笑わない赤ん坊
その赤ん坊はぜんぜん笑わなかった。「チャーチル顔」とニックネームしたほどだった。幼稚園は慣れるのに2年かかった。
小学校は初日からひどくつまづいた。専門家の勧めで「療育」を受けることになった。その一つが作業療法士による感覚統合療法で、初めて聞くセラピー名だったが、実際に見てみると、それはほとんど<遊び>そのものだった。
1904年生まれで、文化人類学、生物学、サイバネティックスの境界をまたいで遊弋したグレゴリー・ベイトソンの『精神の生態学』には、「遊びと空想の理論」という論文が収められている。サルも<遊ぶ>ということを、ベイトソンは動物園での観察で気づく。一見ケンカに見えても、その動きはケンカとまったく同一ではない。二匹のサルの間で「コレハ遊ビダ」というメタ・メッセージがやりとりされているということが見て取れた。
最初、遊戯ルームに入っても警戒心の固まりだった子どもは、作業療法士さんたちのノリとフリにつられて室内アスレチックをはじめた。少し距離が縮まってくると、野球ごっこといった「ルールとロールとツール」を使った遊びが始まった。回数を重ねると、ちょっとしたことで怒り出したりしていた子どもは、ちょっと「意地悪」な速球やエラーなどの「失敗」に盛り上がるようになった。
子どもは、ベイトソンのいうところの<学習Ⅰ>や<学習Ⅱ>が足りないまま小学校に入ってしまい、「不適応」を起こしたのかもしれなかった。メタ・メッセージの交換スキルは「ある」か「ない」かではなく、方法によって拓かれるということを、月に一度、全10回のプログラムで目の当たりにした。
ともかくあちこちに遊び道具を置いておく。家庭での環境づくりのヒントにもなった。
ゼロ学習、学習Ⅰ、学習Ⅱ
慎重で頑固で癇癪持ちだった子どもを理解していくにあたっては、ベイトソンの学習理論が大きなヒントになった。
まず、生物は生れ落ちた時から<ゼロ学習>を始める。これはいわば反射だ。その特定された反応は、正しかろうと間違っていようと、動かすことができない。子どもの生まれながらのニューロ・ネットワーク(神経回路)では、「集団の中に入る→恐怖感で動けなくなる」というゼロ学習が繰り返されていた。ベイトソンは「感じ」(feel)を勘定にいれる「精神の生態学」を目指していたが、まさに「感じたこと」が行動にダイレクトに現れていたのだった。
ゼロ学習についで、<学習Ⅰ>が起こる。反射に代わる反応が、所定の選択肢群のなかから選び取られるようになってくる変化である。言い換えれば、場のコンテクストを理解して行動を選択できるようになってくる。
次に<学習Ⅱ>が起こる。ある状況に差し掛かった時の選択肢群そのものが修正されたり、経験の連続体、つまりシークエンスの区切り方が変化する。過去・現在・未来を視野に入れ、より自在にふるまえるようになってくる。
「情感(ハート)には理知には見えない独自の合理(リーズン)のようなものがある」というパスカルの言葉を、ベイトソンは何度も引いている。
不安や恐怖でfeelがいっぱいになってしまう場では<遊び>は生まれない。<遊び>がなければ、メタ・メッセージの交換の練習は不可能で、コンテクストを読み取るトレーニングも起こらない。未知の集団を徹底して避けた子どもの行動は、一見「モンダイ」であったが、奥には合理が潜んでいた。
子どもはいつだって生存のために学びたがっている生き物だ。ベイトソンをまだ深く読んでいなかった私は、即座に読み取ることができなかった。
デカルトを超えた世界
子どもが<学習Ⅱ>をやり直すにあたっては、同世代と生身で渡り合う現実世界はハードすぎた。学習とは何か、遊びとは何かを知っているセラピストとの擬きの<遊び>のなかで学ぶことがリスタートとなった。
感覚統合療法とは、手足や皮膚から入る感覚や重力感覚などの諸情報の「束ね」がうまくいっていない状況を改善するという観点で行われる。ベイトソンの理論そのものではないが、身体各所と脳の神経回路をつなげていく点と、運動と言葉を一体として見るという点で一致している。
セラピストがリハビリテーション科准教授とその研究生たちという顔と、「おもしろいおじさん、おにいさん、おねえさん」という両方の顔を持ち続けていたのもミソだったと思う。ドクターと患者ではなく、まずは人間対人間として関係を築くこと。<遊び>はコンヴィヴィアルな関係の間でしか起こらない。
それはデカルトを超えた世界だった。
歴史家で社会批評家のモリス・バーマンは、1981年に『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』で、デカルトに端を発する二分法の世界観をこき下ろしたが、心ある研究者はとっくに気がついていたのだ。
『伝染するんです。』と<学習Ⅲ>
いや、もっと早くに人々はデカルトを超えたくなってきていたのかもしれない。1990年代初頭、吉田戦車のギャグマンガ『伝染(うつ)るんです。』が大ヒットした。
吉田戦車のキャラクターは、しばしばダブルバインドな状況に追い込まれて「汗だらだら」になる。それを勉強や仕事という一元的価値観に追われていた平成の日本人は「不条理ギャグ」として受けとり、笑った。高校生だった私は、ギャグの内容とともに、乱丁や落丁をあえてほどこした装幀に衝撃を受けた。本は紙という身体を持ったメディアだということを強烈に思い出さされた。
『伝染するんです。』を読んだことは、<学習Ⅱ>のプロセス上の変化をもたらした。それまでコツコツと積み上げてきた「一つの正解を追求する」という価値観が吹っ飛んだ。マンガはクラス中をめぐり、「真面目な人」から「謎な人」と見られるようになった。人間関係にも創発的変化をもたらした読書は、<学習Ⅲ>にも近い体験だったかもしれない。
13歳になった子どもは、「大丈夫?」や「ごめん」といったメタ・メッセージを多分に含む言葉も交わせるようになった。今、特に大きな笑顔を見せるのは、庭仕事と宇宙や物理をめぐる科学番組を見る時である。
科学の最前線では「見えるもの」と「見えないもの」をいかにつなげるかというアプローチが模索されている。1980年代のモリス・バーマンに言いたい。合理科学とそれ以外に分けるのもやっぱり二分法なんじゃない? そんなに心配しなくても、21世紀、デカルト・パラダイムは、本気で遊ぶ科学者たちによって崩れつつあるよと。
Info
∈『精神の生態学』(上・下)グレゴリー・ベイトソン(著),佐伯泰樹 (訳)/思索社
∈『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』モリス・バーマン(著),柴田元幸 (訳)/ 文藝春秋
∈『伝染(うつ)るんです。』吉田戦車/小学館
⊕多読ジム Season07・夏⊕
∈選本テーマ:笑う三冊
∈スタジオNOTES(中原洋子冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐型
『デカルトからベイトソンへ 世界の再魔術化』
『精神の生態学』<
『伝染(うつ)るんです。』
◆アイキャッチ画像撮影協力 放課後研究室ナンデヤ?
松井 路代
編集的先達:中島敦。2007年生の長男と独自のホームエデュケーション。オペラ好きの夫、小学生の娘と奈良在住の主婦。離では典離、物語講座では冠綴賞というイシスの二冠王。野望は子ども編集学校と小説家デビュー。
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