泰風)は、同じ雀踊りを異なる振り付けで踊るなどして火花を散らしていましたが、祭りの最終日には互いの根性と負けん気を認め合い、大文字屋の笠と若木屋の扇子を交換し、肩を並べて踊ります。ここでは、祝祭の空間が持つ「秩序の一時的な反転」の力が明確に働いています。利害関係によって隔てられていた者たちが、一時的に“敵”ではなく“共演者”として関係し直す。祝祭とはまさに、そうした制度の亀裂から、別の現実を立ち上げる場でもあるのです。
このような空間では、「自ら演じている」ように見える行為も、祝祭という状況に「演じさせられている」側面を帯びます。つまり、祝祭における文化行為は、自発性と影響性が混交する中動態的現象なのです。
私たちは文化を「つくる」存在でありながら、同時に文化に「つくられる」存在でもあります。この能動と受動が溶け合う空間にこそ、文化の持続的な力――変わり続ける“関係性”としての文化の本質が宿っているのです。
クライマックスでは、祭りの喧騒の中、うつせみの背を松の井がそっと押しながら告げます。
「祭りに神隠しは付きものでござんす。お幸せに」
この言葉とともに、新之助とうつせみは花笠を手にとり、大門を静かに抜けていきます。それはまるで、現実の制度空間から非日常の物語へと送り出されるような光景であり、彼らが“まれびと”として神話化される瞬間でもあります。
神隠しとは、不可視の世界に消える出来事ではなく、記録には残らずとも、記憶の中にそっと残る出来事の象徴です。蔦重の『明月余情』が目指すのも、まさにそうした“記録され得ないものの気配”を未来に手渡すことなのです。
『べらぼう』第十二回は、制度と個人、可視と不可視、演じることと生きること、という対立軸を見事に交錯させながら、文化とは“固定されたもの”ではなく、“変化し続ける関係”のなかで生きられるものだという本質を描き出しています。
文化とは中動態的なものです。私たちは文化をしながら、されながら、演じながら、生きながら、それを誰かに手渡していきます。その刹那の演技が、記録には残らなくとも、誰かの心にそっと灯をともす――そこにこそ、「文化の持続」と「生きるということ」の真実が息づいているのです。
そして、物語の最後に姿を消す「うつせみ」の存在はきわめて象徴的です。「うつせみ」とは“空蝉”、すなわち抜け殻を意味し、「実体を失ったかたち」や「魂の残響」としての在り方を指します。遊女という存在は、仮の名を与えられ、ある役割を演じながら生きる者であり、言い換えれば、自発と他律が交錯する中動態的な存在そのものです。遊女は“演じる者”であると同時に、“演じさせられる者”でもある。役割と主体性の狭間で揺れるその姿は、『べらぼう』が描く文化の在り方と深く響き合っています。
物語の終盤、うつせみは新之助とともに「神隠し」のように吉原を去っていきます。彼女の姿はもう見えませんが、確かにそこにいたという面影だけが視聴者に残されます。まるで空蝉のように……。
――彼女は『明月余情』の終幕にふさわしい、生きた“余情”そのものと言えるでしょう。
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