2023年4月~9月に開筵した輪読座は「幸田露伴を読む」。4月の第一輪は“幸田露伴「未来の文体」を抱えて登場”と題された。
座が始まるやいなやの輪読師バジラ高橋の語りに、露伴の半生へとスッとカーソルが動く。バジラ高橋の言葉通り、図象解説では幸田家の生業から幸田成行が「露伴」として踏み出すまでを辿った。
◆露伴、大政奉還と同年、江戸に誕生
1867年幸田家の4番目の男子として成行(後の露伴)は生まれた。
露伴の生家は江戸時代から代々表坊主衆の家柄であった。表坊主衆というのは江戸城に登城した大名・諸役人を案内したり、弁当や茶菓を給仕したり、衣服・刀剣の世話等に携わる役目だ。世襲の役割ではあったが露伴の父である利三は長男ではなかったため、同じく表坊主衆で継嗣のいなかった幸田家に婿に入っている。
1868年江戸は東京となり、廃藩置県がなされた。富岡製糸場が操業開始し、岩崎弥太郎は九十九商会を設立、津田梅子らはアメリカ留学に旅立ち、渋沢栄一は第一国立銀行を開行する。利三は職を失ってしまうが、代々の表茶坊主時代のネットワークや家作・地所によって生活を成り立たせていた。8歳になると成行は今でいう小学校に入学すると、草双(赤本・黒本・青本・黄表紙・合巻)、読本(中国白話小説の影響を受けた伝奇小説)や、児雷也・ 弓張・田舎源氏などを愛読する子どもだった。
明治10年を過ぎる頃には幸田家も窮乏しはじめる。成行は12歳になる年に東京府第一中学正則科に進学するが、授業料を払えなくなり中退を余儀なくされる。成行は湯島聖堂の書籍館に通って読書三昧の日々を過ごした。
14歳になった成行は父の願いで東京英和学校に入学する。東京英和学校は日本に教会を広める意図で米国の寄付で運営されていることから、授業料が無料だった。しかし成行は英語を読めるようになると、あっさりと退学してしまう。成行はまた湯島書籍館に通って、漢籍・仏典・江戸文学を読み漁る。時には近代日本から離れるように、漢文口語体を学び漢文の庶民小説・戯曲をも読めるようにもなった。成行は学校教育から離れてずんずんと独学の道を歩む。
◆露伴、電信技術者となり、余市へ
明治のはじまりは電信時代の幕開けでもある。1869年には電信事業が国営で創設され、東京・横浜間を皮切りに電信網整備が進む。1871年大坂・神戸間に電信が開通し、電信網は日本列島に急ピッチで拡大していく。急増する電報局配備に向けて国は電信技術者養成学校を大幅に拡張する。授業料無償、日給支給あり、5年間の奉職義務を求める施設であった。1874年、函館-室蘭-苫小牧-札幌-小樽の電信線がつながると、翌年には津軽海峡の海底ケーブルが完成し北海道の一般電報サ-ビスが開始となる。初の電信線架設からわずか10年で日本列島の主要都市を結ぶ電信網が完成したのだ。
1883年、16歳の成行は電信技術者を養成する「修技学校」に入学していた。2年間で電信技術を習得し築地の中央電信局に勤務して電信の実務をたたきこまれると、1885年7月には判任官逓信省十等技手として余市電信分局勤務を命じられる。成行は、出版されたばかりの坪内逍遥『当世書生気質』を荷に入れて余市に旅立った。
◆露伴、余市からの脱出劇
明治初期の余市はニシンの好漁場だった。また余市は北海道西岸から樺太におよぶヨイチアイヌの拠点でアイヌの人々と日本人の雑居地帯でもあった。1869年 に設置された「開拓使」は、アメリカから招いたケプロンを顧問にアメリカインディアン政策を導入。アイヌコミュニティーを解散させ、屯田兵を設置、原住民の存在拒否策をとり、アイヌの土地を没収した。「旧土人」の身分が制定され、アイヌは日本臣民でありながら四民平等の原則から外された。成行はアイヌの生活・文化を見聞し、アイヌ語に通じた青年と連れ立ってアイヌのコタンを訪れ親しくなった。成行は以前に増して干渉圧制を嫌うようになった。
