心にQを抱いて退院する。それが離である。退院から一年が経った今も、大きな切創のようにひりつくQや、輪郭がはっきりとしない茫漠としたQを含んだ不足が心の内に漂っている。
退院までが”離“ではない。離に終わりはあるのだろうか。14離衆は退院後も毎月Zoomで集い、千夜千冊の共読を続けている。
2021年の冬、コロナ・パンデミックの渦中に開講された14離は退院式まで全員がリアルに顔を合わせることは一度も無かった。これは異例の事態だったのだろうか。
「今・ここ」にいない人との対話がリモートならば、そもそも編集学校も、読書もとうの昔からリモートだったのである。フル・リモートで進んだ14離は、世界読書奥義伝の本来にむしろ近づく契機であったのかもしれない。
そんな14離に、時間を超えて遠くから声を届け続けてくれた人が居た。私たちがやっとリアルな共読の場を持てるようになったとき、客人(マレビト)としてぜひ招きたいと考えていたのが、千離衆から「母匠」と呼ばれる太田眞千代、その人である。
太田眞千代は編集学校の創成期から数々のロールを務め、千離衆が離中から離後に至るまで幾度も読み返すテキスト「照覧」の著者だ。12離を節目に編集学校のロールからは離れているが、「照覧」は今も離学衆の行先を照らす燈火であり続けている。
「離」について母匠はこう綴っている。
この情報過多の世界にあって、どれほどのビッグデータがあろうとも解析能力が無ければそれはただのゴミの山にしかなりません。情報は読みようによって見え方も変わります。だからこそ知識の集積だけではない“見方の科学”が必要になるのです。松岡正剛著『知の編集術』には「情報はひとりではいられない」とあります。人類が構築しつづけてきた歴史、文化、科学の発展、あらゆるすべての事象は、偶然と必然のつながりの中で意味をつむいできました。そこに張り巡らされたモノとコトの関係性を読み解いていくこと、それこそが世界読書と銘打った松岡正剛直伝「離」というプログラムなのです。
ぜひ会って語らいたいと懇願する14離衆に、母匠はオーダーを出した。
「私は離を終えてからご縁のあった方に本のプレゼントをしています。
皆さんにもお渡ししたいのですが、お会いするのが初めての人ばかりなので、それぞれの方の“読書系統樹”を見せてください。」
読書系統樹とは、今まで自分が読んできた本を樹形図に見立てて図化したものだ。以前は離のお題の一つであったが、プログラムの改編に伴い14離衆はこのお題を経験していない。しかし、母匠から本が贈られるというまたとない機会を前に、14離衆は猛然とこのお題に取り組み始めた。
「花束は、どんなひとに贈るのですか?」とフローリストに尋ねられた石黒。しばし考えて答えた。「お母さんみたいな人です。」
奇しくもこの日は、サン・ジョルディの日(バラと本を親しい人に贈答しあうカタルーニャ地方の祝祭日)。14離衆は本のお礼にと母匠に花束を贈った。
対して母匠は読書系統樹に加えて14離衆が退院時に書いた「離論」までも読み込み、各人に合わせた本を選んでいた。それぞれにコメントを付けて本が手渡された。
大泉健太郎に贈られた本:『庭の歴史を歩く—縄文から修学院離宮まで 』大橋 治三
「古墳をめぐっていることを拾っていただき『庭の歴史を歩く』著:大橋治三をいただきました。夢窓疎石の虎渓山永保寺の話をしていただきました。あまり庭という視点は、自分にはなかったので、朝廷と内裏の関係線なども心の片隅において、これを機に全国の庭を廻ってみたいと考えています。」(14離曳瞬院:大泉健太郎)
石黒好美に贈られた本:『メディア・セックス』ウィルソン・ブライアン・キイ(著)、植島啓司(訳)
「「母なるもの」とは何だろうか。母匠の穏やかな語り口の節々から、手渡された本の中から、女性であるために向けられてきた理不尽に対する苦悩や憤りが静かに、しかし確かに立ち上がっていた。編集学校を性別や社会的な肩書きで判断されることのないアジールと感じる学衆は多いだろう。その中で母匠は「母」というロールを担うことをどう考えていたのだろうか。「“彼女たち”の編集学校」を読み、書きなさいというお題をいただいたように感じました。」(14離武臨院:石黒好美)
阿曽祐子に贈られた本:『鎌倉アカデミア 三枝博音と若きかもめたち』前川清治
「母匠が、いたずらっ子の目になって、取り出したのがこの本。表紙を見て、全員が声をあげた。いろいろな汗を流して、この学校の面影を追い求めたあの日々が蘇える。三枝博音校長は「見つける真摯と深いものが、人間としては量的に多くを生きているということ」と語った。離の火元は、生涯かけても返せない傷みと畏れを私の生にもたらした。母匠から「その火を継いでいくのは誰ですか?」と改めて問い直していただき、航海を続けよと背中を押していただいた。」(14離曳瞬院:阿曽祐子)
