本を読んで、文を書く。そのとき人は、いったい何について書いているのだろうか。そこでは何が出入りしているだろうか。
日々の暮らしの中で何気なくおこなうこともできてしまう読書行為というものをひとつの巨大な“謎”とみなし、重層的な読み書きの襞に幾度となく分け入ってきたのが松岡正剛だった。
イシス編集学校[破]の稽古は文体編集術に始まるが、そのフィナーレに待ち受けているのが松岡の名を冠した「セイゴオ知文術」である。千夜千冊の方法に倣って本を読み、知文として結実させるのがそこでの眼目となる。
とはいえ、ISIS-commissionが厳選した課題本をもとに、松岡にあやかりながら読み書きをかさねるのは、学衆にとってはもちろん、伴走する師範代にとっても容易なことではない。[破]で最初にぶつかる難所だ。
先日開催された伝習座「あやかり編集力」のあと、[破]指導陣はそのまま居残って、知文指南への理解をもう一段深めるためのレクチャーの場をもった。レクの担い手は、長らく[破]の指導に携わってきた評匠たち。ここでは、「モノ」を主軸に据えた評匠二人の知文語りをご紹介したい。
◆ 取捨選択の先の景色(岡村豊彦評匠)
手前の伝習座では、松岡が「心」ではなく「モノ」へのあやかりを圧倒的に重視していたことがあかされたが、評匠・岡村豊彦は「モノとしての本」の在り方に注目した。
他のモノたちと同じく、本もまたモノであるからには、のっぺらぼうな抽象的空間に存在するのではなく、非常に具体的な時間と場所と状況の中に置かれている。ごく当然のことと思われるかもしれないが、本に書かれた意味内容にばかりとらわれていると、読者はしばしばそのことを忘れる。
「その本を手に取るまでに、どんなことを意識したでしょうか」。岡村は静かにそう問いかけた。「本-著者-読者」の三角形を意識することは知文術の基本だが、本を起点とした関係性はそれだけに限定されない。一冊の本が読者の手へ渡るまでに、編集者や訳者やカメラマン、装丁デザイナーや書店員に至るまで、さまざまな属性や企図をもった人たちがかかわっている。とりわけ知文においては、その本が書かれた頃の時代状況や社会情勢を視野に入れることも欠かせないだろう。
「そう考えると、読者は本の内側だけではなくて、本の外側にも、無数の関係線を引くことができます」。「モノとしての本」を取り囲む多重多相なレイヤーに光を当てたこの指摘には、青熊書店の運営を通じて日々“書物の生態系”に身を浸している岡村自身のリアルな実感もこもっていたにちがいない。
一般的な感想文やレビューであれば本に書かれた事柄へのリアクションだけで済むのかもしれないが、知文稽古においては、上記のような、必ずしも本に明示されていない情報をふくめて収集してみることがカギを握る。「でもそれは、単に情報をリストアップすれば良いということではありません」。岡村いわく、肝心なのはその後である。本のウチソトを織り成す膨大な情報群の中から、何を選び・何を捨てるか。そうした取捨選択の手捌きにこそ書き手の見方が宿る。そこで初めて本格的な編集過程に突入してゆくのだ。
[破]稽古は再回答してナンボのものである。だから情報の選別や意図の組み立ても、一度きりでは終わらない。「ひとりの人の中でも、本を読む前と読んだ後、知文を書く前と書いた後で、どんどん見方が変化していきます」。そうした「読前・読中・読後」及び「書前・書中・書後」の行ったり来たりの中で、読者(学衆)は見方を深めていく。師範代は、学衆が読み書きする過程で起こった選択の分岐を想像しながら、そこに萌芽する可能性を提示していきたい。
学長・田中優子によれば、部屋のサイズ感を問わず、家の中にも「八景」をつくってしまえたところに江戸日本の方法があった。その話を受けて岡村は、セイゴオ知文術もまた、たった800字という小さなハコの中に「景色をつくる」営みなのではないかという見立てを投げかけた。
