OTASIS26 国語問題のミステリー

2022/02/02(水)08:52 img
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◆試験に出る松岡正剛

 

 2021年末の「ほんほん」で松岡が明かしたように、いま『試験によく出る松岡正剛』という書籍の企画構成が着々進んでいる。

 

 松岡の著作をつかった国語の試験問題が、2000年ごろから急速に増えてきた。著作が入試問題につかわれると、事後承諾というかたちで問題用紙が送られてくる。問題は来るけど正解は付されていないので、たいていスタッフが、たまに松岡が自分で解いてみたりする。これが案外難儀なのである。とくに松岡は「次の中から著者の意見と一致するものを選べ」といった選択問題が苦手らしい。「どれも正解だと思うんだけど」と首をかしげている。

 

 そんな当人の困惑を紹介することも含めて、松岡本を使った試験問題を集めた本をつくってみたいと某教育系出版社に相談したところ、大変おもしろがってくれた。ほどなくして正式に出版化が決まった。何度か松岡入りで企画会議を行い、昨今喧しく議論されている国語力というものについて松岡はどう考えるのか、また松岡だったらどんな入試問題をつくるかといったこともコンテンツに加えることになった。

 

 その一方で、書籍で取り上げるための入試問題を選抜するため、編集学校千離衆の有志40人に80校分の松岡の著作をつかった入試問題を解いてもらい、作問の狙いや方法についてリバースエンジニアリングしてもらった。とくに良問という評価が集中した学校の問題については、国語教育を専門とする数人の千離衆にさらに詳しく分析してもらった。それらの「選抜校」に逆アプローチし、実際に作問した先生へのインタビューなども試みている。中学入試で松岡の著書を取り上げた先生は、松岡の文章の組み立て方を的確に理解しているだけではなく、編集思想への共感さえもってくださっていた。たいへん心強いことだ。

 

 

◆共通テストの国語問題

 

 そんな渦中にいるため、1月16日、今年の共通テストの問題と解答が各メディアに発表されるやいなや、国語(現代文)の問題をすぐに確認してみた。「もし松岡の著書がつかわれていたら、こんどの書籍は大ヒットするぞ」という皮算用はまんまとはずれたが、私の目的はもうひとつあった。それは、2021年から導入された共通テストで当初目論まれていた「国語」の作問の新しい方向性について、この数ヵ月いろんな立場の方のあれこれの批判的意見を見聞きしてきたため、今年はどうなったのかをいち早く知りたかったのだ。

 

 2021年の共通テストは各教科で、複数のテキストを読み比べたりマップやグラフやデータなどの資料を合わせ読みしたりするような、多面的・多角的なアプローチを要する新しいタイプの問題が登場して話題となった。国語については、先立って行われた「試行テスト」で、採点や評価が難しい記述式問題が出されたこと、さらに「実用文」として駐車場の契約書や高校生の生徒会規約を題材にした大問が登場したことが物議を醸した。こちらはよほど評判が悪かったようで、実際の共通テストでは記述式問題も「実用文」も見送られた。一方、別々な著者がたまたま同じようなテーマについて書いた文章を比較読みしたり、ある評論に対して別な人物が批評をしている文章や生徒同士が感想を交わし合ったものを合わせ読みして考察を深めたりするタイプの問題は、「試行テスト」を経て本番でも取り入れられた。

 

 この比較考察型・合わせ読み型の問題はどうやら共通テストのみならず、これから各校の入試でも取り入れられていくらしい。すでに2021年に行われた某私立大学の現代文の入試問題でも、中西進さんと松岡がそれぞれ「小さきもの」を通して日本文化の特徴について綴った文章を取り上げて比較させる大問が出されていた。

 

 私はこの比較・合わせ読みの問題は、つくりようによっては「読み」の複雑さが増しておもしろくなるかもと思ったのだが、同じ時間内で二つの文章を読まなければならないぶん、考察の深度が浅くなる弊害もあるのではないかという、我が「松岡国語問題研究チーム」の専門家の意見もある。それに、いまのところテキストは複層的になっても、作問のあり方にはまだそれほどめざましい変化が起こっていないようだ。とくにマークシート方式を前提としたテストでは、松岡を悩ませるような選択問題があいかわらず主流でありつづけるようなのだ。

 

 先ごろ行われた2022年の共通テストの国語も、評判の悪い記述式や実用文は避けられ、比較・合わせ読み型の問題が昨年の作問方法をほぼ踏襲したかたちで出されていた。国語の試験なのに記述式がいつまでも取り入れられないのは嘆かわしいと思うが、「実用文」をつかったお題については、そもそも何をもって実用文というふうにするのか、なぜ契約書や規則文の読み解きによって国語力を測るということになったのか、いろいろな資料を読む限りそのあたりの経緯や議論がかなりあやしそうだったので、今年も見送られたことを確認できてホッとした。

 

 

◆「往来もの」の豊作・「実用文」の貧困

 

 入試問題の「実用文」をめぐる一連の議論を見ながら、日本古来の「往来もの」をつかった教育のことを思い出していた。日本では中世から子女の「読み書き」教育に、実在する書き手が実際にやりとりした手紙文を編纂したテキストが使われていた。なかでも室町時代に編まれた『庭訓往来』は、1年12ヵ月ぶんのさまざまな手紙文が収録され、武士が日常的に通じているべき用語や社会常識も織り込んだ文範教科書として広く流布した。その内容は年賀の挨拶文、花見のお誘い文といった交際にまつわるものから、大名を饗応するための家財家具や盗賊討伐のための武具の借用申し入れといったビジネス文書、さらには司法や訴訟に関する問い合わせや、病気予防・健康管理に関するものなど、多岐にわたる。

