何の前触れもなく突如、虚空に出現する「月人」たち。その姿は涅槃来迎図を思わせるが、その振る舞いは破壊神そのもの。不定期に現れる、この”使徒襲来”に立ち向かうのは28体の宝石たち…。
『虫と歌』『25時のバカンス』などで目利きのマンガ読みたちをうならせた市川春子が王道バトルもの(?)を描いてみたら、とんでもないことになってしまった!
作者自らが手掛けたホログラム装丁があまりにも美しい。写真ではちょっとわかりにくいか。ぜひ現物を手に取ってほしい。
(市川春子『宝石の国』講談社)

春町が隠れた。制度に追い詰められ命を絶ったその最期は、同時に「泣き笑い」という境地への身振りでもあった。悲しみと滑稽を抱き合わせ、死を個に閉じず共同体へ差し渡す。その余白こそ、日本文学が呼吸を取り戻す原点となった。私たちは春町の影を通して、文学がいかに悲しみと笑いのあわいから立ち上がり続けてきたかを思い知らされる。
大河ドラマを遊び尽くそう。歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)、宮前鉄也と相部礼子が、めぇめぇと今週のみどころをお届けするこの連載。第三十六回も、花豆腐の浮かぶ余白から、もうひと声、お届けいたします。
第36回「鸚鵡のけりは鴨」(追悼・恋川春町)
「泣き笑い」とは、悲嘆と滑稽という相反する要素を解消せず、そのまま一つの出来事として結び留める編集の身振りです。矛盾を均すことなく、しかし分断もしない。この“緊張の保持”こそが、人が人であることの核心に触れます。『べらぼう』第36回が提示したのは、まさにこの編集倫理でした。理念の純化に殉じる松平定信の「純粋」と、豆腐のオチで死を差し出す恋川春町の「泣き笑い」。両者のせめぎ合いは、そのまま日本文学の二大潮流――「純粋志向」と「ズラし(転倒)志向」――の長い往還史を照らし出しています。
純粋を求めすぎる人間の宿命――定信の規範化と空虚な中心
『べらぼう』に描かれた松平定信は、自らの掲げる理想を「至極当たり前」と呼び、人々の暮らしに押しつけました。倹約を徹底させ、贅沢を禁じ、町人の娯楽や出版文化までも統制の網にかけようとしたのです。しかしその「当たり前」は、定信ひとりの眼にのみ映る偏った理想にすぎませんでした。貨幣経済の変化や身分秩序の揺らぎといった現実には背を向け、人々に一律の生き方を強いたのです。
理念を極端に純化すれば、それはやがて現実にそぐわない仮面となります。その仮面は人々の呼吸を奪い、矛盾や揺らぎを許さず、一人ひとりを同じ型に押し込めてしまいます。人が息を詰めると、他者との呼吸を合わせる余地を失います。つまり「息苦しさ」は、個人の抑圧にとどまらず、共同体の共鳴を断ち切り、分断を生み出すのです。黄表紙の絶版や作り手の封殺に見て取れるのは、まさに理念が仮面と化して人々の生を締め付け、つながりそのものを裂いてしまった現実でした。
この構造は、明治以降の日本文学にも繰り返し響いていきます。森鷗外『舞姫』は、官僚としての出世と国家への忠誠という理念を選んだ青年・豊太郎が、愛するエリスを捨てざるを得ず、彼女を狂気に追い込む懺悔の物語です。そこには「理想を守るために情を切り捨てる」姿が鮮明に刻まれています。島崎藤村『破戒』では、被差別出自の教師・丑松が「真実を語らねばならない」という純粋な倫理に駆られて自らの出自を告白しますが、その正直さは称賛と同時に孤立を招きました。純粋な声は共同体を回復させるどころか、むしろ分断を深めてしまうのです。
江戸の戯作や狂歌が矛盾を笑いに転じ、共同体へ返していたのに比べ、近代文学は「純粋に殉じること」こそが正義だと考える方向へと重心を移していきました。定信の姿勢は、この「純粋志向」が孕む危うさを先取りしており、そこにこそ『べらぼう』が提示する批評性が浮かび上がってくるのです。
純粋を演じ切るという美学――梶井・川端・三島の収束点
