予告篇という愛すべき詐欺師たち OTASIS‐25 

2021/10/28(木)08:54
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予告篇はあくまで遠くの夜店のようにつくってほしいのだ。

松岡正剛 千夜千冊第182夜『三分間の詐欺師』より

 

 映画の予告篇がおもしろい。予告篇を見るのが大好きだ。とくに大手シネコンなどでは、作品上映前に延々と、かれこれ15分以上も予告篇ばかりを見せられることがあるが、私は全然オッケーだ。

 

 予告篇を見ると、アクションであれサスペンスであれ人間ドラマであれアニメであれ、どれもこれも空前絶後の傑作のように思わされる。ついつい「見てみようかな」という気になる。けれども予告篇は、ことごとく「カット編集の魔術師」であって、「三分間の詐欺師」なのである。作品の見どころを押さえつつも、観客の関心を惹くためにあの手この手のトリッキーでギミックな編集をしているものだ。映画の予告篇を見る楽しみは、その「詐欺師っぷり」を堪能することにこそある。

 

 そもそも映画の予告篇の誕生からして、どことなく詐欺めいていた。1913年、シカゴの映画技術者セリグが新聞社に「The Adventures of Kathlyn」という15本の短編からなる活劇映画の企画を持ち込んだ。これらはすべて、主人公の絶体絶命のピンチといったクライマックスで終了してしまう「クリフハンガー」形式でつくられていて、その続きは新聞紙面に掲載するというなんともあこぎな企画だった。ところがこれが大いに受け、映画予告篇が生まれるきっかけになったのだ。

 

 つまり予告篇は、「いかにして観客を崖っぷちで宙ぶらりんにさせるか」というアイデアから生まれていったわけである。やがて予告篇は、大手スタジオの隆盛とともに映画業界のなかでなくてはならないものになっていく。1920年代には早くも予告篇専門会社National Screen Service(NSS)が設立されている。以来、アメリカ映画の予告篇のほとんどは、専門会社に所属するディレクターたちによってつくられてきた。

 

 邦画の世界では、長らく予告篇が助監督にまかされる時代が続いた。予告篇だって一本の作品だという意識が強かったのである。それを覆し、派手な広告的予告篇をテレビでじゃんじゃん打って時代を画期したのが、1970年代の角川映画である。私も、『犬神家の一族』や『人間の証明』など角川映画の予告篇がお茶の間に登場するやいなや、たちまちエンタメ界を席捲し、コント番組のパロディや子どもたちの遊びの中にまで浸透していったことを鮮烈に覚えている。

 

 その一方、じつは日本では邦画よりもうんと早く、洋画の予告篇のほうに専門集団が登場している。かつて洋画の予告篇は、本篇に付いてくるオリジナル予告篇に字幕スーパーをつけてそのまま使っていたのだが、オリジナルが必ずしも日本人受けするとは限らない。またヨーロッパ映画には予告篇というものがなかった。そこで、日本の配給会社が独自に予告篇をつくるということが早くから始まったのだ。その草分け的存在が、千夜千冊にも取り上げられている『三分間の詐欺師』の佐々木徹雄である。

 

 もちろんアメリカでも日本でも、予告篇制作を専門会社まかせにするのはあきたらず、みずから指揮に乗り出す監督たちもいた。ヒッチコックが「サイコ」の予告篇を自分でつくっただけではなく、予告編に出演して撮影スタジオを案内するというサービスまでしてみせたのは有名な話である。キューブリックは「博士の異常な愛情」で、映像の間に断片的な文字のカットを連打するという斬新な予告篇を制作してみせた。最近では、庵野秀明監督が「シン・ゴジラ」の予告篇を自分で手掛けて話題となっていた。けれどもこれらはあくまでレアケースである。

 

 予告篇制作会社「バカ・ザ・バッカ」を率いる池ノ辺直子さんは、本篇から「売り」になるシーンを抜き出して、本来のストーリーの流れとはまったく関係のないところで使っていくのが予告篇というものである、予告編制作者にとって本篇はただの素材の集まりにすぎないとまで言いきっている(光文社新書『映画は予告篇が面白い』)。こんな大胆不敵・傍若無人は、本篇の編集に身を切られるような思いでかかわりつづけた監督にはとうていできない相談だろう。

 

 昨今は映画の宣伝手法が大掛かりになり、大作映画ともなると15秒、30秒、2分、3分など尺の違う予告篇をいくつもつくったり、国ごとにまったく方向性の違う予告篇を何種類もつくったりするようになっている。ネットで予告編が何度も再生されることを計算に入れて、わざと観客をミスリードしそれによって話題を沸騰させるという戦略も出てきているようだ。なんだか予告篇の「詐欺」のスケールが国際犯罪並みに大きくなって、やたら手が込んできているのである。

 

