戦争を語るのはたしかにムズイ。LEGEND50の作家では、水木しげる、松本零士、かわぐちかいじ、安彦良和などが戦争をガッツリ語った作品を描いていた。
しかしマンガならではのやり方で、意外な角度から戦争を語った作品がある。
いしいひさいち『鏡の国の戦争』
戦争マンガの最極北にして最高峰。しかもそれがギャグマンガなのである。いしいひさいち恐るべし。

語られぬものは、形なき妖となって表現者の内奥に潜み、静かに時を待つ。噴き出した妖は、表現の胎ともなり、また表現者を呑み込む濁流ともなる。沈黙と余白を操り、その奔流を器に鎮めうる者だけが、その圧を力へと変え、永く息づかせることができる。
大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。
第三十回「人まね歌麿」
人には、あえて語らずにおく過去があります。触れた途端、現在の輪郭が揺らぎ、生の基盤そのものを危うくするような記憶です。それは単なる忘却ではなく、意識して確保された空白であり、日々のふるまいや作品のかたちを静かに支えています。多くの場合、その空白は自己を守るための回避から始まりますが、もし、その当事者が表現者であれば、その空白そのものがやがて表現の核へと変わることもあります。
喜多川歌麿(歌麿)にとって、その内奥の空白は、母とその情夫ヤスの影と固く結びついていました。母は夜鷹として生き、幼い息子を男娼として客に差し出す毒親でした。明和の大火の折、炎と瓦礫の下敷きになった母は、助けを求める代わりに呪詛の言葉を浴びせました。少年だった歌麿は声を上げることもなく、その場から逃げ去りました。その瞬間の記憶は、焼け焦げた匂いとともに生涯離れることはありません。罪悪感に押し潰され、炎の中へ戻ろうとしたとき、彼の腕を引きとめたのが蔦屋重三郎(蔦重)でした。この救いの手が、「生き残った」という事実と「生きねばならない」という理由を、彼の中で結び合わせるきっかけとなったのです。
やがて、ヤスの脅しと執念に追い詰められ、共に死ぬ覚悟で川へ身を投げた夜もありました。しかし、濁流は二人を引き裂き、彼ひとりを岸へ押し戻しました。生き残ったその事実は、冷たい水の重みとともに、心底に沈殿していきます。捨吉と名を変え、再び身を売ることでしか、生き延びる術はありませんでした。
こうした日々は、彼に「自己なき模倣」という生き方を刻み込みました。同時に、蔦重への感情も深く結びつきます。蔦重は、彼を制度の内側へと導く存在であり、唯一「生きていていい」と告げた人間だったからです。
この歌麿の姿に重なるのが、作家マルグリット・デュラスです。彼女もまた、自己を守るための回避から出発し、空白を保持することで創作を可能にしました。自伝的小説『愛人 ラマン』には、フランス領インドシナで十代のころ、中国人富豪の青年の愛人であった経験が反映されています。その背後には、植民地下における人種差別、家族の経済的困窮、そして母との複雑な関係が横たわっていました。しかしデュラスは、それらを事実として露わにはせず、風景や色彩、他者の視線といった間接的な媒介によって語り、核心はあえて空白のまま残します。
歌麿とデュラスは、ともに自己回避を起点にしつつ、その回避によって生まれる空白を、表現の中枢構造へと変換していった作り手です。二人を結びつけるのは、「空白を守るための語りの方法」です。その背景にあるのは、歌麿の師である鳥山石燕(片岡鶴太郎)が示した「その目にしか見えぬもの」を捉える感覚(第三の目)──これは幻視というよりも、描かれぬ領域を感知し、制度の内外を往還しながら作品に組み込む編集技法です。
『絵本江戸雀』──小物に宿る感情と習作期の呼吸
天明6年(1786)正月に刊行された『絵本江戸雀(えどすずめ)』は、江戸中期に流行した狂歌と、まだ名の知られぬ若き歌麿の挿絵を組み合わせた「狂歌絵本」の一作です(べらぼう第三十回では、耕書堂に掲げられた広告として登場しました)。企画と出版を担ったのは蔦屋重三郎であり、狂歌師たちの軽妙な作品と、歌麿の絵を並置するこの形式は、天明狂歌ブームの只中で生まれた先駆的な試みでした。