純粋志向は、内面の絶対化や美の純化として文学の中心に据えられました。梶井基次郎『檸檬』は、病苦と不安に覆われた青年が丸善の書籍の山に鮮やかなレモンを据える場面を通して、世界の重さを一気に「美の瞬間」へと凝縮します。現実を断ち切り、色彩の純粋へ収束させるこの衝動は、純粋志向の美学の典型でした。
また、川端康成は「美しい日本」を理念化しました。『雪国』では雪明かりに浮かぶ駒子の身振りを、『千羽鶴』では茶器の文様と性愛の交錯を描き、それを生活の矛盾から切り離された“純粋の核”として抽出しました。美の中心へ向かう収束は、しばしば関係の網を断ち切り、孤高と閉塞へと傾いていきました。
この流れの極点に三島由紀夫が立ちます。『仮面の告白』は自己の性と欲望を“仮面”として劇化し、『金閣寺』では崇高な美を破壊によって完結させる逆説を描きました。さらに肉体の鍛錬、政治的行為、そして自死に至るまでを通じて、人生全体を「純粋の演劇」に束ねて完遂しました。矛盾や弱さを露呈することは敗北であり、生を舞台として演じ切ることこそ純粋である――この様式は、理念が過剰化したときに人間が陥る普遍的な構造を苛烈に示しています。
定信の慟哭――仮面が崩れる瞬間の滑稽
しかし『べらぼう』の脚本は、定信に「演じ切る完遂」を許しませんでした。その証となったのが、春町が切腹へと追い込まれていく過程です。定信の主要政策「文武奨励」を上滑りだと痛烈に風刺した黄表紙を著したことで、春町は発禁処分を受け、出頭を命じられます。呼び出しに応じれば御手討ち、藩の取り潰しすらあり得る──そう懊悩した春町は蔦重に相談し、そこで浮上したのが「なりかわり狂言作戦」でした。病を理由に隠居したのだから、そのまま病死と見せかけ、別人として戯作者の人生を歩む。すでに歌麿で実行された策を踏襲する大胆な案に、春町も「それが最善かもしれぬ」と乗り気になり、準備は着々と進められていきました。
計画を打ち明けられた主君・松平信義は、「恋川春町はわが藩の誇りだ」とその文才を讃え、「筆が生き延びるのならば、頭などいくらでも下げよう」と庇護を約束しました。信義は「倉橋(春町)ははしかに罹っている」として時間を稼ごうとしましたが、定信はこれを仮病と断じ、「ならば屋敷まで行く」と迫ったのです。ここでなりかわり策は完全に破綻しました。主君にこれ以上の恥をかかせるわけにはいかない。春町はそう覚悟し、もはや自害の道しか残されていませんでした。こうして春町は、制度と規範の名の下に命を奪われたのです。
この報を聞いた定信は慟哭しました。見せかけの崇高さで塗り固められた仮面は外れ、そこにあらわになったのは、裸の痛みに触れる未熟な若者の泣き顔でした。しかも、その死を招いたのはほかならぬ自らの制度でありながら、その喪失に慟哭せざるをえない――このパラドックスこそが定信を滑稽な存在に転じさせました。純粋を守るために他者を犠牲にしながら、その犠牲を前に涙を流す。そこには理念の勝利などなく、純粋が自滅へ反転する臨界が露呈していたのです。藤村の懺悔が共同体を断ち切り、川端の美が関係から遊離していったように、純粋の絶対化はしばしば孤立と崩壊を招きます。定信の涙は、その宿命を映し返す戯画の鏡であり、その滑稽さこそが批評の刃となっていたのです。
春町の落とし所――泣き笑いの雲隠れ
一方で、春町の死はまったく異なる身振りを示していました。彼は仮面を外しもしなければ演じ切りもしませんでした。彼はただ「ズラす」という身振りで応えたのです。武士として切腹の形式を遂行しつつ、戯作者として「豆腐の角に頭をぶつけて死ぬ」というオチを残す。荘厳と卑近、高位と低位を一挙に重ねるこの二重の身振りが「泣き笑い」を生みました。死は殉教の純化ではなく、共同体へ手渡される編集物となったのです。江戸の黄表紙や狂歌、俄が得意としたのは、まさにこの転倒でした。
この回路は、のちの文学にも通底しています。内田百閒『阿房列車』は「汽車に乗りに行く」という無目的の道楽を真顔で記録し、実用・理念・意味の回路をズラし続けました。井伏鱒二『山椒魚』は、岩屋から出られなくなった一匹をめぐる寓話で、人間存在の閉塞を滑稽に映しました。悲惨と笑いを同居させることで、読者が押し潰されずに現実に触れられる形を作り出したのです。春町の“編集”は、こうして戦後文学の深部にも息づいています。