八景としての知文術。これを聞いて、学衆ひとりひとりがつくりあげる「景色」を早く見てみたいと、今からウズウズしてきた師範代も少なくなかったはずだ。一見ハードな知文稽古を愉快でやわらかなイメージへと転じさせる、アワセカサネの妙をここに見た。
◆ 手ざわりのある超部分(福田容子評匠)
「具体性をもって示す」ことに定評のある福田容子は、レク直前、とある過去の知文作品を配布した。「みなさん、ひとまずこちらを読んでみてください」。知文は800字といえども非常に密度が高い。伝習座の一日を通して“聴くモード”に徹していた面々は、いきなり出されたお題を前に、急いで脳内を“読むモード”に切り替えた。こうしてちょっとした不意を突きドキっとさせるのも、すこぶる福田らしい。
何人かに感想を募って、作品に対する各々の印象を頭の片隅に置いてもらいつつ、福田は「指南の仕方」についてのレクチャーを始めた。
指南の勘所として一つ目にあげられたのは、「ズレをみること」である。ズレをみるとはどういうことか。
課題本を読んだ学衆は、まず最初にざくっと全体像をつかんで回答を放つ。しかしながら、イメージと言葉とのあいだには、どうしてもズレが生じてくる。[破]で言葉を「イメージの近似値」と呼びならわしている理由もここにある。師範代が注目すべきはこのズレなのである。
稽古序盤の「5W1H活用術」と「いじりみよ」では、「要素の列挙」と「文章への統合」という二段階の手順を踏むが、例えばこのふたつの手順のあいだのズレがヒントになる。知文でいうなら、下書きメモや振り返りでのつぶやきと、本回答とのあいだの落差がこれに当たるかもしれない。いまだ不定形なものと既に形をなしたもの。両者間の差異や溝にこそ、学衆の思っていることや感じていること、あるいは自分自身でも気づいていない何かが潜んでいる。
ついで福田が目を向けたのは「モノとしての言葉」の在り方である。なるほど、言葉は事象を指し示す記号であるが、同時に、イメージが結晶化した「モノ」としての側面も持つ。そしてモノであるからには、言葉にも手ざわりがあるし、重さがある。
冒頭、師範代たちに過去作品を共有したのは、まさにその「モノとしての言葉」の手ざわりを感じてもらうためだった。
実はその知文、福田が初めて師範代登板した期にアリス大賞に選ばれた作品。それからすでに10年近く経っているが、本との関係を描出する際にその学衆が用いたメタファー、《薄紙のように張り付いた》という言葉を目にしたときの驚きを、今でもありありと覚えているという。「私の中で一生忘れられない表象になっています」。手ざわりをもった言葉とはどういうものか、福田の思い入れともどもビビッドに伝わってくる。
松岡正剛は「つけまやスニーカーのバージョン」にあやかることを勧めていたが、世に出回るモノたちが多様な姿をもつのと同様に、800字の中の一語一語もまた、言い換えによっていかようにも変化する。回答に潜む荒削りの原石を敏感に察知し、それをとびきりの“超部分”にまで引き上げること――ここにこそ、「読み手」かつ「編集者」としての師範代ロールの醍醐味がある。
「ぜひともスニーカー2000足分の言い換えを学衆さんに迫ってください!」。カラッとにこやかな福田からの叱咤激励を胸に、54[破]師範代たちは錬成稽古の最終局面へ身を投じた。
写真/得原藍、バニー新井
図解資料/岡村豊彦
バニー蔵之助
編集的先達:橋本治。通称エディットバニー.ウサギ科.体長180cm程度. 大学生時に入門後、師範代を経てキュートな編集ウサギに成長。少し首を曲げる仕草に人気がある。その後、高校教員をする傍ら、[破]に携わりバニー師範と呼ばれる。いま現在はイシスの川向う「シン・お笑い大惨寺」と、講座連携/師範交流ラウンジ「ISIScore」を行き来する日々。
[破]は、松岡正剛の仕事術を“お題”として取り出したとっておきの講座である。だから回答と指南の応酬も一筋縄にはいかない。しかしそのぶん、[破]の師範代を経験すれば、どんなことにも編集的に立ち向かえるように […]
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