当時の歌麿は蔦屋宅に身を寄せ、黄表紙や風俗絵本、狂歌絵本などの挿絵を手がけながら筆致を鍛えていた時期にあたります。美人画の大首絵で名声を確立するのは寛政年間に入ってからであり、『絵本江戸雀』はその前夜に位置する作品です。ゆえに、まだ固有の様式は形を成していないものの、既存の枠組みをなぞりつつもわずかにズラす、編集の息づかいが感じられます。
『絵本江戸爵』(東京藝術大学附属図書館所蔵)
https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100275259/9?ln=ja
出典: 国書データベース,https://doi.org/10.20730/100275259
歌麿は、先人の構図や人物配置を踏まえながら、仕草や視線、人物間の距離に細かな変化を差し込みます。それにより、登場人物は匿名性を保ちながらも、場の空気や瞬間の温度を宿すのです。特に『絵本江戸雀』では、感情を直接的な表情で示すよりも、小物や衣装の描写が心の機微を担っています。髪飾りの位置や形で立場や華やぎをほのめかし、帯の結びや柄の選びで人物の心持ちを匂わせる──こうした視覚的符号は、のちの美人画に通じる間接的表現の萌芽でもあります。
また、画面に漂う「間(ま)」の感覚も注目すべき要素です。動作の切れ間や視線のわずかなずれが、一瞬の静止を生み、鑑賞者を画面の奥へと引き込みます。この“時間の切り取り”こそ、後年の歌麿を特徴づける表現の核へと育っていきます。
もっとも、この頃の歌麿は「人まね歌麿」と揶揄されることもありました。引用の痕跡が明白で、繰り返し使われることも多かったからです。しかし、それは商業出版の慣習や検閲の制約下で、模倣と変奏を重ねながら筆を鍛える修業の過程でもありました。『絵本江戸雀』は、そうした制約と試行錯誤とが交わって生まれた、習作期の確かな足跡なのです。
空白を縫う視覚──『絵本江戸雀』と『愛人』の構造的呼応
歌麿とマルグリット・デュラス──時代もジャンルも異なる二人ですが、その表現は構造的に呼応します。両者に共通する出発点は「自己回避」です。
歌麿は、母とヤスの記憶を抱え、自己を直接描くことを避けながら、江戸の人物や小物に寄り添い、その間接性の中で表現を紡ぎました。デュラスもまた、植民地時代のインドシナでの経験や家族関係といった個人的核心を直接語らず、情景や物の並置を通じて滲ませました。
ただし、時代も媒介も異なるとはいえ、『絵本江戸雀』期の歌麿が習作的段階にとどまっていたのに対し、『愛人 ラマン』のデュラスは自己回避を達成しつつ、そこから独自性の獲得に踏み込んでいます。
ソフト帽の娘は、大河の泥のような水のなかで、ただひとり渡し船の甲板に立ち、手すりに肱をついている。男物の帽子が情景全体を薄い紫檀色に染める。色彩はそれだけだ。靄をとおして大河に照りつける陽光のなかで、暑い陽光のなかに両岸は消え、河の果てがそのまま空であるように見える。河は音もなく流れている、河は音をまったく立てない、身体のなかを流れる血液のように。水の外には風はない。情景内でただひとつ音を立てている渡し船のモーター、駆動音が鋳物製のいがたびしい古いモーター。ときどき、わずかに風に乗って、ひとの声。それから、犬の啼き声、いたるところから聞こえてくる、靄の奥から、あらゆる方角から。娘は子供のころから渡し船の船長と顔なじみだ。船長は娘に微笑みかけ、校長先生はお元気かねとたずねる。校長先生がよく夜、渡し船に乗ってるのを見かけるよ、先生はカンボジアの拡げ地によく出かけるんだと彼は言う。母は元気よ、と娘は言う。渡し船のまわりは河、甲板にすれすれの河、流れてゆく水が水田の澱も水を通し抜ける、両方の水は混じらない。この河はカンボジアの森のなかのトンレサップ湖から始まり、出会うものすべてを拾い集めここまで来た。それに訪れてくるものすべてを連れてゆく、藁小屋、森、消えた火災の残り、死んだ鳥、死んだ犬、溺れた虎、水牛、溺れた人間、罠、水生ヒヤシンスの集落、すべてが水平へと向う、どれひとつとしてふつうの調子で流れはしない、どれもこれも、内部の水流の深く、めくるめくような風に運ばれてゆく、どれもこれも、大河の力の表面に宙吊りになっている。
(マルグリット・デュラス 『愛人 ラマン』 河出書房新社より)
