【工作舎×多読ジム】銀色の蜘蛛・硝子の迷宮(中原洋子)

2022/10/27(木)13:39
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多読ジム出版社コラボ企画第二弾は工作舎! お題本はメーテルリンク『ガラス蜘蛛』、福井栄一『蟲虫双紙』、桃山鈴子『わたしはイモムシ』。佐藤裕子、高宮光江、中原洋子、畑本浩伸、佐藤健太郎、浦澤美穂、大沼友紀、小路千広、松井路代が、お題本をキーブックに、三冊の本をつないでエッセイを書く「三冊筋プレス」に挑戦する。優秀賞の賞品『遊1001 相似律』はいったい誰が手にするのか…。

 

SUMMARY


 幼いころに夢中になった銀色の蜘蛛たち。ミズグモとの再会はメーテルリンクを一気に少年時代に引き戻す。空気の泡でできた透明な潜水服を身に纏い、水中の釣鐘型の部屋に棲む蜘蛛たちは、わずか10ミリから15ミリの小さな生命である。観察すればするほど生態の謎は深まるばかりだ。
 クノッソス宮殿に足を踏みいれたテセウスのように、メーテルリンクは知の糸を手に自然や知性、生命と死について思いをめぐらせる。迷路は人を魅了する。迷路の中で起こる出来事に、人は超自然の力を感じ取る。古代人はそこに神を見て、畏れとともに受け入れた。迷路は、また現代社会にも存在する。
「いじめ」は、被害者が抜けられないワナのような構造を持ち、外部からは見えない透明性を帯びている。中井は、中にいる被害者たちに解決の糸を渡そうと試みた。メーテルリンクもまた未来の人類へ「解いてごらん」と糸球を手渡す。
 さあ、難問は解けるだろうか?


 

◆アルギロネタ・アクアティカ
 水中に空気の部屋を造って暮らす蜘蛛がいる。アルギロネタ・アクアティカというロマンチックな名を持ち、日本ではミズグモと呼ばれている。銀引きされたクリスタル・ガラス製のオリーブの実のような、半透明の空気の泡を潜水服がわりにして水中を移動し、空気で満たされた釣鐘型の部屋を造る。体長10ミリから15ミリの小さな生命である。

 

◆運命の再会
 『ガラス蜘蛛』に綴られているメーテルリンクの少年時代の思い出は、常に幸福に満ちている。たくさんの花と虫たちに囲まれた祖父の家。ミズグモと初めて出会ったのもこの庭だった。書斎の机の上に置かれたジャムの瓶の中で元気に跳ね回る銀色の蜘蛛たちは、いくら見ても見飽きることはなかった。それから62年という時が流れ、ミズグモは再びメーテルリンクの前に現れた。子どもの頃目にしたものとそっくりのジャムの瓶がベルギーから届けられ、まさにあの銀色に光る玉たちが動き回っていたのである。メーテルリンクは再び観察に夢中になった。

 

◆ガラスの宮殿
 観察のための顕微鏡は使えない。水から完全に出されると彼、或いは彼女たちは、中世の姫君のごとく失神してしまうのだ。ガラス越しにルーペで覗き込み、メーテルリンクはため息をつく。小さな生命が織りなす世界は、完璧な透明性をもって見る者の前に差し出されているというのに、謎はいまだに謎のままだ。夜の帳がおりると、蜘蛛たちは、水中に白い絹糸と透明なニスで見事な釣鐘型の宮殿を作る。その宮殿に入った途端、蜘蛛の体のまわりで明るく輝いていたクリスタルの泡は光を失い、泡は破裂し、消えてしまう。窮屈だったドレスを脱ぎ捨ててホッとした貴婦人といった様子で、蜘蛛は肢を宙にして眠りにつく。ときおり、ミズダニのような小さな獲物が透明な罠にひっかかると、獲物をはずしに行き、それを自分の部屋の中でゆっくりと味わう。あたかもクノッソスの迷宮で生け贄を喰うミノタウロスのように。

