べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四十五

2025/11/28(金)21:00 img
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 恐怖の語りが息を縮ませるとき、世界は別の呼吸を求め始める。その呼吸は、名のない訪れ──まれびとの影とともに現れ、沈黙の底で生まれた小さな火を祝祭の灯へと育てていく。

 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。


 

第四十五回「その名は写楽」

 

逸脱からの逸脱──治済はラスボスなのか?

 

 第四十五回を見始めたとき、これまで誰にも安易な善悪を背負わせてこなかった『べらぼう』が突如として一橋治済を“ラスボス”のように提示してきたことに一瞬戸惑いを覚えました。長らく人物を一元的に裁断することを避け、世界を多声的に構成してきた物語が、なぜこのタイミングで明確な敵を配置するのか。その疑問は、物語読みとして自然なものですが、同時に、治済を敵として受け取ること自体が、このドラマが仕掛けた誤認の誘いであることにも気づかされます。

 

 『べらぼう』は最初から“逸脱こそ正道”という構造によって成立してきました。善と悪を単純に峻別せず、町人の声が歴史を駆動し、正名と狂言は幾度も入れ替わり、語る者ではなく語れない者──沈黙を抱えている者──が世界に揺らぎを生じさせ、物語の中心には常に空虚が据えられてきました。これはどれも、いわゆる通俗的な物語構成からの継続的な逸脱であり、『べらぼう』はその逸脱を物語の筋力としてきた作品でした。

 

 ところが物語が成熟するとき、逸脱そのものをさらに逸脱する段階へと突入します。敵をつくらないという原則を反転させ、あえて敵を可視化する。相対的な価値観が交錯する世界のただなかに、ひとつの強い対立軸を導入する。多層的な水平線で構成されてきた語りに、鏡像的な対称性を持ち込む。こうした変化は“王道への回帰”ではなく、むしろ逸脱が極まった先で、「敵対」という物語の古典形が逆説的に再発見された瞬間にほかなりません。

 

 しかしここで大事なのは、治済を“ラスボス”と信じてしまうことが、じつは物語が仕掛けた二重の罠でもあるということです。治済は敵として登場したのではありません。彼はむしろ、私たちが“敵”と呼びたくなる語りの構造そのものを暴き出すための装置として、物語の中央に召喚された存在でした。


語りの関ヶ原──虚構の二極としての写楽と治済

 

 治済を単純な悪人として読んでしまうと、べらぼうの射程は一気に縮んでしまいます。治済という人物は、史料に残る実像そのものよりも、「黒幕」「影の支配者」「闇将軍」といった語りの層によって肥大してきた存在です。事実よりも噂のほうがはるかに強い影を落とし、恐怖だけを増幅させていく。もともと彼は、生身の悪人というより、“語りがつくりあげた怪物”としての性格のほうが濃いのです。この構造は歴史の中で繰り返されてきましたし、現代においては、むしろ加速していると言ってよいでしょう。

 

 その象徴的な例として、しばしば引き合いに出されるのが、1990年の湾岸戦争を正当化する契機となった“ナイラ証言”です。アメリカの公聴会で証言台に立った少女ナイラは、「イラク兵がクウェートの病院で保育器から赤ん坊を引きずり出し、床に放置して殺した」と涙ながらに語り、世界中の憤激を呼び起こしました。しかし後に、この証言はPR会社によって準備された虚構であり、ナイラは駐米クウェート大使の娘であったことが明らかになります。

 

 つまり、事実ではなく“よくできた物語”のほうが、戦争という巨大な現実を動かしてしまったのです。恐怖を喚起する語りが、どれほど容易に現実を駆動してしまうのか──治済の“噂の怪物性”は、この虚構の武器化そのものを体現しています。

 

 治済は、中心に具体的な“核”を持たないがゆえに、逆にいくらでも物語を被せることができる存在です。実像が空洞だからこそ、噂が独り歩きし、沈黙が恐怖の増幅装置となり、虚像だけが肥大していく。人々の不安と想像力が、その空洞を“怪物の顔”で埋めてしまう。そういう意味で治済は、個人の内面というより、“虚構が勝手に巨大化する構造”を映し出す鏡なのです。

 

 ところが興味深いのは、写楽もまた“空虚な中心”を本質とする虚構の絵師であったことです。写楽という名は匿名性に守られ、どのような人物がどんな風貌で、どんな生活をしていたのかという具体像はほとんど知りえない。その代わりに、市場の流通、評判と噂によって、《写楽》という存在は膨張していきました。

 

 つまり、写楽と治済は、どちらも中身は空洞でありながら、その周囲を取り巻く語りによって実在以上の存在感を獲得してしまう、という点で構造的によく似ているのです。

 