1. 時間の宙吊りと流動の中断
デュラス『愛人 ラマン』
引用文における大河は「水平へと向かう」一方向性を持ちながら、「宙吊り」や「めくるめくような風」によって流れが停滞して見えます。進行と静止が同居し、過去の記憶と現在の情景が同じ「表面」に載せられ、時間は一枚の画布のように扱われます。
歌麿『絵本江戸雀』
江戸の風俗場面を描く際、人物の仕草や視線は決定的瞬間ではなく、その直前や直後──曖昧な「間」にとどまります。この切り取りが物語的時間を止め、鑑賞者の視線をその場に留めます。
・共通性
動きを描きつつ、視覚的・感覚的に時間を停止させる点で一致しています。
・相違点
歌麿の「間」は人物動作の前後に依存しますが、デュラスは情景全体を包み込み、過去と現在を同層に重ねることで、時間停止の作用を風景全域に拡張しています。
2. 列挙と非感情化された記録性
デュラス『愛人 ラマン』
「死んだ鳥、死んだ犬、溺れた虎、水牛、溺れた人間…」と並べ、感情的判断を排します。この非感情的な羅列は、読者を「なぜこれらが並ぶのか」という空白へ導きます。
歌麿『絵本江戸雀』
衣装の文様、髪飾り、帯の結び、小物などを、感情描写抜きで精緻に描き込みます。鑑賞者は細部を追ううちに、背景の物語や感情を自ら構築することになります。
・共通性
事物を淡々と並置し、作者の感情や意図を示さず、解釈の余白を受け手に委ねます。
・相違点
歌麿は視覚的要素に限定されますが、デュラスは視覚と記憶、そして死や災禍の痕跡を同列に置き、物理的現実と心理的現実を同時に並べる構造を獲得しています。
3. 空白を支える視覚構図
デュラス『愛人 ラマン』
「両岸は消え」「空であるように見える」といった描写により、風景は境界を失い、輪郭のない空間となります。読者はその空白の中に置かれます。
歌麿『絵本江戸雀』
背景を省略し余白を残すことで、人物や小物を浮かび上がらせます。構図そのものが「描かれない空間」を成立させます。
・共通性
描写を制限することで空白を成立させ、視覚的な間が情景に奥行きを与えます。
・相違点
歌麿の空白は画面構成の省略によって生じますが、デュラスは空間の境界自体を溶かし、物理的な空白を心理的・概念的な空白へと変質させます。それは単なる余白ではなく、不在の場として作品全体を支える要素となっています。
両者はともに「自己回避」から表現を出発させ、直接語ることを避けつつ、間接的な情景や事物の並置によって核心を包み込みます。しかし『絵本江戸雀』の歌麿が、まだ制度の枠内での習作であったのに対し、『愛人 ラマン』のデュラスは、その回避の方法を作品構造全体に昇華させています。
そこでは、空白は単なる沈黙ではなく、時空間を宙吊りにし、物理と記憶を並置し、境界を解体する力として機能しています。『絵本江戸雀』の歌麿がその方向性を予感させるなら、『愛人 ラマン』のデュラスはすでにその地点を踏み越え、独自の地平を確立しているのです。
第三の目──妖を視る者、構造を編む者
歌麿とマルグリット・デュラスは、いずれも「自己回避」を出発点とし、情景や事物の並置、時間の宙吊り、空白の構図によって核心を包み込んでいます。その表現を可能にしたのは、二人が共有するもうひとつの視線──第三の目だと考えられます。歌麿の師である鳥山石燕(片岡鶴太郎)は、歌麿を「三つ目」と呼び、この呼び名には単なる綽名を超えた意味が込められていました。第一の目は日常の現実を捉える視線、第二の目は絵師として形や構図、色を組み立てる視線、そして第三の目は、自らをも含む現実全体を外側から見通す視線です。石燕が、黒く塗りつぶされた歌麿の失敗作を見て「妖が塗り込められておる。そやつらは、そこから出してくれと呻いておる」と語ったのは、この第三の目でしか捉えられない内奥のエネルギー、すなわち「妖」を感じ取ったからにほかなりません。凡庸な視線ではただの挫折にしか見えない黒塗りは、第三の目を持つ者には、まだ名も形も持たぬ可能性が封じ込められた場として映るのです。
