編集用語辞典 18[勧学会(かんがくえ)]

2024/07/27(土)08:33
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公園の池に浮かぶ蓮の蕾の先端が薄紅色に染まり、ふっくらと丸みを帯びている。その姿は咲く日へ向けて、何かを一心に祈っているようにも見える。

先日、大和や河内や近江から集めた蓮の糸で編まれたという曼陀羅を「法然と極楽浄土展」で拝観した。折口信夫の『死者の書』にも描かれた伝説によれば、中将姫が一夜にして織りあげたのだという。西方極楽浄土が顕現した目のくらむような緻密な曼陀羅は、浄土宗の開祖である法然ゆかりの當麻寺にご本尊として納められている。

その法然の格別な編集力と革新性に着目した一冊が、松岡正剛著『法然の編集力』(NHK出版)だ。

 

ひょっとして日本仏教における根底的な転換をはたしたのは法然その人なのではないか。法然の「専修念仏」という先駆的革新には、何かよほどの理由があるのではないか。ひょっとするとそこには、たんなる頑固一徹を超えるクリティカルな方法が躍如していたのではないか。それがのちのちの各派各祖をゆさぶったのではないか。だんだんそう考えるようになっていったのです。

 

仏を念じ、心で仏をイメージする「観仏」にこだわるのではなく、南無阿弥陀仏と口で称えることで救われるとする「称名念仏」への概念工事は、悟りの仏教から救いの仏教への、別様の可能性の発見だった。仏教の行の中で最もレベルが低く、功徳も劣ると考えられていた称名念仏を選択した法然の教えは、智慧を極めて悟りを開く仏教や、造寺造仏を極楽往生の条件とする仏教からのパラダイムシフトでもあった。法然の編集方法には、一方を選び、他方を捨てる選択ではなく、「マルチウィンドウ型の情報処理能力やウェブブラウザ―に似た情報選択能力が、生きた状態ではたらいていた」という。こうした法然の立体的な編集術を、本書では「多重微妙選択」という言葉で表し、こう説明している。

 

法然にとって捨てるものなどないのです。デリートがないのです。それなのに法然のブラウザーは界面を擦り抜けていき、そのたびに「選択」が進んでいくという構造になっている。弁証法もなければ、否定の神学もない。ところが気がつくと、専修念仏と阿弥陀仏だけがすべてを擬き、共含有させていたということになっていくのです。

 

いっさいを縮約した称名念仏においては、すべてがホログラフィックに共鳴していた。

法然のすさまじい編集力が生まれたいきさつには、幼いころの体験や、時代背景もあった。人々が戦乱と飢饉や疫病にあえぎ、末法の世の到来が影を落としていた時代のさなか、9歳のときに父親を目の前で殺された法然は、「敵を恨むことなく、私の菩提を弔ってほしい」という父の遺言を胸に仏門の道を歩み、比叡山で修行を積む。だが「南部や叡山が管轄する仏教の教説はあまりにも難解で、どこに「救い」があるのか見えにく」かった。

 

法然は一人の「乱想の凡夫」として、それほどまでに体系づけられた修行を続けることはできないと主張します。天台の教えは正しいかもしれないが、その体系にもとづいて往生するためには自らを律する修行をずっと続けることになる。それならば、父の時国のように一瞬にして死んでいくような悲劇を前にして、人々が仏性を感じることなんてできないではないか。仏教には、もっと思想的な瞬間や想念としての瞬間にまにあうような方法がなくてはならないのではないか。法然はそういうことを訴えたのです。そこには、つねに父の死が大きく影響していたと思います。

 

では法然は、仏典のどこに注意のカーソルを向けていったのだろうか。千夜千冊第1239夜・法然『選択本願念仏集』には、こう書かれている。

 

『感無量寿経』に、静まった心による「定善」と、乱れた心のままでつとめる「散善」とがあると説明しているのですが、法然は散善のほうに大きく注目した。つまり乱心乱想の凡夫である自分にとって、散善の念仏こそが、いや、それだけが重要だった。ここが法然の決定的な着目点です。ここが法然の革命性です。こういう見方はそれ以前の日本仏教にはありませんでした。

 

法然は、比叡山内での出世の道を断り、18歳で遁世を志して中央から遠く離れた黒谷にある青龍寺へ入る。そこは聖や隠遁者が住む比叡山五大別所の一つだった。別所とは、どのようなところなのだろうか。

