【ISIS短編小説】一瞬の皹・日々の一旬 読み切り第七回 長屋の黴様①

2020/08/02(日)14:44
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正徳六年三月の早朝である。朝焼けの赤光は暗雲に呑まれ、落城の焔のように遠近の雲の陰でくすぶっている。過日のように長屋じゅうの溝板が踊り跳ねる叢雨もあろうかと、総後架と井戸の間で汚穢屋が空の機嫌を伺っていたが、そぼ降る気配もなきを知るや、天秤棒を揺らしながら路地へと進んだ。溝から立ち上る蚊柱は汚穢屋の健脚に散らされたが、肥桶に群がる蠅どもは下肥の攪拌に勢を得て、寧ろ羽音を強かにした。

路地の中ごろに差し掛かると、早朝だというのに路地先の木戸が妙に騒がしく、汚穢屋は眉をひそめた。まもなく長屋に不釣り合いな権門駕籠の行列が木戸から路地に歩み入り、汚穢屋は狼狽して割長屋の裏へと逃れた。身を捻った拍子に下肥がこぼれて路地を汚したが、行列は怯むことなく下肥を踏み越えて進み、草履の押印が裏長屋の奥にまで列を成した。

駕籠のなかの男は、四半刻の揺さぶりで猛り出した瀉の虫を宥めきれず、下唇をかみしめていた。これでは三方ヶ原の戦いで糞を漏らされた権現様のようじゃ。これは敗走なのか。否、いったい拙者は何に敗れたというのか。間部宮内殿とともに綱吉公の御代からの悪弊を正し、心血を注いで切り拓いて参った文知の園を、慣例を踏み外さぬことにのみ汲々として、下肥ほどの役にも立たぬ老中どもに蹂躙される口惜しさを思えば、腹の差込すら心地よいと思いを巡らす間に、ようよう駕籠の揺れは止まり、この深川長屋の最奥に至ったのである。

腹を抱えながら駕籠を降りた男の耳に、継ぎが過ぎて同じ色の升が一つとしてない腰高障子の向こう側から、石と石の擦れる音が響いた。男は本草に心得があり、これは薬研の音だと察し、小さく咳ばらいをした。

「御免候え、石田忠右衛門殿の御宅で間違いござらぬか。拙者は御側御用人、間部宮内殿の使いで参った新井白石と申す。御免候え」

薬研の音が止み、継ぎだらけの煤けた障子が開け放たれた。桂皮の香りを纏う屈強な肉体が、白石の視界を領した。

「新井殿と申したな。猿楽師であった間部殿の使いにしては、少々無粋な振る舞いとは思わんかね。大人数で玄関先に乗り付けて、人を呼び立てるとは。駕籠は表通りにでも停めるがよかろう。長屋の皆々様も寝ておられるし、大声は控えてもらいたい」

「これは、御無礼仕った」

白石は直ちに駕籠を長屋の外に遣るよう目配せをした。行列が動き出した刹那、ひと際深い差込に白石はしゃがみ込んだ。

「新井殿、腹が痛まれるのか」

白石は渇いた笑みを浮かべたが、その口端を幾筋かの汗が掠めた。

「しばし、息を整えれば治まりまする」

「総後架は向こうだが、ああそうじゃ、それよりも薬を進ぜよう。流行り病でなければ、よう効くものがある。ちょうど桂皮を砕いていたところだし、腐れ物を食った腹痛も一発じゃ」

白石の細見は、忠左衛門の剛健な肩に軽々と担がれた。行列を外に追い遣っていなければ、付き添いが刀を抜いて騒ぎになるところであった。この石田忠左衛門という男は、武骨であるが何者にも媚びず、怯えず、弱者を放っておけないところがあるようだ。白石は、何故か親鳥の羽毛にくるまれた雛のような心地よさを覚えた。名利を求めず只管に儒学を深めた大恩の師、木下順庵先生の気配を、白石は忠左衛門の分厚い肩甲骨から懐かしく感じ取ったのである。