 

 江戸時代になると「往来もの」は爆発的に種類が増えた。都市部の寺子屋では商売人の子どもたちのために『商売往来』『問屋往来』『本屋往来』といったテキストが用意され、農漁村の子どもたちは『田舎往来』『船方往来』といった職能性をもやしなうようなテキストで読み書きを学んだ。『質屋往来』『娼家往来』などという特殊な職業人をめざす子どもたちのためのテキストまであったというから驚く。

 

 このように、それぞれの職能に求められる知識や技能とともに読み書きを身に付けていくという学習方法は、もちろん誰もが家業というものに縛られて生きなければいけない時代社会の産物なのだろうが、日本が工夫した教育文化として誇ってよいことだと思う。なんといっても、実際につかわれた手紙文を通して学ぶというところがユニークだ。手紙を使うことで、人間同士の交際にまつわるさまざまな機微を学ぶこともできただろう。コミュニケーションの学習にもなっただろう。

 

 実際に「庭訓往来」を繙いてみると、ありとあらゆる「無沙汰」のお詫びの文例集にもなっていて(たいていの手紙文が冒頭で無沙汰や不慮を詫びている)、「詫び文」という定型の中におのおのの機智や見識や教養を込めて、相手の心に刺さる言葉を工夫している様子が伝わってくる。日本人の「詫び」といえば「わび茶」にも通じるほど魂胆が深いものだ。そうやって手紙文を通して極上の詫び文化をも身に付けさせようという狙いもあるのかもしれない。

 

 それにくらべると、この21世紀の日本の国語教育界で突然跋扈しはじめた「実用文主義」は、どういうわけか契約書や規則書といった、書き手と受け手のコミュニケーションを極力排除した文章にこだわっている節があるようだ。ほかに「実用文」としてどういうものが想定されていたのかざっと調べたところ、「新聞記事」や「自治会の呼びかけ文」(!)のようなものもあがっていた。「実用文」という概念だけが独り歩きして、誰もその内実を詰めようとしていない様子も見て取れる。

 

 たとえば私たちが日常的に親しんでいるコマーシャリズムのうえに載る文章、キャッチコピーや宣伝文といったものは想定外なのか、映画のパンフレットや文庫本の表4にあるような「あらすじ解説文」は埒外だろうか、ディアゴスティーニが次々にリリースする分冊百科事典の編集者による達者な解説文などはどうなのか。こういった文章も、契約書や規則書同様に書き手の〝個性〟を伏せるものだが、読み手をいかにして「その気にさせるか」「満足させるか」「知的好奇心をかきたてるか」という狙いがはっきりしているため、プロフェッショナルなライティング力、もっといえばエディティング力を要するものである。そういう力だって決して国語力と無縁ではないはずだ。

 

 国語力を養うための文範として小説や評論やエッセイばかりが重視されてきた風潮が変わっていくことは喜ばしい。生き生きとした言葉の用法やレトリックを学ぶためにも、無名だが腕っこきの書き手による多様な文章に触れるという考え方があっていいだろうし、たとえば松岡が「弔辞」や「推薦文」で見せるような、他者に対するリスペクトを表現した名人芸の文章を入試問題にしたっていいと思う。けれども、入試国語で取りざたされている「実用文」は、そういうものをまったく範疇に入れていないようである。ひょっとしたら、「実用文」というものは、一切の読み違いを起こさせないほど簡素で無味乾燥でなければならないと決めてかかっている〝伏魔殿〟が存在しているのだろうか。これは、21世紀の日本の国語を揺るがしかねないミステリーだと思う。

 

 

★おまけ1

 

 2022年の共通テストでは、世界史Bがたいへんおもしろかった。イワン雷帝が逆上して息子を殴り殺してしまった場面を描いた有名な絵画(下図)を取り上げて、その絵をめぐって先生と生徒がかわしている会話を問題文に仕立てていた。試験問題で取り上げる参考図版としてはあまりにも陰惨で劇的だし、なんといってもその先生と生徒の会話は、エイゼンシュタインの映画「イワン雷帝」の話にまで及んでいくのだ。こういうふうに生徒のイマジネーションを揺さぶるような題材や問題づくりこそ、入試国語がチャレンジしていくべき方向性ではないのかしら。

 

 

 

★おまけ2

 

 2021年の入試問題では、なんと松岡の『日本文化の核心』が高校・大学合わせて全8校でつかわれた。しかもそれらの引用箇所は、「第二講 和漢の境をまたぐ」「第四講 神と仏の集合」「第五講 和する/荒ぶる」「第六講 漂白と辺境」「第七講 型・間・拍子」「第八講 小さきもの」「第九講 まねび/まなび」「第一四講 ニュースとお笑い」というふうに、ひとつして章のかぶりすらなかった。なぜこの本がこんなにも入試に好まれ、しかも使われる場所がばらばらなのかはまだ調査中だが、実際に本書をつかって教材づくりをした先生によると、松岡の本は傍線を引きたくなるところだらけで、読んでいると問題が浮かんでくるのだという。

  • 太田香保

    編集的先達:レナード・バーンスタイン。慶応大学司書からいまや松岡正剛のビブリオテカールに。事務所にピアノを持ちこみ、楽譜を通してのインタースコア実践にいとまがない。離学衆全てが直立不動になる絶対的な総匠。

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