私の28[花]キャンプは、吉阪隆正の建築思想【不連続統一体】の体験だった。場面ごとに異なる空間が次々と立ち現われてくる。よく分からないままに一周すると、ようやく建物を貫く原理のようなものが見えてくる。この「遅れて」やってくる全体性がたまらなかった。

2000年の第1夜『雪』から現在までの1800夜以上の文章を、松岡正剛独自の「見方」と「読み方」で、テーマ別に再構成・再編集した『千夜千冊エディション』シリーズ。インターネット上で日々更新されている『千夜千冊』に、ヘッドラインと大幅な加筆修正が施されている。シリーズは2020年に20冊を数え、2023年に30冊に到達した。
本記事は、「難しいことをやさしく、やさしいことを面白く」をモットーに、『千夜千冊エディション』を、1冊1図にまとめてみんとする無謀な不定期連載である。
連載第一回目は、近江ARSに万感を込める松岡が今、最も注目している日本仏教をまとめた『戒・浄土・禅』を取り上げる。
松岡正剛は、ガリガリ君ならコーンポタージュだという。
私は、ガリガリ君なら梨(なし)一択である。
ではなぜ図解がソーダ味なのか。僧だからである。
ひんやりした空気が流れるのを承知で書くが、「ソーダ」で音をカサネている。
ー 覆水盆に返らず、アイスは棒に還らず、彼奴は盆に帰らず。 ー
仰向けの僧がはたらきもせず、アイスキャンデーが溶けたコップから世界を見ている。
日本仏教というのは、大乗仏教をベースにしつつも、各々が各々の器を通して世界を見る、ということなのではないだろうか。
器の中で溶けたアイスキャンデーは、数寄を表す。
この器世間全体を、ユクスキュルの環世界と言いかえてもいい。
アイスの角の法身・報身・応身は三身で、釈尊。
私はこの三位一体が3A、即ちアブダクション・アフォーダンス・アナロジーに対応すると読んだ。
悟った姿としての応身(おうじん)が、冥に沈んでいることが肝要だ。
そしてスイカバーの三位一体ではなく、あくまでガリガリ君の四位一体として私が+1するのは、十牛図からスピンアウトした痴聖人。アナキズムである。
いったい何事か、と唐突に思うかもしれないが、日本仏教はキリスト教などの一神教とは異なる、多神多仏の世界観を持っている。スサノオのように、ちょい悪どころでは済まされない神もいる。
親鸞が「悪人正機説」を唱えたように。
クソ真面目なハードコア修行僧の一休が、晩年に破戒僧スタイルを築いたように。
悪までをも自分の中にあるものとして、アインザームカイト(Einsamkeit)の境地で世界に立ち、”そこ”から世界を眼差すことこそが、めざめなのである。
そして、めざめ・おこない・はたらきの全てがアマルガメーションして冥の世界を作り上げると、いつしかアイスキャンデーの棒からは「あたり」のかわりに、「あそび」がのぞいてくるのだ。
つまり、器を通して世界を見る人が、言葉や価値を交わし、文化をかたち作っていく。
ソーダ、文化しよう。
『戒・浄土・禅』は、そういうエディションであると読んだ。
第一回「町田有理のちと図解」いかがだったでしょうか。
次回は、あの『編集力』にチャレンジします。
町田有理
編集的先達:多和田葉子。フーテン、エアプランツ、台風と呼ばれる放浪癖があり、酔っ払い鳩ケレルを見るためだけにニュージーランドへ渡航。エスペラント、手話をはじめとする言語のひとりクレオールで、旅先の物語の蒐集マニア。ろう者の家族とのお絵かきによるコミュニケーションに端を発する図解女子。
コメント
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2025-07-03
私の28[花]キャンプは、吉阪隆正の建築思想【不連続統一体】の体験だった。場面ごとに異なる空間が次々と立ち現われてくる。よく分からないままに一周すると、ようやく建物を貫く原理のようなものが見えてくる。この「遅れて」やってくる全体性がたまらなかった。
2025-07-02
連想をひろげて、こちらのキャビアはどうだろう?その名も『フィンガーライム』という柑橘。別名『キャ
ビアライム』ともいう。詰まっているのは見立てだけじゃない。キャビアのようなさじょう(果肉のつぶつぶ)もだ。外皮を指でぐっと押すと、にょろにょろと面白いように出てくる。
山椒と見紛うほどの芳香に驚く。スパークリングに浮かべると、まるで宇宙に散った綺羅星のよう。
2025-07-01
発声の先達、赤ん坊や虫や鳥に憑依してボイトレしたくなりました。
写真は、お尻フリフリしながら演奏する全身楽器のミンミンゼミ。思いがけず季節に先を越されたセミの幼虫たちも、そろそろ地表に出てくる頃ですね。