書評、インタビュー、レポート、フォトエッセイ。日々さまざまな記事が掲載される遊刊エディストに、新ジャンルが登場する。「場所は存在の関数である」と松岡正剛も語る《場所(トポス)》をテーマとした紀行エッセイ。何かが渦巻く場所を求めて、チーム渦の面々がウズウズとあちこちを歩き周りレポートします。
(今回の書き手:羽根田月香/エディスト・チーム渦)
■■想いが染みた土地
駅を出て二十分ほども雑木林の中を歩くともう病院の生垣が見え始めるが、それでもその間には谷のように低まった処や、小高い山のだらだら坂などがあって人家らしいものは一軒も見当たらなかった。
北條民雄著『いのちの初夜』の書き出しである。
「病院」とは現在の国立ハンセン病療養所・多磨全生園、すなわち旧公立療養所第一区府県立全生病院を指す。北條民雄はハンセン病発症後1934年5月に入院、ここで『いのちの初夜』をはじめとした傑作を書き遺し、川端康成に見出され芥川賞候補にもなりながらも23歳で同地に没した。
松岡校長ディレクションによる『ハンセン病 日本と世界』ほか
編集ライターとして長く仕事をする中、縁あってハンセン病文芸と深く関わるようになって4年が経った。本連載を始めるにあたり、現在は人権の森として一般に開かれている多磨全生園の森を歩いてみたいと思った。園と地続きにある「国立ハンセン病資料館」は幾度も訪れていたが、コロナ禍で昨年まで園のほとんどのエリアが立ち入り禁止となっていた。
90年前、北條が惑う心を引き摺って歩いたであろう道を、令和の時代は一気に車で駆け抜ける。彼の頃とは打って変わり、駅からの道に雑木林はなく人家が密集している。「奥山にはいったような静けさと、人里離れた気配」はもうどこにもない。広大な園の周囲にぐるりとめぐらされた生垣だけが、そこが特別な地であったことを物語っていた。生垣はかつて3メートルもある柊で、棘のある葉が患者の脱走を妨げていたという。
全生病院は放浪らい者の隔離を定めた「癩予防ニ関スル件」(1907年施行)に基づき、東村山に急ぎ設立された。1931年、法は苛烈に改正され、ひとたび病を発症すれば本人の意志にかかわりなく誰もが強制隔離されることとなった。療養所とは名ばかり、美名に本来の目的を隠し、「国辱」と見なした病者をひとところに集め労働させ、断種させ、堕胎させ、子孫を残させず本当の名前を奪い、仮名のままこの地に埋もれさせてきた。
大正期の収容門。患者は正門ではなくここから収容された
いつものように資料館に赴き、そこから木々の緑に導かれるようにして園の敷地に入っていった。天気は晴れ。背の高い桜の林が続き、芝生が敷かれたエリアでは日向ぼっこをしている若いカップルもいる。ここが負の歴史を背負わされた地であることをつい忘れる長閑さだ。
園内マップ(ガイドブック『想いでできた土地』より)
少し進むと、平屋の建物が長屋のように密集しているエリアに出た。ドキリとした。
ハンセン病が感染力の弱い治る病と判明してからも強制隔離をつづけてきた国は、病へのすさまじい差別感情を生み出し、1996年の「らい予防法」廃止によって隔離から自由になれたはずの人々の、社会復帰の機会をも奪ってきた。差別は回復者が故郷に帰ることを許さず、多くの人は後遺障害と向き合いながら、園で老いを迎えざるをえなかった。ふるさとや父母への尽きない想いを抱えながら。
平屋の建物には、そうした方々が現在も暮らしておられる。
入所者一般寮と呼ばれるそれらの建物の前には、小さな菜園や花壇が見えるが、あまり生き生きとしているようには見えない。現在、多磨全生園に暮らすのは94名、平均年齢88.6才(2024年5月現在)。厳しい環境下においてなお自治を求め立ち上がり、作物をつくり花を愛で、真っ向から命と向き合ってきた不屈の暮らしも、高齢化によって少しずつ姿を変えつつあるのだろうか。
通り沿いの家並み
一般寮を過ぎ、「売店」と書かれた幟が目にはいった。全生園は1909年の開院以後、患者増加や環境変化に伴う拡張・縮小をくりかえし、現在は敷地面積約10万坪、東西をつらぬく中央通りと南北を走る神社通りを中心に広がっている。売店はそれらの道が交差する、ちょうど中心地点にあった。
外界と遮断されていたかつての暮らしでは、日用品を入手できる唯一の場で、現在は誰でも利用できるミニコンビニといった趣。洗剤や歯ブラシに交じって惣菜が多くを占めていたのが印象的だった。コロッケ80円、鶏手羽煮100円、大根煮150円。高齢世帯の食事問題はここでも顕著だ。
売店の隣は「いらっしゃい!」の掛け声も明るい食事処「なごみ」。
ソフトクリームは牛乳の風味が濃く美味しかった
神社通りを南に進むと、右手にひときわ美しいピンク色の木造家屋が目に入った。昭和初期に流行した近代造りの洋館で、看板には「理・美容室」とある。この地が公園でも観光地でもなく、暮らしの場であることをあらためてつきつけられる。
建物は昭和11年に「図書館」として患者自らの手で建てられ、上野の帝室博物館(現東京国立博物館)の解体廃材が利用された。現在はヘアサロンとして使われているこの建物は、入所者自らが「ハンセン氏病文庫」を設立した跡だ。機関誌『山桜(のち『多磨』に改名)』を発行し、自分たちが生き抜いた証を文書として遺そうという取り組みが、現在のハンセン病資料館へとつながっていった。