純粋志向はなぜ制度化されたのか――宗教的空白・国家・近代自我
江戸の文学は、戯作や黄表紙に代表されるように、矛盾や滑稽を笑いに転じる「ズラし」を呼吸としていました。作者と読者と版元が入り混じり、共同体的な関係の中で物語は生まれました。そこには「純粋な内面」を絶対化する必要はなく、雑多な現実を矛盾のまま抱き込む余裕がありました。しかし、幕末から明治にかけて状況は一変します。神仏習合が破壊され、国家神道が成立することによって、伝統的な宗教的救済の回路は断ち切られました。魂を慰める場が失われたとき、その代替を担ったのが文学でした。
森鷗外『舞姫』に描かれるのは、国家の理念を守るために恋人エリスを捨てざるを得ない青年豊太郎の懺悔です。理念を優先するために現実の愛情を切り捨てるその姿は、松平定信の政治と同じ構造を持っています。島崎藤村『破戒』は、被差別出身の教師・丑松が「真実を語るべきだ」という純粋な倫理に駆られて出自を告白する物語です。しかし、その正直さは彼を孤立へと追いやり、共同体との断絶を招きます。純粋な声は、救済ではなく分断をもたらす力として働いたのです。
さらに、近代国家は「国民精神の純化」を担う装置として純文学を制度化しました。夏目漱石はその要に立ちます。『吾輩は猫である』では、文明開化期の知識人を戯画的に描き、江戸的笑いを残しましたが、『こころ』においては「先生」が過去の罪を告白する遺書という懺悔形式を提示しました。純粋な内面を絶対的な声として差し出すその手法は、近代文学を「魂の純化の場」として確立させる大きな一歩となりました。漱石の文学は笑いと純粋表白の両義性を抱えながらも、結果的に純文学の制度を支える役割を果たしたのです。
このようにして、日本文学は「文学=個の内面の純粋な声」という規範を獲得し、江戸的なズラしや笑いは「低俗」として周縁に追いやられていきました。純粋志向は、宗教的空白、国家による制度化、近代化への焦燥、そして近代自我の絶対化という歴史的必然から強化され、鷗外から三島へと至るまで一つの強い流れを形成したのです。
抗いとズラしの系譜
しかし、文学の内部には常にこの純粋志向に対する抗いが芽生えていました。樋口一葉はその代表的な存在です。『たけくらべ』は遊郭近くに生きる子どもたちの心の揺れを描き、理想的な純化ではなく生活の濁流の中に青春を置きました。『にごりえ』は、遊女お力が追い詰められ死に至る姿を、矛盾に満ちた社会構造ごと描き出しました。一葉は「純文学の花」として記憶されながらも、実際には江戸的なズラしの残響を抱え、共同体の矛盾を文学に刻みました。
芥川龍之介は、人間の愚かしさや純粋の狂気を寓話化しました。『羅生門』では生き延びるために盗みを働く下人を描き、正邪の二項対立をズラしてみせました。『地獄変』では美を完成させるために娘を焼き殺す絵師を描き、美の純化が狂気へ転じる瞬間を示しました。彼の作品は純粋とズラしの間で引き裂かれ、最終的に自死へと至る道を照らしました。
谷崎潤一郎は、純粋とズラしの往復を繰り返した作家です。『刺青』では美を絶対化したのち、『卍』や『痴人の愛』では愛欲を戯画的に描きました。そして晩年の『細雪』では、四姉妹の日常を緻密に記録し、理念ではなく生活の持続を美として提示しました。純粋とズラしを交互に生きるその運動は、太宰や井伏へと続く架け橋となりました。
戦後には「泣き笑いの文学」が再び強調されます。太宰治『人間失格』は、破滅する主人公を徹底的な自虐と笑いに晒し、惨めさと可笑しさを同時に差し出しました。井伏鱒二『黒い雨』は、被爆の惨禍を日記体で淡々と描き、そこにユーモアを織り込むことで、読者が押し潰されることなく惨事を記憶できる形を与えました。『山椒魚』では、岩屋に閉じ込められた山椒魚の哀しみを滑稽に寓話化し、孤立を泣き笑いの感覚で伝えました。内田百閒『阿房列車』は、ただ汽車に乗るという無目的の放浪を文学化し、純文学の重苦しい意義づけを逸脱しました。