忠左衛門は時化た布団の上に白石を寝かせると、迷いなく薬棚から二種の生薬を取り出し、桂皮が香る薬研に放り込んだ。

「桂皮に縮砂と延胡索、これでひとまずは」

忠左衛門の毛深い二の腕が薬研車を押すと、樟脳の香が白石の鼻梁を洗った。しかし、それを掻き消さんばかりの黴の臭いが、土間の壺から漂ってきた。

「あの壺は」白石は腹に力を入れないよう、か細い声を出した。

「ああ、あの壺は、蜜柑の食べ残しを集めておる。研ぎ汁に小麦粉を混ぜて泥状になったものに、青黴の生えた蜜柑を埋めておく。泥が黴で真っ青になったら、上下に穴の開いた樽を用意し、下の口には栓をして、上の口に綿を詰めた漏斗を置き、青い蜜柑の皮が浮いた泥を湯冷ましで流し込む。下の口から出る黴汁は流行り病によく効いてのう」

流行り病に効く汁と聴いて、白石は飛び起きた。

「では、その黴汁こそが、長屋を救った忠左衛門殿の秘薬でござるか」

「こんな寂れた長屋に大袈裟な使いを寄越すからには、やはり黴汁が目当てであったか」

「忠左衛門殿、拙者は幼少のみぎり、疱瘡で生死の境にあったのを、南蛮のウニカニルという薬で救われたことがござる。爾来、拙者は本草や南蛮の薬を学ぶに吝かではなく、貴殿が秘薬にて流行り病から長屋を守ったという噂を耳にし、居てもたってもいられず罷り越したる次第。どうか貴殿の黴汁で、鍋松君を、尊き血筋の幼君を救って下され。老中どもの息のかかった侍医では話になりませぬ。力をお貸し下さるなら、相応の地位をお約束し申そう」

忠左衛門は、白石に背を向けた。

「新井殿、尊き血筋やら相応の地位やらと盛んに口になさるが、それが自然において何ほどのものか、考えたことはござらぬのか。黴が食べ物の貴賤を問わず生えるように、黴汁は天子様であろうと公方様であろうと、長屋の住人であろうと効く。儂は、人が決めた物差しから離れて、自然のありのままを知りたいと願う者じゃ。儂が出世してしまえば、人の物差しに振り回され、ありのままの自然を探ることができなくなる」

白石は、どうして忠左衛門に恩師の気配を感じたのかを悟った。忠左衛門も恩師と同じく、本然に一途なのだ。学問で立身を果たそうとする拙者のような俗物とは違う。もし鍋松君がお隠れになられたら、老中どもは間部宮内殿と拙者を追い落とすべく、紀州吉宗公を擁立せんとするだろう。吉宗公は強かじゃ。すでに天英院を手なずけ、口臭き老中どもと談合しておる。鍋松君の御命を預けるには、どんな思惑にも靡かず揺るがない、それこそ順庵先生のような御仁でなければならぬと思っておった。文知の君たる家宣公の血筋を守れるのは、この忠左衛門殿のほかに考えられぬ。白石は布団を飛び退くと、土間に降りて額づいた。

「新井殿、そなたの奉じる公方様は何歳じゃ」

「御年七歳にて候」

忠左衛門は髭に指をくねらせ、幾本かを引き抜き、嘆息した。

「分かり申した、新井殿。公方様というより、七歳の稚児が苦しんでいるというのは何とも忍びがたい、助太刀いたそう」

「かたじけない」勢よく額をあげた拍子に、白石は小さく放屁した。

「しかし忠左衛門殿、謀は密なるを貴ぶ故、その時分までは何事も漏らさぬよう」

忠左衛門は笑いの鐘を衝かれたかのように、大口を開けっぱなしにして笑った。

「漏らさぬよう気を張らねばならんのは、新井殿のほうじゃ。ほうら、そんなところで膝を冷やしては腹も治まるまいて、まずは儂の薬を飲むがよかろう」

                                    (つづく

 