デュラスの『愛人 ラマン』もまた、この第三の目の視線に支えられています。彼女は植民地時代のインドシナでの少女期の経験や母との関係といった個人的な核心を直接語らず、風景や物、時間の構造を通してそれらを滲ませます。そこでは物語の内部と外部を同時に捉え、描かれるものと描かれないもののあいだに張られた緊張を意識的に操作することによって、情景は感情に呑み込まれることなく構造的な精度を保ち続けています。この視線があるからこそ、彼女は時間を宙吊りにし、死や災禍の痕跡を淡々と列挙し、境界を溶かしながらも、作品全体をひとつの強固な構造として保つことができるのです。
石燕の言う「妖」とは、言葉にされる以前、形を与えられる以前のエネルギーであり、それは黒塗りや空白といった「不在の場」に潜んでいます。第三の目を持つ者は、その不在の場から立ち上がるものを見て、聞き、呼び出すことができます。歌麿にとってそれは未完成の画面であり、デュラスにとってそれは語られぬ情景であり、いずれも空白が核を孕むための器として機能しています。両者はともに、制度の内側で与えられた題材や形式を、その外側から見つめ直す視線を持っていました。歌麿は江戸出版文化の枠内で風俗画を描きながら、その「間」や「余白」に妖を潜ませ、デュラスは自伝的素材を文学形式に落とし込みながら、その内部構造に空白を組み込みました。いずれも、構造の外からの視線によって内部を編み直しているのです。
しかし、未熟な歌麿には、この「妖」の奔流を制御する術がまだ備わってはいませんでした。内奥が呼び覚ましたイメージ──母や情夫ヤスといった、私的で感情の澱を湛えた核──は、あまりにも生々しい輪郭を伴って歌麿に襲いかかります。その瞬間、作品と自らとの境界は溶けあい、互いの領分を侵しはじめる。蔦重が求めたのは「正名」、すなわち歌麿という商品名の制度的確立──オリジナリティを明確化し、それを制度と市場の双方に刻み込むこと(ブランディングの完成)でした。自己回避の盾を外し、真正面から自己を直視したとき、これまで安全な距離に置かれていた「妖」は、逆に歌麿そのものを呑み込み、視座を揺るがす危うい存在へと変じたのです。自己を見失いかけているのを察した蔦重は、「無理に成功しなくてもいい、人まね歌麿のままでいい」と声をかけ、せめてその圧を減じようと試みました。第三の目とは、本来、空白を通して「妖」を器に昇華させるための視線ですが、その機能を成立させるには、構造を編むだけの成熟と、自己を護るための回避の技法が不可欠だったのです。
この第三の目──すなわちデュラス的視線──こそが、第三章で確認した両者の構造的呼応の深層を形づくっています。歌麿の未完の黒塗りにも、デュラスの宙吊りの大河にも、同じく“妖”が息づいている。それは、描くことで捕らえるのではなく、あえて描かぬことで姿を現す存在です。その顕現を見届けるための眼差しが、国や時代、媒介の隔たりを越えて歌麿とデュラスを結び合わせているのです。
第三の目の現在──現代芸術とネット文化に潜む“妖”
第三の目は、江戸の歌麿やデュラスに限らず、現代の芸術やネット文化の中にも脈打っています。その核にあるのは、自己回避と空白の操作によって核心を包み込み、直接的な説明を避けながら受け手の解釈を促す姿勢です。描かれぬまま潜みつつ、確かに視線を返してくる存在──それが“妖”です。歌麿の黒塗りの失敗作に潜む呻きや、デュラスの宙吊りの大河に漂う断片と同じく、現代の“妖”も余白や間からにじみ出し、見る者・聴く者の感覚を呼び覚まします。
現代美術では、草間彌生が反復するドットや無限の空間を生み出すインスタレーションによって、自らの内面を直接語らずに提示します。スーザン・ソンタグは『写真論』で、写真が「見る」と「見られる」の間に必ず解釈の余白を生み出すと述べ、現実の切断が意味を生成する構造を明らかにしました。シンディ・シャーマンはセルフポートレートでありながら仮装と匿名化を通して自己を回避し、その空白に観客の想像を誘います。森山大道のスナップは、ぶれやざらつき、偶発的な構図によって対象の輪郭を崩し、見る者の内部に空白を作り出します。いずれも、描かれないものを浮かび上がらせる現代の第三の目です。