これらはいずれも、春町の泣き笑いを現代に呼び戻す営みであり、純粋の過剰を戯画や笑いによってほぐし直す文学の回路を維持したものでした。
制度・言語への揺さぶり――安部公房と古井由吉
戦後文学の中で、純粋志向に対するもっとも徹底的な挑戦を行ったのが安部公房でした。『砂の女』は、砂穴に閉じ込められた男が共同体の強制に屈し、逃げ場を失う姿を描きました。そこには制度の不条理がありありと舞台化され、その不条理がときに滑稽なものとして露出しています。『箱男』では、段ボール箱をかぶる人物を通じて、自我が制度と社会の網に翻弄される姿を描き、主体の純粋性を戯画化しました。安部の文学は、理念に殉じるのではなく、制度の枠組みを戯画化することで、ズラしの余白を作り出しました。
また、古井由吉は死や喪失を「純粋な表白」として描くことを拒み、言語と様式の次元で揺さぶりをかけました。『杳子』においては、病に侵される女性の姿やそれを見守る人々の心象が、安定した意味に収束せず、感覚の断片や揺れとして言葉に立ち現れます。死は理念として抽象化されるのではなく、言葉そのものの震えの中に忍び込み、純粋化を拒む力として読者に迫ってくるのです。
さらに『仮往生伝試文』では、荘厳と滑稽をあえて同居させる仕掛けが際立ちます。たとえば「自ら仕込んでおいたご来光にむせび泣く僧」の場面には、死や宗教儀礼の荘重さが同時に茶化されており、純粋な死の表白が突き崩されています。そこに見えるのは、悲嘆の只中に忍び込む笑いの微細な編集の身振りであり、まさに春町の「泣き笑い」の構造を言語実験の次元で継承した営みでした。
安部が制度を戯画化し、古井が言語そのものを揺らしたとき、春町の「泣き笑い」はより抽象的で深い次元に継承されたのです。
現代文学の更新――SNSの純粋強迫に抗して
現代のSNS社会は「純粋強迫」の最前線です。正しさを演じ切れという圧力は、炎上や吊し上げを生み出し、定信の慟哭の構造を繰り返しています。純粋を貫こうとする者はやがて孤立し、涙を強いられます。
しかし、現代の作家たちはその圧力に抗う新しいズラしを発明しています。川上未映子『乳と卵』『夏物語』は、大阪ことばの戯言や会話のズレを全面に開き、母性や身体といった純粋理念を生活の矛盾のただなかへ引き戻しました。読者は声の重なりを通して痛みを共有し、純粋の拘束から解き放たれるのです。
平野啓一郎は「分人主義」を提唱し、自我を「一者の純粋な存在」としてではなく、関係ごとに複数に分岐するものとして描きました。『ある男』においても、個人のアイデンティティは固定された純粋性に回収されるのではなく、他者との関わりのなかで揺らぎつつ生成していきます。ここで純粋な自我の理念は解体され、矛盾を含んだ関係性そのものが人間のあり方として提示されているのです。
さらに小川洋子の作品は、沈黙と異物感を媒介に純粋強迫をほどいています。『博士の愛した数式』では、80分しか記憶がもたない博士が登場します。博士は数学という純粋理念を体現しているように見えながら、その日常は失われる記憶と矛盾に満ちています。けれどもその矛盾は破綻ではなく、子どもとの交流や生活の微細な場面に「泣き笑い」を宿し、美と揺らぎを結び合わせています。『密やかな結晶』においても、対象が次々と消失する社会のなかで、語られないものや欠落そのものが文学の中心に置かれます。小川の筆致は「語られなさ」を残すことで、純粋を強いる社会的圧力から読者を解放しているのです。
SNS的な炎上や吊し上げが「純粋志向の社会的再演」であるとすれば、川上未映子は声のズレによって、平野啓一郎は分人の揺らぎによって、小川洋子は沈黙と異物感によって、その圧力をほどいています。これらの営みは異なるように見えて、いずれも春町の「泣き笑い」を現代に蘇らせる試みなのです。
らせん構造としての日本文学 ―恋川春町という原点―