 

 

■複合的な文化の拠り所

 

先日出版された松岡正剛編著『別日本で、いい』(春秋社)の中で、天台寺門宗の総本山三井寺(園城寺)の長吏福家俊彦氏は、別所についてこのように綴っている。

 

世俗を離れた「無縁」の存在として国家体制からはみ出した遁世僧や聖の活動は、各地に伝わる民間信仰、伝統芸能、祭礼など日本人の生活、生き方に大きな影響を及ぼしてきた。それは平安の貴族仏教、鎌倉新仏教といった仏教史の図式的理解をこえて、日本人が慣れ親しんできた宗教文化の土台となっている。全国各地を遍歴し、民衆の日常に即した新興を伝えていた彼らは、やがて「別所」を拠り所とするようになる。もともと社寺の境内は、世俗社会とは異なった特別な空間と認識され、様々な芸能などが興行される場であった。なかでも平安時代以降、延暦寺や興福寺、三井寺などの権門寺院を本寺とし、その庇護のもとに本寺から離れた場所にもうけられた「別所」は、国家制度の枠組みに包摂されない部分を引き受ける「無縁所」として、いっそう特殊な地域となっていた。そこでは世間を離反した遁世僧をはじめ念仏聖や遊行聖、山伏、芸能職能民たちの教化、結縁、布教の場となり、仏教のみならず神道や道教など様々な信仰が重層的に複合した宗教文化圏が形成されていた。

 

法然が移った別所のある黒谷の地も、儒教と仏教の出合いの場としてのアジールの歴史をもっていた。

 

黒谷は長らく「二十五三昧会」が開かれていた土地でもありました。二十五三昧会というのは恵心僧都源信らが寛和二年(986)に横川の首楞厳院で始めた根本結集の会のことで、毎月十五日にきっかり二十五人が集まって、極楽往生を望んで不断念仏をするのです。不断念仏とは、読んで字のごとく、昼夜分かたず念仏を称えることで、慈覚大師こと円仁が奨励した行なのですが、それを敢行した。そこには貴族の慶滋保胤なども加わっています。保胤という人物は私が好きな『池亭記』や『日本往生極楽記』なども書いた文人で、幸田露伴が『連環記』の主人公として描きました。(『法然の編集力』)

 

慶滋保胤は、法然も修行中に耽読した『往生要集』を著した恵心僧都源信と親しく交わり、そこから二十五三昧会が生まれたという。この結社の元になったのが、勧学会である。

 

 

■アルス・コンビナトリアとしての勧学会

 

イシス編集学校の[守]と[破]の講座では、教室のほかに勧学会という別所が設けられている。そこは教室で稽古をしながら感じたこと、生活の中で気づいた編集、最近読んだ本の話、趣味のことなど、自由に語らいながら交流を深めていくサロンのような場になっている。そもそも勧学会は、平安時代の康保元年(964)から150年あまりも続いた結社で、大学寮の文章院(文章道)の学生と叡山の僧が結縁し、互いに詩文と仏法とを修学したという。この文化サークルの中心的な人物が慶滋保胤だった。唐に倣う文芸(漢詩)の研鑽を積む文章院の学生は、日ごろは儒学を学び、その成果を漢詩として披露する。あらゆるものは太陽のごとき皇帝のおかげであるという儒教の理を説く論議への感動を詩に賦す文章生が、仏教の論議を求めてここに結衆した。皇帝を志向する儒教の論議とは異なり、衆生を見つめ、氷のような教義を溶かし、理解を阻む霧を払う春風のような仏教の論議を文学の士である学生たちは発見し、その感動を、経文を題に詩に仕立てた。勧学会は、詩会に参加した感慨や心情も交わしあうサロンの場でもあったという。仏教と漢詩文のアルス・コンビナトリアがここに生まれ、学生たちは儒教を学ぶ自らの限界を超えていった。

勧学会や二十五三昧会のメンバーの指南書として綴られたのが、源信の『往生要集』だ。千夜千冊第1803夜・源信『往生要集』には、源信がこれほどの画期的な著述をなしえたのは、コレクティブ・ブレインふうの共同知が背景にあったからではないかと書かれている。その立役者が、ひたすら南無阿弥陀仏と称える称名念仏を初めて実践し、世俗の者に念仏信仰を広めた浄土教の先駆者とうたわれる空也上人だったという。