 以下、最近の予告篇の「詐欺」の手口をいくつか並べておきたい。同じ手口をつかっても、喝采ものの予告篇になることもあれば、噴飯ものの予告篇になることもある。そこを見極めるのが予告篇に上手に騙されながら楽しむコツになる。

 

〇サブスチBGM予告

 サブスクではなくサブスチ=サブスティテューション(代用)。予告篇で使われる音楽の多くは代用であり、本篇では使われていないことが多い。主題歌やアーティストを公開まで伏せておくためにあえて予告篇用の音楽をつくっていれることもあるが、たいていは予告篇制作時に本篇音楽が間に合っていないという業界事情のためらしい。予告篇で使われた音楽に惹かれて本篇を見に行くと、手ひどく裏切られるので注意が必要だ。

 

〇非道フェイク予告

 大好きな俳優が出演するアクション映画かと思って実際に見てみたら、なんとゾンビ映画だった。“恐怖映画”が苦手な私がもしこんな「騙し」に遭ったら、一生もののトラウマになってしまうだろう。こんな手口も平気でまかり通っているのが仁義なき予告編の世界である。私は本篇を見ていないが、ウィル・スミスの「アイ・アム・レジェンド」、ブラッド・ピットの「ワールド・ウォー・Z」の予告篇がまさにこれだったようだ。さすがに、俳優ファンにもゾンビファンにも失礼だと思う。

 

〇確信犯的ミスリード予告

 「結末は誰にも言わないでください」系の大どんでん返し映画では、予告篇であえてまったく別な推理に観客を誘導しておいて、本篇でさらにびっくりさせるという手の込んだ仕掛をすることがある。デヴィッド・フィンチャー監督の「ゴーン・ガール」は、監督みずから予告編をつくり、その思わせぶりとはまったく違う展開になっていく本篇で観客を二重に驚かせた。未見の方は以下の予告篇を見ていろいろ推理してから本篇をどうぞ。

 

デヴィッド・フィンチャー監督「ゴーン・ガール」予告篇

 

〇過剰マーケティング予告

 ディズニーの3Dアニメ映画「ベイマックス」は、各国の国民性や人気映画の傾向をふまえて、それぞれに狙いの違う広告ポスターおよび予告篇展開をした。この巧妙なマーケティングによって、実際にはロボット戦闘映画の要素が強い映画なのに、多くの日本の子どもたちは心優しいロボットと少年の友情物語だと思い込んで見に行って仰天したらしい。これはもはや、子ども誘拐事件並みの犯罪ではないだろうか。

 

〇おまけ:罪なきトンチンカン予告?

 本篇のクセが強すぎて、ほとんどトンチンカンに見えてしまう気の毒な予告篇もある。とりとめのない筋書きのせいか予告篇がただのあらすじ紹介のようになってしまったもの(ウディ・アレン監督「レイニーデイ・イン・ニューヨーク)、世界観とシナリオが複雑すぎて予告篇が意味をなしていないように見えるもの(クリストファー・ノーラン監督「TENET」)などなど。いきなりナレーションがフライング気味に本篇の重要なネタをばらしてしまうという不可解な予告篇もある(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督「メッセージ」)。

 

ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督「メッセージ」予告篇

 

 

 やっぱり予告編の「騙し」は、カット編集術の魔術によって勝負してほしいものだ。それに、本篇以上におもしろい予告篇があってもいいと思うが、本篇への憧れを香しくかきたててくれるような予告篇でなければ困る。私が堪能したいのは、松岡正剛がいうような、あくまで遠くの“夜店”のようにつくられた予告篇なのである。

 

 

 

■特別付録

アメリカには“予告編のオスカー”ことゴールデン・トレーラー賞があって、毎年あまたある予告篇を審査し、あれこれの賞を発表している。ここ数年の最優秀賞は次のようになっている。このなかから、私自身がびっくりした「ゼロ・グラビティ」の予告篇もあわせて紹介しておきたい。文字通りに息がとまりそうになる予告篇だ。

 

2021:「クワイエット・プレイス」

2020:コロナのため中止

2019:「ジョン・ウィック パラベラム」

2018:「ブラックパンサー」

2017:「ワンダーウーマン」

2016:「スポットライト」

2015:「ワイルドスピード sky mission」

2014:「ゼロ・グラビティ」

2013:「アイアンマン3」

2012:「ダークナイト ライジング」

 

アルフォンス・キュアロン監督「ゼロ・グラビティ」予告篇

 

 

□アイキャッチ画像について

1931年の映画「フランケンシュタイン」(ジェイムズ・ホエール監督)の予告篇より。当時はこの禍々しい「HORROR」の文字だけで震え上がった映画ファンもいたのであろう。モンスターを演じたボリス・カーロフは、以降怪奇スターとして人気を博した。

  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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