―─患者たちは決して言葉を聴かない。人間のひびきだけを聴く。これは意識的にそうするのではない、虐げられ、辱ずかしめられた過去において体得した本能的な嗅覚がそうさせるのだ。
北條の随筆『癩院記録』の一節である。「人間」という二文字に圏点が付けられている。言葉ではなく肚から発せられるひびきだけを信じて、綴られてきた数々の文章たち。
建物は現在、東京都の近代和風建築に指定されている。
もとは患者が利用する図書館として1936年に建てられた[撮影/趙根在]
やがて視線はしぜんと、高い塔のうえの十字架に引き寄せられた。建物がやたらと密集しているそこが「宗教地区」と呼ばれていることを、後で知った。浄土真宗、真言宗、日蓮宗、聖公会、カトリック、プロテスタント、日蓮正宗。あまりに多様な宗教がひとところに集められていたことが、この地の特異さを際立たせている。
宗教地区ではキリストと仏が隣り合う
最後にどうしても見たかった場所がある。ハンセン病文芸にふれていると、「望郷の丘」という言葉に多く出くわす。言葉の響きだけでも胸がつまる思いがするが、隔離収容され二度と帰省叶わなかった人々が、壁の外のその先に、ふるさとを見ようとした丘。もとは敷地拡張にともない患者に強いた土木作業によって1925年にできた築山で、入院者のほとんどが登り「故郷の空をさがし、家族の声を聞こうとし、人に知られず泣ける場所でもあった」(資料館発行『全生病院を歩く』より)。
多磨全生園の望郷の丘は、前述の理・美容室の先、「全生学園跡」の碑がある広場を見下ろす形で在った。
収容者には当たり前のように子どももいた。大人の患者が教師代わりとなり、家族に手紙を書きたい一心の少年少女に読み書きを教えたと聞く。短編『望郷歌』では、北條自身がモデルであろう鶏三という教師が、校舎横の広場で花を散らしたように遊ぶ女生徒たちを、丘のうえから見おろしている描写がある。
小説とまるで同じ情景が残っていたことに、物語の中にいるような興奮を覚えながらも、治療法がなかった時代の子どもたちのその先を思わざるを得なかった。望郷の丘は現在は金網の先で、登ることはできなかった。
望郷の丘
そしてちょっと不思議なことが起きた。病の進行で盲目となった患者のため、軽症者たちが道しるべに敷いたという敷石を何の気なしに辿っていたら、びりびりと心の信号がふるえる場所に出たのだ。鬱蒼とした木々にさえぎられたそこは「秩父舎」という寮舎があった場で、ここで『いのちの初夜』が書きあげられたと案内板に書かれてある。
案内板があるとはいえ、周囲は木々で薄暗く、敷石も劣化により途中でと途切れ、人がたやすく訪れるような場所には見えなかった。何かに導かれたとしか思えない。
戦前寮舎の特徴を留める「山吹舎」の復元。1928年患者によって建てられた
そのまま「人権の森」と呼ばれる森林地帯を通って「納骨堂」で静かに手を合わせる。帰り際、再び資料館に寄り、いつもの写真の前に佇んだ。『舌読』と名づけられたその写真には、作家としてやがて来る失明を恐れ、「死ねば生きてはいない!」と自問自答しつづけた北條民雄の不屈を見る思いがするのだった。
現在、全国に国立ハンセン病療養所は13カ所(私立1カ所)、入所者数は718人、平均年齢は88.3才(2024年5月現在)となった。
『舌読』1979年[撮影/田中栄(長島愛生園)]
唯一感覚が残った舌で点字を読む
(※モノクロ写真4点:国立ハンセン病資料館提供)
《うずうず散歩のスコア》
■■多磨全生園への行き方:西武池袋線「清瀬駅」または西武新宿線「久米川」駅から西部バスで「全生園前」下車。10~15分。
(国立ハンセン病資料館へはこちら)https://www.nhdm.jp/information/access/
■■汁講オススメ度 ★★☆:松岡校長が〝いまもわれわれの肺腑をえぐってやまない〟と書いた『いのちの初夜』の壮絶を感じながら、礼節をもって場の力を感じていただきたい。“ハンセン病の「過去」と「現在」の多くは知られていないままなのである”から(笹川陽平著『残心』校長による前書きより)。
■■近隣の飲食店:東村山といえば志村けんという人には、彼が愛した「こせがわ」の肉うどんをお勧めする。コシの強い手打ち麺と濃い肉つけ汁の組み合わせが最高。
■■一足延ばすなら:八国山緑地へ。『となりのトトロ』の七国山のモデルといわれ、上野や常陸、相模など8つ国を望めたことから名が付いた。
汁講とは:ISIS編集学校独自のクラス会
(おわり)
エディストチーム渦edist-uzu
編集的先達:紀貫之。2023年初頭に立ち上がった少数精鋭のエディティングチーム。記事をとっかかりに渦中に身を投じ、イシスと社会とを繋げてウズウズにする。[チーム渦]の作業室の壁には「渦潮の底より光生れ来る」と掲げている。
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