おしゃべり病理医 編集ノート - 天然ボケの創発力

2020/05/26(火)10:07
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 「おぐら家が二十の扉で遊んだら?」というエッセイを、以前に書いたが、それを読んだじゅんちゃんが仕事から帰ったばかりのわたしにこう言った。
 
 「あなたのエッセイ読んで、初めてあのゲームのルールがわかったわ」
 
 しばし絶句した。(ルールがわかっていなかった?あんなに積極的にゲームに参加していたのに?)じゅんちゃんはいつだって、びっくりする発言をして、仕事モードを引きずって帰ってきたわたしをおぐら家モードに戻してくれる。
 
 「ちゃんとルールがわかっていたら、あんなバカな質問しなかったのになぁ」
 
と、じゅんちゃんはとても残念そうにつぶやいた。衝撃を受けつつもとりあえず「ルールがわかってよかったね!」とにっこりしておいた。
 
 たしかにルールがわからなかったから、あんなにとんちんかんな問いを連発していたのだろう。エッセイで紹介する以外にも珍回答続出で、ドライバーの主人が爆笑して、運転の妨げになるほどだった。ルールがわからないまま、ずーっとゲームに参加しているじゅんちゃんはやっぱりいろんな意味で型破りだ(まだ、二十の扉のエッセイをご覧になっていない方はぜひこちらへ)。
 

 ゲームには、ルールがある。というかルールがなければゲームではない。ゲームだけではなく、普段の会話も、ルールのようなものがその時々の場面によって自然と設定されて成り立っている。

 認知科学では、なにかを理解するうえであらかじめ用意される場のようなものを「フレーム」とよぶ。マーヴィン・ミンスキーが提唱した。わたしたちは、五感から実に様々な情報をインプットしているが、フレームとは、その時に適切な情報を取捨選択するうえでの枠組みのようなものといっても良い。そのおかげで、情報の洪水にさらわれることなく日々を過ごせている。

 
 日常会話は、お互いのフレームを重ね合わせることで成立している。たとえば、職場の午前中に「今日どうする?」とつぶやいたわたしに、後輩のかりんちゃんが「タリーズはお休みだから、またコンビニですかねぇ」と答える。職場の午前中という状態を踏まえ、今、お昼ごはんの話をしようとしているのだな、と、わたしが提示した話題のフレームをかりんちゃんが認知することで、会話が成立している。
 
 日本人はことさらに相手のフレームを読み取ることを気にかける。空気を読む、忖度する、これらはフレームを読み取ることの言い替えである。
 
 おぐら「この腫瘍ってさ…」
 ながせくん「なんか悪そうですよね」
 
というように、フレームの読み取りが進んでいくと、「共話」という状態に発展する。お互いの言葉でひとつのフレーズを創る。これは日本語に特有の現象らしい。帰国子女で英語ぺらぺらのながせくんもやっぱり日本人なんだなぁ。そのくらい日本語は、認知のフレームの共有を重視しているといえるだろう。
 
 じゅんちゃんは、いわゆる天然ボケである。友人に「かなちゃんのお母さん、わたしが今まで会ったひとの中で3本の指に入るくらい面白いよ」と言われたこともある。ある意味、自慢の母である(笑)
 
 天然ボケの「ボケ」であるが、これはもしかしたら認知フレームのヘリがぼんやりしていることを意味するのかもしれない。かのヴィトゲンシュタインも「世界はそもそもぼけたヘリを持っている」って言っていたし(ちょっと意味が違うかな)…あるいは、天然ボケのひとは、認知フレームの切り替えが苦手なのか?
 
 いずれにしても自分のフレームと相手のフレームのズレをあまり気にしないのが天然ボケの秘密な気がしてきた。だからゲームのルールを理解していなくても、とりあえずゲームにも会話にも参加できてしまうのである。その天真爛漫さは場をとても明るくしている。
 
 今、医学教育の新しいコミュニティの場を色々考えて動いてるところなのだが、松岡校長が「わからないものはわからないままにするってことも大事だよ」とアドバイスをくださった。それって天然ボケの状態をコミュニティ内に作るってことだろうか?と連想した。じゅんちゃんを投入するということか!
 
 編集は不足から生まれるのだから、認知フレームをくっきりさせすぎて、わかるとわからないをわけすぎると、わからないことから生まれるはずの様々な仮説形成までそぎ落とされるということだろう。わかろうとしてわからない部分のズレをそのまま大切に抱えて、仮説形成の余地にしていくハイパープランニングが必要なのである。
 
 前々回のエッセイで、情報の差異に敏感であることの重要性について語った。「わかるとわからないをわけすぎない」と聞くと、差異に敏感であることとなんだか矛盾しているように思われるかもしれないが、わかろうとしてわからないズレを見出すことこそが、差異に気づくことでもあるだろう。
 
 プランニングに関しては、[破]の稽古のいちばん最後にしっかり学ぶが、悩んだときにいつも立ち戻る千夜千冊がいくつかある。そのなかで最も活用しているのが千夜千冊1566夜『アブダクション』である。わたしにとって、ワインバーグの1230夜『一般システム思考入門』との二大双璧の千夜だ。今まで、何十回と読み返してきたが、毎回、新しい気づきがある。
 
 わからないままのズレをそのまま抱えつつ何かに向かっていくことは、アブダクティブ・アプローチと呼ばれる。仮説形成をもってわからないことに向かっていく方法。『アブダクション』にはこうある。
 
 アブダクティブ・アプローチの積み重ねをしていくと、必ずや新たなルールとロールとツールを生み出せるということがわかってきます。
 
 お互いのフレームを重ねていく会話においても何かの企画においても、間に仮説形成が差し込まれ、いくつもの問いがつながっていくと、集まった大きな問いに答えるための方法というものの輪郭が見えてくる段階がある。それは、ルールを形づくり、そのための役者(ロール)や道具(ツール)もおのずと決まってくるだろう。自分の既存の役割に固執していたり、組織のルールばかりに気を取られていると、自分が形成しているフレームがいつのまにかとっても小さなものになり、身動きが取れなくなる。じゅんちゃんを投入することをつねに意識すると、フレームのあちこちがほぐれてきて、色々なアイディアが生まれてくるような気がする。ちょっと勇気が湧いてきたぞ。
 
天然ボケフレーム

  • 小倉加奈子

    編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。