【三冊筋プレス】アリストテレスの子供たち(戸田由香)

2020/10/19(月)10:07
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「哲学者」にして万学の祖であるアリストテレスの著作は、「中世キリスト教徒のスター・ゲート」だった。十二世紀レコンキスタ後のトレドにおいて、イスラム世界で保存され、註釈がつけられたアリストテレスの写本が再発見されると、それまで世界の辺境だった西欧の覚醒が始まる。

 

アリストテレスの受容は、ハスキンズが「十二世紀ルネサンス」と名付けた知的復興の中で、科学・哲学復興の礎となった。中世初期の知的拠点であった修道院に替わって、勃興する都市の大学が、新たな知的拠点となり、とりわけ学芸学部は、再発見されたアリストテレスの著作を、貪るように読む学者たちで溢れた。誰もがアリストテレス主義者となったのである。

異端とされたカタリ派の完徳者は、アリストテレスを自説の論拠とし、異端審問に臨む。カタリ派の堅固な理論武装に、対するキリスト教会は、アリストテレス流の弁証法を自家薬籠中のものとし、のちのドミニコ会創始者となる、グスマンのドミンゴを相対させた。

 

なぜアリストテレスは異端正統の区別なく、かくもスコラ学者の心を捉えたのか? その背景には、人口増加と商業の発展により、大きく変化する中世社会の、感情と思想の二大潮流があった。宗教的経験を熱烈に求める感情のうねりと、知識に対する強烈な欲求、これらは相反するものではなく、熱望する心の二つの側面だった。

熱情は、十字軍や自発的教会浄化運動となってあらわれた。知識への欲求、つまり宗教上の真理を信じることに加え、それらを知解したいという欲求は、人間としての己の能力を開発し、そうすることで宗教に新たな生命と意味を吹き込みたい、という熱望のあらわれであった。理性を武器に、宇宙の真理を紐解くアリストテレスの方法は、知解を求めるスコラ学者に熱狂的に受け入れられたのである。

しかし十三世紀を通じて、トマス・アクィナスが「理性」と「信仰」に概念の架け橋をかけるまでは、正統派教会のアリストテレス評価は、定まってはいなかった。伝統主義者にとって、アリストテレスの方法は、神の御名を高める上で有用であっても、その自然哲学や宇宙観には、伝統的教義との離反の危険性を、常に感じていたのである。

 

保守的アウグスティヌス主義と、アリストテレス主義の対立構造は、エーコの『薔薇の名前』にも読み取ることができる。物語の舞台は、1327年北イタリアのベネディクト会修道院である。主人公パスカヴィルのウィリアムは、オッカムの友人にしてロジャー・ベーコンを師と仰ぐ、筋金入りのアリストテレス主義者だ。

修道士が次々と殺され、はからずもホームズ役となったウィリアムは、理性を武器に、論理の力とオッカム流の鋭い剃刀で夾雑物を削ぎ落とし、文書館に隠された書物の謎を解く。そして最後には、アリストテレスの「笑い」を危険視し、『詩学第二部』を秘匿した盲目の老修道士ホルヘ・ダ・ブルゴスと、迷宮と化した文書館で対峙するのだ。二人の対決場面は、聖体の論議もかくやという迫力と、圧倒的な引用の絢爛たるディテールに満ちている。

 

ボルヘスの面影を宿す影の図書館長ホルへは、「哲学者」が、これまでキリスト教会の蓄積してきた知恵の一部を破壊し、神の言葉の不可思議な神性を、人間的なパロディの範疇と、三段論法の城内へ引き下ろしてしまったと非難する。キリスト教会内にすでに浸透した「哲学者」の著作に加えて、新たに『詩学第二部』が広がれば、「笑い」は方法にまで高められるだろう。そして異端審問という「恐怖」によって統治する、キリスト教会の正統の権威は、もはや通用しなくなる。ホルヘはこれを恐れた。

エーコは、アリストテレスの『詩学第二部』という虚構の書物とホルヘの妄執に仮託して、アリストテレス的方法、つまり理性による合理的なアプローチを、当時の正統派教会の教条主義者が、いかに憎んでいたかを描いた。

ホルヘは、異端の書物を破り喰らうことで「笑い」の流出を防ぐが、自らは焼け落ちた文書館と、運命を共にする。これはその後、ペストと宗教改革の嵐にみまわれ、凋落してゆくキリスト教会の行く末を、暗示しているようにもみえる。哲学者にして記号学者のエーコがしつらえた迷宮から、どんな意味を読みとるかは読者に託されている。

 

十二世紀ルネサンスでの再発見以来、スコラ哲学の中心には常にアリストテレスがあった。彼らはみなルーベンスタイン云うところの、「アリストテレスの子供たち」だったのだ。近代経験科学の勃興によって、アリストテレスの自然哲学や宇宙観は覆されてしまったが、その「方法」は命脈を保っている。理性をもって世界を階層化し、システムとして捉える方法だ。それは、現代にまで連なる合理主義の方法である。我々もまた、アリストテレスの子孫なのだ。

 

 

●3冊の本:

 『中世の覚醒』リチャード・E・ルーベンスタイン/ちくま学芸文庫
 『十二世紀のルネサンス』チャールズ・H・ハスキンズ/講談社学術文庫
 『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ/東京創元社

 

●3冊の関係性(編集思考素):一種合成型


  • 戸田由香

    編集的先達:バルザック。ビジネス編集ワークからイシスに入門するも、物語講座ではSMを題材に描き、官能派で自称・ヘンタイストの本領を発揮。中学時はバンカラに憧れ、下駄で通学したという精神のアンドロギュノス。

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