この視線は、ネット文化にも深く浸透しています。とりわけASMR(Autonomous Sensory Meridian Response──自立感覚絶頂反応)は、囁き声や物音、微細な触音によって聴き手の感覚を揺さぶります。近年は制作者が顔を出す動画も一部見られますが、それは器量の良さや話題性が視聴数稼ぎにつながる場合に限られ、多くの制作者は匿名性を保ちながら活動しています。ASMRの本質は、自己を直接語らず、音や沈黙、微細な動作にすべてを委ねる自己回避的構造にあります。囁きと囁きのあいだの呼吸や、音が途切れたあとの静寂は、歌麿の余白やデュラスの静止と同じく、聴き手を宙吊りにし、感覚を研ぎ澄ませる場となります。そこにこそ“妖”は潜みます。
こうした構造を江戸に引き戻せば、蔦重と歌麿の関係が見えてきます。蔦重は「正名」で勝負する、つまり制度の正面に立つことを歌麿に求めました。これは自己回避を捨て、自分の名前や作品を堂々と市場や権力の視線にさらす方法ですが、歌麿にとっては創作の安全地帯を失い、第三の目で見出してきた空白や妖を使いにくくする負担ともなりました。自己回避をゼロにすれば、歌麿の感覚の核まで失われかねない危うさがありました。
その解決の鍵は、自己回避を完全にやめるのではなく、それを“盾”として残しつつ制度の表舞台にも出る二重構造──いわばハイブリッド型にあります。作品の表層は制度的・市場的に通用する形(正名)に整え、その奥に“描かれない領域”を意図的に残す。こうすれば創作者は守られながらも、作品は長く息づく余白を保ち続けます。現代の音楽シーンでは、Adoがこの戦略の成功例です。Adoは名義を前面に出し、商業的な舞台に立ちながらも、顔や私生活を明かさず、MVやライブではアニメやイラストを介して自己を表現します。制度的承認を得つつも、作品の奥に“描かれない領域”を確保する方法は、蔦重が求めた「正名」と歌麿が守った「自己回避」を現代的に両立させたものです。
現代でこのハイブリッド型が成立しやすいのは、デジタルメディアとSNSの普及により、制度の正面に立ちながら匿名性や仮構性を自在に操作できる環境が整ったからです。顔や名前を出しても、そのパブリック・イメージを編集し、断片化することが可能となりました。さらに、情報が過剰にあふれる現在、受け手はすべてが完全に「明らか」になっている表現よりも、あえて「伏せられた」部分を残す表現に、より強く惹かれる傾向がうかがえます。空白や断片は、飽和した情報空間において希少な呼吸の場となり、解釈の余白を与えるのです。さらに、グローバル化した文化環境では、複数の文脈を跨ぐ活動が常態化し、一つのアイデンティティに固定されないことが、むしろ表現の持続力やブランド価値を高めています。
こうして現代の表現環境は、正名と自己回避を組み合わせた第三の目の戦略を支える土壌を備えています。それは、江戸の歌麿が蔦重の圧力の中で模索し、デュラスが断片構造で達成した方法を受け継ぎながら、テクノロジーと文化の複層化によって新たな形を得た、“妖”の呼び出し方なのです。
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べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その十七
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コメント
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2025-08-14
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2025-08-12
超大型巨人に変態したり、背中に千夜をしょってみたり、菩薩になってアルカイックスマイルを決めてみたり。
たくさんのあなたが一千万の涼風になって吹きわたる。お釈迦さまやプラトンや、世阿弥たちと肩組みながら。
2025-08-07
「べらぼう」見てないんですが、田沼意知がとうとうやられちゃったんですね。
風評に潰された親子のエピソードは現代の世相とも重なり、なんとも胸がふさがります。
一ノ関圭『鼻紙写楽』は、このあたりの話を巧みに取り込んで物語化しており秀逸。蔦重も出てくるし、この作品、「べらぼう」とだいぶ重なるんじゃないかなあ(見てないけど)。