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イシス編集学校の20年史を振り返りながらNEXT20を展望する
シリーズ[ISIS for NEXT20]には秘された欠番があった。
2020年のインタビュー取材から3年、
ISIS花伝所所長 田中晶子が満を持して「花のカマエ」を解く。
■花伝所は士官学校か?
入伝生を前に、松岡校長は「高をくくるな」といきなり檄を飛ばした。続いて指導陣全員が一列に登壇し、演習のカマエを言い渡す。
“士官学校”と呼ばれる花伝所。心していたとはいえ、大半に緊張が走り、幾人かはこれまでとは違う講座の幕開けに目を輝かせた。『インタースコア』(2015年/春秋社)より
__かつては「士官学校」と呼ばれていた花伝所ですが、今はその頃と違うでしょうか?
田中晶子 ISIS花伝所所長(以下、田中):
違いますね。士官学校のイメージは、今の花伝所からすっかり消えています。
今まで入伝式では覚悟を促していたけど、今は封印するようにしています。やっぱり、考えることが面白い、楽しいと体感しながら学びに入っていけないと、ターゲットに向かっていけない気がするからです。
師範代をやることでエディティング・キャラクターの発露へ向かっていけると思って欲しい、そこに士官学校のイメージが重ならないのです。校長には申し訳ないと、最初から思ってましたけど。
__楽しいと思えないと「学び」へ入って行けない、と。
田中:
そうですね。ワクワクする気持ちになれないと、演習のなかで注意のカーソルが動かない。したがっていつまでたってもカマエが形成できない。「師範代って大変そうだけど自分でもなれるのかも」くらいおぼろげなターゲットでもいいのだと伝えたかったのに、当時は指導陣も私自身も教条的な伝え方しかできなかったのかも知れません。
師範代になる、ならないに関わらず、花伝式目に書かれている指南のしくみや秘密を素直に受け止めて学んで、何かしらを発見して「花伝所は面白かった」という放伝生はたくさんいるけど、全員そんな風には思えなかったかもしれない。
それぞれの学び方とかアナロジーの違いかもしれないけど、誰もが「学び」に興じることができるような環境づくりをもっともっと編集することはできる筈です。「型」を学ぶためにはそのあたりが大事だと、今さらながら感じています。
第1回ISIS花伝所の入伝式を報じる毎日新聞の記事
(画像をクリックすると拡大します)
■「たくさんの私」から「編集的自己」へ
__入伝生が志す「師範代像」は、以前と比べて変化がありますか?
田中:
今は「師範代はやらないけど、外でこのスキルを活かしたい」と言う人もいます。それだと実際のところ困るのですが、直ぐに実践したいということですから、嬉しいことでもあります。社会的な位置付けで師範代像を描いている人は演習にも切実さが滲みますし、心から応援したくなります。
とはいえ、放伝して師範代をやらないのは大きなチャンスを逃しています。師範代として教室に立って一つ一つの所作に入ってから、はじめて「たくさんの師範代像」が高速に去来する。その編集状態が起こるように、そしてコーチとしてLiving-Editingになっていくように、花伝式目は改編されてきました。
__現在の花伝式目(34[花]以降)では〈教えるモデル〉について増補されています。
〈教えるモデル〉の構えを取ることは、師範代に「模範」を求めることではありません。学衆に対して、教室において、自分自身について、常に編集的に振る舞うことを心掛けましょう。
式目演習や師範代登板の体験を通して、こうした編集的態度を実践し、「編集的自己」(エディティング・セルフ)を養って行ってください。[花伝式目]M1-2 解説より
田中:
「エディティング・セルフ」を花伝所で持ち出すのは唐突な時期がありました。そもそも、松岡校長が「師範」のために編んでくれた講義の内容だったからです。「エディティング・セルフの条件(*)」を、校長はまず「師範」が育つためのステップとして作った。でも、後々の学び手の拡張まで想定していたと思います。
入伝式で、校長は「編集工学2.0」などの講義を通して編集的自己へ向かうための条件を伝えてはいました。今となっては「たくさんの私から編集的自己へ」という言葉も浸透してきているので、「さぁここからは編集プレイヤーとして遠慮なくどうぞ」と、ロールチェンジを促しながら編集工学に向かっていけるでしょう。
*エディティング・セルフの条件:
松岡校長が「師範」へ向けて提示した、編集的な自己へ向かうための方法的ディレクション。6つの指針が示されている。
1)「たくさんの私」から「編集的自己」へ
2)私の前に投げ出された世界
3)ブーツストラッピングするために
4)世界の再編集のために
5)エディティング・キャラクターを構成する
6)新しい編集的世界像をもつ初出:花の御所(2008-2009年)