~型に拠れば~

注意のカーソルを薬棚に向ける。要素として、人参や桂皮などの文字。これらの属性である生薬から意味単位のネットワークを拡げ、本草学、平賀源内、薬研などを得た。平賀源内から江戸時代の薬学(本草学)に注意のカーソルを移し、現在の日本を、コロナウイルス流行をとして考えたとき、江戸時代をとすれば当時はどうであったかというフィルターコンパイルを整理していたところ、足立休哲の存在を知った。休哲の機能は、江戸時代における抗生物質(ペニシリン)の実用化であり、これに連動する要素は「台所の瓶で培養した青黴」であった。そこで今回は、瓶のなかの青黴をトリガーとして編伝を進めることとした。

編伝に先立ちクロニクルを整理すると、足立休哲の生きた時代より少し前に、新井白石の「正徳の治」があり、さらに遡って「由井正雪の乱」があった。「由井正雪の乱」の属性はクーデターであり、その要素は、武断政治の犠牲者たる浪人たちの怨念である。武断政治はテロを招くという危惧から、文知政治(朱子学によって人民をコントロールする政治)への転換をはかることになったわけだが(「由井正雪の乱」の機能)、この武断・文知という対立型二点分岐(一対)を意識することで、新井白石というキャラクターと、その生きた時代を解釈することができる。ちなみに、忠臣蔵は朱子学プロバガンダのためのイベントであったという説もある。

新井白石の属性は朱子学者であり、第六代徳川家宣の信任を得て、間部詮房とともに幕政をリードした(機能)。武断・文知という一対で考えれば、第五代徳川綱吉まで続いた武断政治の流れを断ち、家宣の文知政治を推進するという機能を、新井白石は有していたことが分かる。武断・文知を属性としてグルーピングするならば、家宣とその実子である鍋松(第七代徳川家継)は文知、旧来の老中・若年寄は武断であり、老中・若年寄が推挙する第八代徳川吉宗も武断である(推挙の理由付けをするならば、文知派の排除である)。新井白石は常に周囲の武断派と闘争していたと考えることができ、この闘争編伝に活かしたいと思い、主人公を新井白石とした。

白石の闘争にペニシリンをどう絡めるかという点であるが、「①休哲のペニシリンが鍋松の流行り病を治す、②武断派の陰謀により鍋松は毒殺される、③休哲が毒殺の罪で捉えられ、文知派は失墜」という三間連結を骨子とし、白石には足立休哲を鍋松に仲介する機能を与えた。しかし、足立休哲は青梅・森下に住んでいた(機能)ことから、属性が休哲の師である人物=石田忠右衛門を登場させた。この属性に連動する機能として、ペニシリン調製法を休哲に伝えるよう白石に遺言することを予定している。

以上から、第一回は、白石が文知派の旗頭である鍋松を助けるべく、忠右衛門を訪ねるシーンから始まることとなった。ここで、改めて白石に注意のカーソルを合わせ、要素として下痢症を発見した。この理由付けを考え、「意に沿わぬことを行ってストレス性の胃腸障害が出ている」という仮の機能を立て、白石の本意を探った。その結果、白石は学問を道具としている自分に嫌気がさしており、「自分には木下順庵や石田忠右衛門のような一途さがない=真に偉大な学者にはなれない」という不満が腹を蝕んでいることとした(不足の発見、ないものフィルター)。このことから、物語全体に属性と機能のねじれ(地と図のねじれ)を散りばめることに思いが至った。市民・貴族の一対を考えれば、[黴・下肥・忠左衛門]は市民、[老中・白石・鍋松(家継)]は貴族にグルーピングされる。ここから、「白石が忠左衛門に額づく」、「黴が鍋松(家継)を救う」、「下肥が押印となる」、「下肥より役に立たぬ老中」といった逆の機能を派生させて、物語全体に配置した。

 

  • 宮前鉄也

    編集的先達:古井由吉。グロテスクな美とエロチックな死。それらを編集工学で分析して、作品に昇華する異才を持つ物語王子。稽古一つ一つの濃密さと激しさから「龍」と称される。病院薬剤師を辞め、医療用医薬品のコピーライターに転職。