定信と三島由紀夫を並べると、共通点はあまりにも鮮明です。両者はいずれも理念を過剰に純化し、その仮面を演じ切ろうとした存在でした。定信は「至極当たり前」という理念を制度の基準として刻印し、三島は「美と肉体と死」の統合を人生の舞台に掲げました。矛盾を抱き込む余白を欠き、自己を演劇化して他者に提示する点で、両者は同じ構造を宿していたのです。
しかし相違も決定的でした。三島は最後まで仮面を守り抜き、自死によって理念を完結させました。純粋の演劇は孤高のうちに終わり、共同体との共有を断ち切るものでした。それに対して定信は、春町の死を前に慟哭し、仮面を崩しました。理念を貫徹できず、裸の痛みに立ち尽くす姿は、純粋志向の自壊を批評的に露わにしました。三島の死が美学的な完遂であったのに対し、定信の涙は滑稽さを伴いながら制度の矛盾を突き出したのです。
この対比は、日本文学のらせん構造を示す鏡でもあります。純粋志向が行き着くところには、殉教的な完遂か、滑稽な破綻しかありません。しかし、春町が示した「泣き笑い」は、その二つの帰結を超えていました。矛盾を矛盾のまま統合し、笑いを混ぜて共同体に差し渡す編集の力。ここにこそ、人間を描く文学が持つもう一つの可能性が開かれています。
そして、この「泣き笑い」の編集倫理は、現代作家によっても受け継がれています。川上未映子は大阪ことばのズレを全開にし、母性や身体という純粋理念を共同体の会話に引き戻しました。平野啓一郎は「分人主義」を通して自我を複数化し、関係の場ごとに揺らぐものとして描きました。小川洋子は、沈黙と異物感を通して「語られなさ」を残し、純粋を強いる圧力をほどいています。
定信や三島が見せた「純粋志向の袋小路」を前に、これらの作家は春町のように矛盾を抱き込み、それを矛盾のまま他者へ差し渡す営みを続けています。純粋が強まるたびにズラしが発明され、理念が固まるたびに泣き笑いがそれをほどいていく。この往復運動こそが日本文学の呼吸であり、春町の姿はその原点として今なお生きているのです。
春町の“豆腐の死”は、悲嘆と笑いを矛盾のまま束ね、死を個の劇場から共同体の記憶へと編集し直しました。そこには、人間存在の核心が浮かび上がっています。人生の決定的な瞬間には、涙と微笑が同時に立ち上がります。人は絶望の極みにおいて、自らを笑い飛ばすことで辛うじて生をつなぎとめ、また歓喜の場において、不意に込み上げる涙によって喜びの純粋さが悲しみと地続きであることを思い知らされます。感情は常に二律背反をはらみ、決定的な瞬間にはその矛盾が同時に噴き出すのです。
文学が人間を描こうとするなら、この矛盾をどちらか一方に整えるのではなく、矛盾のまま受け止め、他者に手渡さねばなりません。生の深層に触れる文学は、透明な理念や純粋な感情を提示するのではなく、相反するものが同時に立ち上がる場を、そのまま差し渡すときに生まれます。だからこそ春町が遺した「泣き笑い」は、文学において欠くことのできない編集の技法なのです。
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十五
べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その三十四
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2025-10-02
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♀を巡って壮絶バトルを繰り広げるオンブバッタの♂たち。♀のほうは淡々と、リングのマットに成りきっている。
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2025-09-24
初恋はレモンの味と言われるが、パッションフルーツほど魅惑の芳香と酸味は他にはない(と思っている)。極上の恋の味かも。「情熱」的なフルーツだと思いきや、トケイソウの仲間なのに十字架を背負った果物なのだ。謎めきは果肉の構造にも味わいにも現れる。杏仁豆腐の素を果皮に流し込んで果肉をソース代わりに。激旨だ。