 

◆アリアドネの糸
 透明な罠は人間の世界にも存在する。「いじめ」の構造だ。阪神淡路大震災で自らも被災した精神科医の中井久夫は、被災者の心のケアにあたりながら、自分が少年時代に受けた「いじめ」が現在にも働いていることに気づく。いじめの記憶は決して風化することがない。被害者が抜けられないワナのような構造を持ち、外部からは見えない透明性を帯びている。『アリアドネからの糸』に収録されている論文「いじめの政治学」の中で、中井はその構造に迫る。善良なドイツ人に強制収容所が「見えなかった」ように、いじめが行われていても、それが自然の一部、風景の一部としか見えなくなるのが「選択的非注意」という人間の心理的メカニズムだ。
 被害者にとって、加害者との関係が続く時間は永久に思え、空間は常に加害者の臨在感に満ちている。彼らの絶望はミノタウロスの生け贄と同じくらい深い。
 ミノス王の娘であるアリアドネは、迷宮の奥で怪物を探すテセウスに帰り道に迷わないための糸を渡した。中井もまた、複雑で怪奇な現代の迷える子羊たちに「糸」を手渡そうと試みる。「いじめの政治学」は、『いじめのある世界に生きる君たちへ』(中央公論新社)というタイトルに着替え、子ども向けに再編集された。子どもたち、特に「いじめ」の被害にあっている子どもたちの助けになれば、と願う。

 

◆迷宮のミステリー
 アジアの西の果て、中に入った人間が消える遺跡があるという。恩田陸のミステリー『MAZE』の主人公、神原恵弥は、人間離れした記憶力を持ち、精悍且つ端正な見た目ながら女言葉を機関銃のように繰り出すおネエキャラだ。「これは私の生きる戦略なのよ!」と言い放ち、人間消失の謎に挑む。人はなぜ消えるのか。建物の中はどうなっているのか。迷路では何が起こってもおかしくない。人里離れた自然の中で、不思議な神秘の扉が開くのを経験したことはないだろうか。古代人はそこに神を見て、畏れとともに受け入れたのだ。

 

◆彼方にある真理
 ミズグモとの再会で、運命の途方もない神秘の一端に触れたメーテルリンクは、死と生命の意味について思いをめぐらせる。生命にまつわる疑問は、彼をその神秘主義的世界観の迷路へと誘う。「種」という有機体の一部として永遠に繰り返されるサイクルの環。虫にとっては死はありふれた一つの変容に過ぎない。死を離れた生は、場所を変えて新しい「生」となる。我々が虫たち同様にそのことを知るときはくるのだろうか。
 自然は我々を手招きし、「解いてごらん」と糸玉を渡す。「不可視性」は、そのものの「不在・非存在」の証明にはならない。自然の理も、人間の心の闇も、我々がこの先ずっと世代を継いで追いかけていく難問だ。糸玉を手に暗闇の迷路を歩く。闇の中では誰しもが光を渇望する。彼方にはあるべき真理があるのだろう。いかなる光であろうとも、目を背けずに向きあいたい。

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

∈『ガラス蜘蛛』モーリス・メーテルリンク/工作舎
∈『アリアドネからの糸』中井久夫/みすず書房
∈『MAZE』恩田陸/双葉文庫

 

⊕多読ジムSeason11・夏

∈選本テーマ:版元コラボエディストチャレンジ
∈スタジオゆむかちゅん(渡曾眞澄冊師)

  • 中原洋子

    編集的先達:ルイ・アームストロング。リアルでの編集ワークショップや企業研修もその美声で軽やかにこなす軽井沢在住のジャズシンガー。渋谷のビストロで週一で占星術師をやっていたという経歴をもつ。次なる野望は『声に出して歌いたい日本文学』のジャズ歌い。