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おしゃべり病理医 編集ノート-おぐら家が「二十の扉」で遊んだら
- 2020/02/03(月)10:23
事故発生のサインがナビの画面に表示される。案の定、少し走ったところで完全に渋滞に巻き込まれた。「事故渋滞10キロ。通過に40分」どんよりした空気が車内を満たす。おしゃべりなわたしもさすがに話題が尽きてきた。音楽を聴くのにも飽きた。うーん、ここは、なんとかこの雰囲気を軽減させる何かを提案したい。
よし!編集ゲーム「二十の扉」をやろう!暇を持て余していた子どもたちが、いいね~と乗り気になる。我が家は旅行にいくとなぜかゲームにはまる。温泉旅館に籠って、半日ずっとUNOで遊ぶこともある。新しく買ったUNOには、好きに書き込めるカードが数枚ついていて、おぐら家独自のルールを導入し、さらにスリリングなゲームにバージョンアップしたりする。ゲームという響きに車内の空気が華やぐ。
松岡校長もお気に入りの「二十の扉」は、とても編集的で、奥の深いゲームである。ノーヒントではじまるのだが、質問者は、イエスかノーだけで答えさせる形式の質問を20回試すことができる。二択の答えだけを頼りに、出題者が頭に思い浮かべる言葉を当てていくゲームである。
予想通り、盛り上がる。いちばん場をかき乱しているのは、もちろん、超連想偏重思考の母、じゅんちゃんだ。おばあちゃんの爆走と迷走に翻弄されながら、子どもたちは、母のわたしが思い浮かべている言葉を探り出す。
新年早々の冬休み中の旅行だったこともあり、「箱根駅伝」を答えにしてみた。
たくみ「それは生き物ですか」(ノーです)①
みなみ「それはモノですか」(ノーです)②
たくみ「それは地名ですか」(う…えっと、ノー、かな)③
みなみ「それは学校に関係がありますか」(おぉ!イエス)④
じゅん「わかったー!それは黒板ですか」(ノーです(笑))⑤
みなみ「ちょっと、おばあちゃん、いきなりやめてよ!無駄に質問を消費しないで!」
たくみ「そうだよ、黒板じゃないってことしかわからないじゃん!それにさっき、モノじゃないって確認したでしょ?」
じゅん「あら~、そぉ?」
みなみ「みなみやお兄ちゃんに関係がありますか」(ノーです)⑥
みなみ「え~、関係ないの!学校のことなのに!」
たくみ「それは…行事ですか」(イエス)⑦
じゅん「わかったー!スキー教室でしょ?」(ノーです(笑))⑧
たくみ「だから、おばあちゃん!テキトーに質問しないで!」
じゅん「えー、テキトーじゃないよ、ちゃんと考えているよ」
たくみ「…えーっと、それは季節にちなんだ行事ですか」(イエス)⑨
みなみ「冬にやる行事ですか」(イエス)⑩
じゅん「ほら、スキー教室って、イイ線行ってたでしょ?」
全員 「・・・(笑)」
けいご(小声で)「これ、エディストの記事に使えるね(笑)」
たくみ「冬にやる行事で、俺やみなみに関係がないけど、学校に関係があるってことは、大学とかって可能性もあるか…」
みなみ「お兄ちゃん、わたし、ちょっと思いついたんだけど、違うかな?」(兄に何やら耳打ち)
たくみ「みなみ、それ、けっこうアリなんじゃないか?試してみたら?」
みなみ「ママ、それは、箱根駅伝ですか?」⑪
かなこ「正解です!」
全員 「わ~!」
このあとも、ヤシの木、ふぐ、サンドイッチマン、クリームパン、ブラックホールなどなど様々なカテゴリーの言葉たちで試してみた。概念的で抽象的な言葉ほど難易度が上がる。ブラックホールは超難問だったが、たくみは、あと数個の質問が可能であれば、正解にたどり着いたに違いない。だいぶ惜しかったが、彼の推論の流れが良く見えて編集的にも興味深かった。
重要なのは「問いを言葉にする」ということ、そのたびごとに「次の選択に進む」ということである。それによって推理のオプションが次々と狭められ、また、広がっていく。「二十の扉」はその組み合わせによって、当人の思考のプロセスをみごとに浮き上がらせる。
まさにそうである。オプションの絞り込みには、ロジカルに考えることが求められ、広げていくときは、アナロジカルな連想的思考が不可欠である。
質問することに慣れてくると、情報の階層構造に着目しつつ、カテゴリー、クラス、インスタンスと、言葉をイエス、ノーの質問形式だけで絞り込めるようになる。抽象から具体へという流れで、プロセスを意識できない小学生であってもある程度コツをつかめる。たとえば、生き物やモノというように大きなカテゴリーから始めて、動物か植物か、犬かうさぎか?というように絞り込むのである。
じゅんちゃんは、主婦としてとても有能であるが、情報の階層構造にはまったく無頓着である。よって、いきなりインスタンスレベルの具体例を乱暴に挙げて、質問を消費し、孫たちに怒られるのである。だいたい、学校という言葉だけで、無数の具体例の中から黒板を連想、選択し、自信満々に回答するのだから。
ただ、情報の階層構造に着目したロジカルな思考だけでは太刀打ちできないのが二十の扉の奥深いところである。じゅんちゃんの突飛な回答は必要なのだ。「スキー教室」という回答は、たくみの次の質問「それは、季節にちなんだ行事ですか」という質問を連想させている。ロジカルだけでは袋小路に陥りがちな推理の方向に変化がもたらされているのである。
医学生の時、医療面接の方法を学んだのだが、イエス、ノーで患者さんに答えさせるような質問(クローズド・クエスチョン)は良くないと教わった。患者さんから引き出せる情報が少なくなるから、なるべく患者さんに話をさせる質問形式(イエス、ノーで答えることのできないオープン・クエスチョン)を活用しなさいと言われた。その時はとても納得したのだが、今は、イエス、ノーの質問形式だって、つなげ方次第でいかようにも情報を引き出せるのではないかと思うようになった。オープン・クエスチョンは、患者さんの連想によって会話が広がりがちで、的確な病歴聴取という意味においてはコントロールが難しい。やはり要所要所でクローズド・クエスチョンを混ぜて、連想と要約を方法的に繰り返すことが必要だろう。
いずれにしても、質問を重ねていくうえで重要なことは、文脈を意識することである。そのためには思考を遡って考えることが必要になってくる。実際、たくみも「冬にやる行事で、俺やみなみに関係がないけど、学校に関係があるってことは」と、今までの質問の数々をつなげながら振り返り、「大学っていう可能性もあるのか」と、仮説を立てて次に進んでいる。
編集学校の稽古では、自分の思考をふりかえること、リバース・エンジニアリングを重視している。チャールズ・パースが、アブダクション(推感編集)をレトロダクションとも表現したように、ふりかえることは、推論のプロセスに不可欠で、かつ、編集の骨法なのである。
二十の扉。編集工学的に分析する余地はまだまだ残っているが今回はこれくらいで。いずれにしても、我が家で誕生する様々なアイディアには、じゅんちゃんのアナロジカルスパイスがいつも効いているようだ。さすがお料理上手。
じゅんちゃん、いつもありがとう。どうかそのままでいてください。
おぐら家の二十の扉