天使のエチュード OTASIS-10

2020/02/28(金)11:12 img
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・・・朝、鈍い日が照ってて 風がある 

千の天使が バスケットボールする――中原中也「宿酔」

 

 「宿酔」のなんたるかも知らぬほど初心な時分にこの詩に惹かれたせいで、私の中の天使像はまっ白なバスケットシューズを履いて天翔けるアスリートのようだ。だけど天使の顏はまぶしすぎてよくわからない。

 

・・・あれは、いったい何だったのだろう。ボカノウスキーというフランスの監督による「天使」なる映画があった。カルト映画好きがこぞって見に行って、「かつてない実験的作品」だと絶賛していた。私には、高熱のときに見る悪夢のような映像と神経に触るような音響が耐えがたかった。なのに階段を昇っていく“燃える天使”のイメージだけは強烈に記憶に焼きついている。映像的トラウマのように。それもやっぱり顔のない天使だ。

 

・・・天使といえば翼を背中にもつかわいらしい少年や、美形の青年とかアンドロギュノスのような姿かたちで描かれることが多いが、これはギリシア神話のキューピッド(クピド)や勝利の女神ニケのイメージに影響されたものらしい。もっとも、少年天使の翼は小鳥っぽくて愛らしいけれど、おとな天使の翼はときに猛禽類めいていて、ちょっとこわい。第九「歓喜の歌」にもあらわれる智天使ケルビムは、人間とライオンと牛と鷲が合体した頭部と4つの翼をもつとされ、そのまま描くとあまりにも怪異な姿になるせいか、しばしば翼の生えた生首のような姿であらわされる。こういう異形異体が本来の天使の姿なのかもしれない。

 

・・・描かれた天使なら、軽やかな線をまとったパウル・クレーの天使がいい。おませな天使、未熟な天使、泣いている天使、忘れっぽい天使、疑り深い天使……。どの天使もほほえましく、少し哀しげにみえる。そのほとんどはクレーの晩年の命の翳りのなかで描かれた。ナチスによって頽廃芸術という誹りを受け国を追われ、進行性の皮膚硬化症も抱えていた。そんなクレーに寄り添うかのように、谷川俊太郎がクレーの天使たちに一編ずつ詩を添えた本がある。谷川さんの言葉にあやかって、私もときどきクレーに寄り添ってみたくなる。

 

・・・わたしにはみえないものを てんしがみてくれる 

   わたしにはさわれないところに てんしはさわってくれる

   わたしのこころにごみがたまっている 

   でもそこにもてんしがかくれてる つばさをたたんで

   ――谷川俊太郎「天使、まだ手探りをしている」

 

・・・クレーの水彩画「新しい天使」はほかのどの天使作品とも似ていない。ひりつくような顔で両目を見開いて、なんだか威嚇しているようにも見える。ヴァルター・ベンヤミンがミュンヘンの画廊で手に入れて、肌身離さぬほど大事にしていた。この絵にちなんで「新しい天使」という雑誌を企画さえした。天使の詩のように儚くとも、「時代の精神」を証言する唯一真実のアクチュアリティを具えたいという熱烈な雑誌予告文を発表した。でも、創刊にはいたらなかった。

 

・・・歴史の天使はこのような姿をしているにちがいない。彼は顔を過去のほうに向けている。私たちの眼には出来事の連鎖が立ち現れてくるところに、彼はただひとつ、破局(カタストローフ)だけを見るのだ。その破局はひっきりなしに瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて、それを彼の足元に投げつけている……私たちが進歩と呼んでいるもの、それがこの嵐なのだ(ベンヤミン「歴史の概念について」より)。・・・「新しい天使」は瓦礫を前に立ち尽くす、ベンヤミンの分身だったのか。

 

・・・「新しい天使」は、ベンヤミンがナチスからの逃亡に失敗し、ピレネー山中で服毒自殺を遂げる直前に、パリ国立図書館の司書だったジョルジュ・バタイユに託された。膨大な「パサージュ論」の草稿とともに。ファシズムの凶暴な時代をクレーの手からベンヤミンの手へ、そしてバタイユの手へと渡り続けた天使はいま、イスラエルの博物館に安住の場所を得ている。

 

・・・ヴィム・ベンダースの『ベルリン 天使の詩』は、ベンヤミンが愛した「新しい天使」へのオマージュだったのか。「壁」が崩壊する直前のベルリンの街を天界から眺め降ろしているかと思えば、地上をさまよって人びとの秘められた想念に耳を傾ける、まさに“パサージュ”しつづける天使たち。どんな苦しみや悲しみの吐露を聞きつけても、天使たちはただただ傍らに寄り添うことしかできない。天使の姿は子どもの眼には見えるのに、大人には気配すらも感じることができない。

 

・・・ベルリンの天使の翼は象徴的に表現されるだけで、なぜかみんな分厚い地味なオーバーコートを着込んでいた。ブルーノ・ガンツとオットー・ザンダー演じるちょっと情けない風情の“おじさん天使”が、髪をちょこんと襟足で結んでいるのが翼の名残のようで可憐だった。でもいちばん愛すべき天使は、ピーター・フォークだ。ピーター・フォーク当人の役で、しかも下界に“還俗”した元天使を演じていた。“刑事コロンボ”は、ジョン・カサベテス監督に愛された名優だった。

 

・・・ベルリンの天使たちが溜まり場にしている図書館のシーンが忘れられない。そこには青年天使も女性の天使もいて(やっぱりみんなオーバーコートを着て)、キャレルで黙読している人々の傍らでいっしょに本をのぞき込みながら、その内声に聞き入っている。たくさんの内声が重なりあいカテドラルのような図書空間を満たしていく――そのなかには、ああ、ベンヤミンの「新しい天使」に関するロゴスも、こっそりまじっていたらしい。ときおり顔をあげて、無力だけど優美な微笑みを交わし合う天使たちも、きっとその言葉を聞いたはずだ。

 

・・・エンドクレジットに、「すべてのかつての天使たちとともに、小津安二郎、フランソワ・トリフォー、アンドレイ・タルコフスキーに捧ぐ」というような言葉があった。ヴィム・ベンダースだけではなく、いまなお多くのシネアストたちを揺さぶり、閃きを与えつづけている、映画の守護天使たち。

 

・・・1996年、松岡正剛は、岡崎市の新設美術館のために「天使と天女展」を企画した。背中に翼をはやして天空を翔ける西方の天使と、翼をもたないかわりに「羽衣」をまとって天空に舞う東方の天女を対比させ、東西の世界観の出会いを演出するというものだ。いまはなき内田繁さんが、円形の「天使の部屋」と方形の「天女の部屋」を中心にしながら、西と東を何度もまたいでいくような光の回廊をしつらえた。超編集的でモダンでファンタジックな展覧会だった。

 

・・・その数年後、NHK日曜美術館の狩野芳崖特集をナビゲートすることになった松岡は、東京芸大の作品保管庫であの一世一代の名作「悲母観音」とともに、制作プロセスのなかで芳崖が描いた大量のエチュード(習作)に対面した。そのなかに、天使のような翼を背にもちながら、たおやかに天衣をまとった観音のデッサンがあった。もちろん完成した「悲母観音」には翼は描かれていない。フェノロサや天心から示唆を受けて、東西の絵画を融合することに腐心していた芳崖に、一瞬だけ舞い降りてきた儚いインスピレーションだったのか。もし松岡正剛に守護天使がいるなら、この習作の天使観音ほどふさわしいものはないと、ひそかに思ったものだった。

 

 


  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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