鋸鍬形、犀兜、鰹象虫、乳母玉虫、碁石蜆、姫蛇の目、漣雀、星枯葉、舞妓虎蛾、雛鯱、韋駄天茶立、鶏冠軍配、鶉亀虫。見立ては、得体の知れないものたちを、手近に引き寄せたり、風雅に遊ばせることの糸口にもなる。
ついにあの人が表立って登場しました。前回、瀬川を送る花魁道中に従っていた玉屋の志津山のながしめに「え? 俺??」とにやけていたあの人が、ついについに。「これ、作ったのお前さん?」といって、蔦重渾身の本『青楼美人合姿鏡』を激賞です。ただし、語りでは「このようなマニア」扱いされていました。
大河ドラマを遊び尽くし、歴史が生んだドラマからさらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子が、めぇめぇと今週のみどころをお届けします。
第11回「富本、仁義の馬面」
第11回では、蔦重だけでなく、吉原の面々が活躍しました。特に、いつも蔦重をぺしぺしと叩くばかりの大文字屋さんのナイスアイデアが光りました。いや、本当のところ、「ナイス」だったかは微妙でしたが…。
「俄(にわか)」の目玉
瀬川をあれほど喜ばせた『青楼美人合姿鏡』が売れず、蔦重は亡八衆から責められます。吉原を盛り上げる次の手を考えあぐねる蔦重に対し、その手を考えたのは、なんと亡八衆でした。吉原のお座敷芸だった「俄(にわか)」を祭りに仕立てようというアイデアです。
三谷一馬『江戸吉原図聚』をのぞいてみると、俄については、こう書かれています。
俄狂言のはじめは「安永(一七七二~八一)、天明(一七八一~八九)の頃、仲の町の茶屋桐谷伊兵衛が、歌舞伎の真似事が好きで、角町の妓楼中万字屋その他二、三と相談し、思いつきの俄狂言を作って仲の町を往還しました。これが大当たりに当たって面白い、風流だと評判になり、引き続いたのが俄の始めで、毎秋の定例になったといいます。他に一説があって、九郎助稲荷の祭礼にはじまったとしています。
祭りになれば人がくる。老若男女が集まれば吉原の評判も上がる。集まった人に本も売れる。さて、ここからがこれまでと違うところ。今までの亡八衆なら、「蔦重、お前、やれ」の一言で、すべてを蔦重におまかせ。ところが今回、亡八衆が一緒に走り回ったのです。
吉原という世界は、遊女たちが美しさや身につけている教養を見せることで成り立っています。「見せる側」と「見る側」との関係が厳密に分かれている世界だから、亡八衆がその枠組みの外で何かを仕掛けることは難しかったのです。しかし、今回の「俄」を祭りにする試みは、単なる見世物ではなく、「見せること」の枠組みそのものを動かし、芸能を生み出す場を創り出すものでした。今回は亡八衆自身が「見せる側」となろうとしたのです。
江戸で人気上昇中の富本節をかたる午之助を俄の目玉に呼びたい、といったのが大黒屋の女将・りつ、ならば、吉原を嫌う午之助を説得するために鳥山検校に頼もう、と考えついたのは大文字屋市兵衛。検校率いる浄瑠璃の元締め、当道座に午之助の豊前太夫襲名を認めさせることで、午之助の心を和らげようという作戦です。
出前吉原?
午之助が吉原を嫌う理由は、その昔、歌舞伎役者の門之助と、素性を偽って吉原に入ろうとしたところ、それがばれて雨の中、門からたたき出されたからでした。吉原も芝居町も共に「日千両」、つまり一日に千両もの大金が動く場所というのは共通しているのに、役者が吉原の大門をくぐれないのはなんとも不思議なことに思えます(叩き出した若木屋が午之助たちに「稲荷町が!」と吐き捨てるようにかけた言葉が印象的でした)。
歌舞伎役者や旅芸人は、身分制度の中では最下層に位置づけられ、特定の場所でしか活動できない制約を受けることも多くありました。しかし、だからこそ彼らは社会の秩序の外で自由に場を創り出し、観客との直接的なやりとりの中で芸を磨き、観る者と演じる者の間に特別な関係を築いてきたのです。
「吉原には入れない」、ならばこちらから、と蔦重が考えたのが「出前吉原」でした。吉原の門を叩き出された門之助と午之助を、今度は吉原のほうから、あえて吉原の外にでて迎えに行くことにより、「見せる/見せられる」の関係を転倒させようとしたのです。ここで特筆すべきは、「出前吉原」によって、これまで「見せる側」だった花魁たちが、「見る側」になったになるという点です。向島に呼び出された二人は、最初はだまされたと腹を立てるものの、午之助、門之助に会いたいという花魁たちの気持ちが二人の心を溶かし、蔦重の「富本節を聞かせてやってほしい」という願いにも応えるのです。
花魁たちは午之助の富本節に、門之助の素踊りに涙します。それは初めて「芸能を受け取る者」としての体験をしたということなのです。芸能とは見せるだけのものではなく、それを受け取ることで成立するものでもあると、この場面が示しています。
芸能とはその場で生まれる関係によって価値が決まる。写真や動画などで記録を残すことはできても、そこにいた人が何を感じ、何を共有したのかまでは保存できません。だからこそ、芸能の本質はライブの場で生まれる関係にこそあるのです。演じる者と観る者の間に生まれる瞬間的なつながり、そのときだけ共有される感情のやりとり、それこそが芸能の価値です。第11回では、可視化と不可視の関係を通じて、芸能の根源的な力が描かれました。
しっかり、ちゃっかり
午之助が、俄での富本節披露を快諾したところに、豊前太夫襲名を許すという鳥山検校からの書状も届き、喜ぶ午之助に、蔦重はちゃっかりと「直伝」をねだります。浄瑠璃好きが稽古するための本でもある正本(しょうほん)の表紙に「直伝」とつけば、それはもう「本物のお印つき」。売れないわけがない。機を見るに敏な蔦重の面目躍如の幕切れとなりました。
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十七
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