__とすると「エディティング・セルフ」という概念は、「NEXT ISIS」への方向づけでもあったということでしょうか?
田中:
そうかも知れないですね。
やっていることが編集学校のなかだけでグルグルとディスチャージされるのではなくて、スピンアウトして行くことが、その人自身を変えていきます。編集学校の中だけでエディティングしてる人はいないと思いますが。
__「問・感・応・答・返」の「返」ですね。
田中:
そうですね。「返」は外で起こって、内外が連環していくんじゃないかと思うんですよね。
__今も昔も変わらないと思うのですが、「師範代になるにはそれなりの資質が求められる」というように考える人が少なくありません。
田中:
それは大きな誤解ですね。
[守][破]の稽古では、何かしら「たくさんのわたし」を引き合いに出してやってますよね。だから、どの「わたし」でやれば師範代になれるか、と考えれば問題ない筈なんです。もしそこが足りないと思うなら、何度でも「わたし」を編集的に耕せば良い、そういうことなんじゃないかと思います。「わたし」は花伝演習のもう一つのテーマですね。
__なるほど。「わたし」の持ち出し方次第ということですね。
田中:
編集し続けたいと思う方向へ向かいたいかどうか、その動機づけも方法的に考えた方が自分を乗せることが出来るんじゃないでしょうか。既に表象されている師範代への憧れがキッカケになっても良いですね。「あんなふうにやりたい、なりたい」と思う気持ちを持つことが大事なんだと思います。
なんにつけクリエイティブな感覚を持ちたいですね。「先生」が教え方を工夫するように、「方法」に面白さを感じて編集をかけていく。もしそういう状態にならなければ、何かインプットが足りないか、体験してきたことを「モデル(型)」として取り出せていないのだと思います。
花伝所は「型」をどう動かすかということを演習し続けますよね。型を理解して、実践して、自分と相手に合うように修正しながら更新していく。そのスキルの意味をもっと豊かに交わしていく必要があるのかも知れません。型は動かさないとそのままなんですよね。
■「カマエ」と「ハコビ」
__「型を動かす」ということについて、ここでも「カマエ」がキーワードになるように思います。
日本の舞や踊りは、能にしても日本舞踊にしても上方舞にしても、基本的にはまず動かないことから始まる。(中略) しかし、ずっと動かないわけではない。そこにカマエ(構え)ができて、ついでハコビ(運び)が生まれて能仕舞や舞踊になっていく。
では、どのようにしてカマエやハコビが生まれるかというと、動かない身体と知覚に、ちょっとした「程」というものが出てくるんですね。あるいは見えてくる。その「程」を掴んで、それを手繰っていくとカマエになり、ハコビになっていくわけなのです。EditCafe[校長室方庵:36]より
田中:
私はこの文章に差し掛かるたびに「これが花伝所だ」と思うんです。まずカマエをつくってみる。ハコビの前に出来ることがある。
__ここで言う「カマエ」は「心構え」というようなニュアンスではなく、方法的なメソッドとして取り出すことが出来そうです。たとえば、何か察知力のようなものが働くのでしょうか?
田中:
観察して差異を見つけて、そのなかで何かが見えてくる。もしくは、とにかくトライ&エラーして気づいていく。そうしてホドを掴んでいく。「察知」の前に何かが必要なのでしょうね。
__なるほど。では、察知の手前の段階に編集コーチとしてアプローチするとしたら、やっぱり何らかの「躾け」が必要でしょうか? それとも、何かが自ずと「解発」されるのを待つべきでしょうか?
田中:
そこでコーチがどう声を掛けるか、ですね。型から外れていたら、そこは躾けてあげる必要があるかも知れない。だけど、異質な見方を奨励してあげることはとても大事なことです。少なくとも、褒められるために何かをするような状況にはしたくないですよね。編集稽古は、自分で何かをつくりだしたり何かをクリエイティブに起こして行きたい、というところに至るためのものですから。
そう考えると、その場で指導者がどう声を掛けるかということは、その場に居合わせた人たちからどんな言葉が出て来ているのかを見ていくことが大切だと思います。
そもそも評価には、スジの評価(それがよってきたる思考の筋)、カマエの評価(その情報表現がとった構造感覚)、ハコビの評価(その情報表現によって動き出したパフォーマンス性)など、むろんいろいろの評価軸の設定がありえます。
Editcafe[校長室方庵:21]より
一方で、「ここまでしか出来ません」と可能性を見限ることに慣れてしまっている人に対して、指導者として何を言ってあげれば良いのか分からないという難しさも理解できます。でも、本人が物事を編集的に見れないときこそ師範が当人から言葉を引き出す必要があります。
「解発」は相互があって起こるもので、指導や指南によって”引き出された”体験こそが創発となっていく。1回1回のコンティンジェントな「ワカルとカワル」体験が、個々が思考を拓くトリガーとなり刺激し合い、自走していく。[守][破]ではそういう指南を1度ならず受け取っているはずです。
__編集道の原郷となる [守][破]の教室での体験は大きいですね。
田中:
[守][破]での教室体験は大事なモデルですが、式目演習のなかではその体験を相互に共読し合うので、自身のモデルを更新するチャンスもあります。編集稽古で互いをノックしたりキックしたりしたことすべてを対象化してみることが、師範代への道の出発点と言えるのかな。
[離]を退院した直後の入伝生は、溢れるほどの情報と渇望を持って入ってくるので、ターゲットをもう一度言葉にしてみることも大事ですね。
田中晶子 ISIS花伝所所長:花伝所のチャームな女将は、アルカイックな微笑みを配り歩いている。その眼差しは遠く編集可能性の地平を見遣り、昼は奮闘する志士たちへ慈愛を注ぎ、夜は眠る原石へ想望を届け、朝は精励する忍耐へ労いの味噌汁を運ぶ。まるで無尽蔵のもてなしは、未だ見ぬ編集資源を採掘しては練磨し、やがて編集を冒険へ導くだろう。
【別紙花伝】「秘すれば花」を解く(1)(2)
【別紙花伝】「5M」と「イシスクオリティ」
[週間花目付#010] 「3M2.0」の可能性
写真:佐々木千佳
聞き手:深谷もと佳
第39期[ISIS花伝所]申し込み受付中!!
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
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