余市に来て3年が経つと20歳になった成行に異変が生じた。前年に完結した坪内逍遥の『小説神髄』が成行のもとにも届いていた。成行の心中に、文学で自己実現をはたしたい、新しい文学を突き付けるという欲望がムラムラと沸き立つ。いよいよ帰京のときがきたのだ。たびたび辞職を願いでるけれども人員不足の電信局が5年契約の局員の辞意を許可するはずもない。成行はとうとう余市を脱出する。8月25日早朝であった。
身には疾あり、胸には愁あり、悪因縁は逐えども去らず、未来に楽しき到着点の認めらるるなく、目前に痛き刺激物あり、慾あれども銭なく、望みあれども縁遠し、よし突貫してこの逆境を出でむと決したり。五六枚の衣を売り、一行李の書を典し、我を愛する人二三にのみ別をつげて忽然出発す。時まさに明治二十年八月二十五日午前九時なり。
幸田露伴『突貫紀行』より
衣服や書籍を売って旅費を工面した成行は小樽で一泊した後、枝幸丸で小樽を出帆、岩内港、寿都港を経て、28日夕方に函館港に到着する。函館では電信局の関係者と思われる「はばかる筋の人」に捕らえられるも函館に留まった。9月10日に再び動き出すけれども、東京に船で向かうにはふところが心許ない。歩いていくには労が多いと思いながらも成行は青森行きの船に乗って北海道を後にする。
青森から歩いて盛岡を目指す。途中で帽子を失くしてしまうが新しいものを買う余裕はなく、手ぬぐいで頬被りしていると犬に吠えられた。泊まった宿の布団は固くて馴染まなくて、窓からはすきま風が吹き抜ける。道中立ち寄った店で食べたキノコに当たって涙ながらに道ばたの草に横になる。安く売っていた卵を3つ買って渓流沿いで食べようとしたら、臭いが鼻を突き舌を刺し、思わず吐き出した。歩き始めて5日もすると『一寸余りの長さの「まめ」三個』ができて足が痛む。盛岡まで二十銭という格安の車夫を見つけてついに盛岡に着く。
翌日も足の痛みは引かず、一関まで車で進み、北上川を下った。石巻から仙台に向かう道程では足がまた腫れあがったが、歯を食いしばる。松島では観光船を楽しんだ。仙台に着くと修技学校の同窓生から少額を借金し、乗合馬車で福島に入った。そこで郡山から東京まで鉄道が通っているという情報を知ったが、汽車賃は手持ちのお金でギリギリだ。微熱があって足はまだ痛むけれども数日とどまったところで手持ちが減るばかり。夜通し郡山まで歩くことを決めた。
飲まず食わずで二本松に入る。亀谷坂の麓の茶屋「阿部川屋」で夜半にひとり餅を食べた。坂を登り、ところどころで腰を休めるが、ついには大の字で天を仰いで横たわった。月の明かりが額を照らす。将来のたれ死にをするとしたらこういう光景なのかと想像した。9月29日の明け方、成行はようやく郡山に辿り着き、午後東京の地を踏んだ。
亀谷坂で体力・気力の限界で詠んだ「里遠しいざ露と寝ん草枕」の句は、後に「露伴」と名乗る由来となる。
1887年、露伴、二十歳。鉄道はこの年の7月に郡山まで開通したばかりで12月には仙台まで延伸する。
学校教育から離れ、同時代人から作風の影響を受けず、孤絶の文人とも言われた露伴。第二次大戦が終戦する1947年に生涯を閉じるまでに連ねられた露伴の言葉は21世紀にどんなメッセージを残してくれているのか。全6輪を通して露伴の方法を21世紀に重ね合わせていきたい。
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宮原由紀
編集的先達:持統天皇。クールなビジネスウーマン&ボーイッシュなシンデレラレディ&クールな熱情を秘める戦略デザイナー。13離で典離のあと、イベント裏方&輪読娘へと目まぐるしく転身。研ぎ澄まされた五感を武器に軽やかにコーチング道に邁進中。
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