 

空也がいた。詳しい事歴は特定できないのだが、おそらく延喜三年(903)に三河か尾張あたりで生まれ、尾張国分寺でみずから空也と名のって在俗のまま諸国をめぐり、道や橋や坂下を好んで南無阿弥陀仏の名号を称えた。都に上がって東市などを拠点に口称念仏の功徳を唱えると「市の聖」「阿弥陀の聖」と噂され、帰依者が次々にあらわれてきたのが、天慶二年(939)前後だったろうことがわかっている。そうだったと慶滋保胤が『日本往生極楽記』に書いていた。その後、天暦二年(948)に天台座主の延昌のもとで受戒するのだが、本人は戒律にも天台にもこだわらず、好きな者たちと交流した。その中に若い保胤がいた。保胤はおそらく承平三年(933)以降の生まれだから空也の三十歳ほど年下になるが、康保元年(964)に文章道の同志とともに「勧学会」をおこして阿弥陀の名号を称え、王朝風流の名著『池亭記』を書くころ、すなわち「身は朝にありて志は隠にある」と綴った前後には、空也の所業に強く共感した。あるいは出会っていたかもしれなかった。・・・この空也と保胤のいきさつのどこかから源信が深くかかわるのである。おそらく勧学会が二十五三昧会に衣替えしていく前後、念仏結社の連中はひとつの心を往生に向けて共有していて、そこに源信が舞い降りたか、あるいは絆深く融合したということなのだろうと思う。『往生要集』は、以上の空也に倣って勧学会や二十五三昧会の連中のための往生作法として綴られたにちがいない。そう、思える。そこがコレクティブ・ブレインっぽいところなのだ。

 

日本初の念仏ネットワーカーだった聖の空也は、法然にも重なるという。『法然の編集力』にはこんなふうに綴られている。

 

(空也の)易行の実践、阿弥陀一仏信仰の先駆、「南無阿弥陀仏」の唱導、他力の提唱など、法然のプレモデルとしての活動がさまざまに特色されるのです。空也は法然より230年も前の聖ですから、空也のことがもっとあきらかになってくれば、その後の源信から法然に及んだ念仏重視の浄土信仰の実態がみえてくるとも予想されるのです。

 

時代を超えたコレクティブ・ブレインもまた、勧学会を記憶するトポス、黒谷の土地が醸成していたのだろうか。

救いを求め、往生することへの憧れと切実をもって、儒教の教えとは別様の新しい価値観とライフスタイルを共同知で編集した勧学会。

『別日本で、いい』には、別様の「別」についてこのように綴られている。

 

〈別〉とは何か。日本では古来、「別当」「別業」「別所」「別格本山」「別伝」などというふうに、格別な位や場所や建物をあらわすばあいに、しばしば〈別〉の字をつかってきた。「別格の」「特別な」「とりわけ」という意味あいだ。・・・この〈別〉は何を意味しているのかというと、oneに対するanotherをさしている。oneがあってもなおもうひとつの〈別の〉anotherがありうることを言っている。できるだけoneとanotherとの関係を残したくて、あえて〈別〉の字をつかったのである。

 

法然は、観仏というoneから称名念仏という格別なanotherを生み出した。

イシス編集学校の勧学会はいくつものanotherへ向かって、稽古で学んだ編集術と日常を繋げ、そこに集う学衆どうしや師範や師範代がインタースコアして交わしあい、新たな気づきを生んでいくアジールなのだ。

 

アイキャッチ画像:穂積晴明

 

 

§編集用語辞典

 01[編集稽古]

 02[同朋衆]

 03[先達文庫]

 04[アリスとテレス大賞]

 05[別院]

 06[指南]

 07[エディティング・モデル]

 08[花伝所]

 09[師範代]

 10[注意のカーソル]

 11[エディトリアリティ]

 12[守破離]

 13[番選ボードレール]

 14[インタースコア]

 15[アブダクション]

 16[物語編集力]

 17[編集思考素]

 18[勧学会(かんがくえ)]

 

 

 

 

  • 丸洋子

    編集的先達:ゲオルク・ジンメル。鳥たちの水浴びの音で目覚める。午後にはお庭で英国紅茶と手焼きのクッキー。その品の良さから、誰もが丸さんの子どもになりたいという憧れの存在。主婦のかたわら、翻訳も手がける。

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