平野しのぶに贈られた本:『神近市子自伝—わが愛わが闘い』神近市子
「母匠のまなざしは、社会の兆しから存在を妨げるものへ、批評という物差しのようにも作用しています。ロールモデルや憧れ、べ平連というキーワードをトリガーに、女性解放のリアル紐解きにいざなわれました。大杉栄と伊藤野枝の生活を実質的に支えていたのは、経済的自立を果たしていた零号市子。自由恋愛とは名ばかりの、パラドックスに短刀のメスを入れた彼女は明らかに「新しい女」でした。あなたのPolitical viewは?と問われている私がいます。自伝に記された彼女の意志も、現代の私たちへのQだと感じます。」(14離武臨院:平野しのぶ)
山口イズミに贈られた本:『アナロジーの力—認知科学の新しい探求』キース・J.ホリオーク、ポール・サガード
「「照覧」のQはどうやって立ち上げるのだろうか。
「読書」の愉しみを知らずに半世紀も生きていたことが口惜しくて入院した自分は、そこに恋焦がれていた世界が広がっていることを知った。だがもうひとつコンプレックスがある。Q→Eだ。それはきっと無意識のうちに動かしているのだけれど、象(かたち)にすることをいまだ躊躇っているのかもしれない。「アナロジー」を科学的に論じた書は、“心”の相転移に手を貸してくれるはずだ。母匠には、それが見えたに違いない。本を読むという行為をQ→Eの連綿にしていきたいと思わせたサン・ジョルディの出逢いだった。」(14離曳瞬院:山口イズミ)
福井千裕に贈られた本:『シュタイナー教育 その理論と実践』ギルバート・チャイルズ
「母匠との集いはほんの数時間だったが、事前お題で私たちの来し方の目次を読み、対面での交わし合いで旬のコンテンツを読み、世界と照合した本のプレゼントや講評によって私たちを次の読みへ誘うというまえ余分とあと余地つき。母匠の「世界読書という方法」を丸ごと体感する場であったことに気づき身震いした。子どもを取り巻くヤバイ世界を再編集したい―私の内なる葛藤と渇望を読み取ってくださった母匠は「障がい児支援の仕事も編集学校での指南も、いかにeducate、その人の持っているものを引き出してあげるか、ですよね。」との言葉を贈ってくださった。母匠から手渡された「おもい」と「問い」を握りしめ、この2日後、私は49[守]師範代として教室の鍵を開けた。」(14離武臨院:福井千裕)
嶋本昌子に贈られた本:『近代日本の差別と性文化-文明開化と民衆世界』今西一
「お会いしたのは初めてなのに、私の数寄―フラメンコを知っていてくださり、本書を頂きました。フラメンコは、主にロマの民、かつてはジプシーと呼ばれた被差別民により継承されてきた文化。芸能は古今東西、そういったところから発生していることに触れられたとき、「数寄を極めていますか?」と問われている気がしました。フラメンコで資本主義や、国家を語れるか?離後も、世界に繋がろうとしているか?表れているものの奥を見ようとしているのか?近代の「国民国家」によって見えなくなっていたエスニシティやジェンダーを考えるきっかけも頂きました。」(14離曳瞬院:嶋本昌子)
名古屋で「ヴァンキコーヒーロースター」を営む曼名伽組の小島伸吾組長から、この日のために特別に焙煎した『玄月ブレンド』が差し入れられた。先達からのエールが香り立つ。
「母匠を囲む会」はお開きとなったあともその燈火はさらに煌々と輝きつづけた。晩には母匠から、読書系統樹の講評に加えて贈本の解説や参加者の質問への回答が続々とメールで送られてきたのだ。私たちはあらためて「照覧」という光の眩しさに気付いた。
「囲む会」の翌日、14離衆のZOOM例会が開催された。会から帰還した面々が、それぞれの「母匠」を語る。皆が画面の向こうから身を乗り出さんばかりに頷いた。この体験は参加できなかった14離衆のものでもあったのだ。母匠のことば、母匠の問いを共有し、対話は夜更けまで続いた。
新たな「母匠照覧」を受け取った私たちは、14離で焚きつけられた炎を胸に、照覧を手に、それぞれの「離」を再び始めていく。
文:大泉健太郎・石黒好美・阿曽祐子・平野しのぶ・山口イズミ・福井千裕・嶋本昌子
写真:大泉健太郎・福井千裕
編集:石黒好美
石黒好美
編集的先達:電気グルーヴ。教室名「くちびるディスコ」を体現するラディカルなフリーライター。もうひとつの顔は夢見る社会福祉士。物語講座ではサラエボ事件を起こしたセルビア青年を主人公に仕立て、編伝賞を受賞。
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