 ただし決定的に異なるのは、その虚構がどの方向へ向かうかという点です。治済は、恐怖を駆動させる虚構として働きます。噂は人々の不安や怯えを刺激し、沈黙は疑心暗鬼を増幅させ、誰もが“あの男が何をするかわからない”という不穏な想像をやめられない。他方で、写楽は祝祭の虚構として立ち上がります。芝居町の熱気、役者たちの浮遊感、江戸の町人文化の高揚とともに、“写楽”という名前と絵は、人々を楽しませ、ざわつかせ、街に活気を呼び込む方向へと作用します。

 

 第四十五回が描いているのは、「真実vs虚構」ではありません。むしろ「虚構vs虚構」です。恐怖の虚構である治済と、祝祭の虚構である写楽という二極が、同じ構造を持ちながら逆のベクトルとして衝突する。その構図はきわめて現代的であり、私たちが今まさに置かれている情報環境とも深く共振しています。

 

 この点を理解するための鍵として、マーガレット・アトウッド『侍女の物語』を参照することは非常に有効です。この小説が描き出すのは、国家が「物語」を独占し、人間の身体と記憶を徹底的に書き換えてしまうディストピアです。物語の舞台となるギレアドという宗教国家では、新聞や教育、宗教解釈、歴史叙述がすべて国家語りに従属させられ、女性は「産む器」としての役割に再定義されます。主人公オフレッドにとって、最大の苦痛は、自由が奪われることそのものというよりも、自分の人生の物語を語る権利を奪われ、“国家の語り”の中の記号に還元されてしまうことです。

 

 アトウッドが描くのは、国家が虚構を武器化するとき、現実そのものよりも“公式の物語”のほうが強い力を持ってしまう世界です。ギレアドでは、何が「罪」で何が「正義」かを決めるのは神ではなく、国家が作り上げた物語です。人々はその物語に従うよう強制され、従わなければ存在そのものが抹消される。ここで機能しているのは、まさに治済が操ろうとする“虚構の支配装置”と同じです。恐怖を喚起し、人々を沈黙させる語りを独占することこそ、ギレアドの支配の根幹であり、それは治済が噂と沈黙を操作して権力の影響力を広げようとする構造ときれいに重なります。

 

 しかしアトウッドの物語には、もう一つ重要な層があります。主人公オフレッドは、国家の語りに従いながらも、心の内側で“自分自身の物語”を紡ぎ続けます。禁止された言葉、記憶の断片、ほんのわずかなユーモアや諦めきれない欲望——それらを内的なモノローグとして回収し、自分だけの語りの空間を保持しようとする。その行為は小さく見えながら、「国家の虚構」に対する抵抗であり、“別の虚構”を立ち上げる試みでもあります。

 

 第四十五回の写楽と治済の関係は、このアトウッド的な構図を江戸という場で翻案したものと見ることができます。治済はギレアド的な「国家の虚構」の側に立つ存在です。恐怖を喚起し、沈黙を強い、噂という形で人々の想像力を縛り、世界を不穏な物語で覆っていく。他方、写楽は国家の虚構に抵抗する“祝祭の虚構”です。すなわち、江戸の町人たちが自分なりの楽しみや笑いを見いだし、芝居や浮世絵の中で生の手触りを取り戻すための虚構なのです。

 

 この構図を前にすると、治済を倒すことだけでは恐怖が消えない理由が見えてきます。治済は“ラスボス”ではなく、虚構の二極がぶつかり合う“語りの関ヶ原”を照らし出すために現れたひとつの影にすぎません。べらぼうが強調しているのは、誰を討つかという問題ではなく、どのような虚構が社会を動かしてしまうのかという構造の方です。そして私たちに求められているのは、虚構を選ぶ主体としての決断ではなく、語りがどの方向へ向かい、どのように世界に影響を及ぼしていくのかを捉える視点なのです。

 


“語り以前の感情(プレ・ヴァーバル)”──写楽の核心にある沈黙

 

 では、祝祭の虚構としての写楽を成立させるものとは何か。ドラマは明確に「写楽を描けるのは歌麿だけだ」と示しています。しかしその特権性は、画技の巧拙といった技術的優位に基づくものではありません。もっと深い心理的・存在論的条件が働いています。

 

 写楽の役者絵がとらえようとするのは、写実でも、役者の仮面そのものでもありません。役者が役の表情を脱ぎ捨て、しかし素顔にも完全には戻りきらない——その移行の狭間に立ち上がる一瞬の“影”です。この影は、言語化できない情動の震えであり、心理学的にはプレ・ヴァーバル──言語がまだ形を取る以前の情動領域——に属します。

 

 ここで「写楽」の“楽”の字が意味を帯びます。楽とはもともと木と弦を組み合わせた楽器の象形であり、声そのものではなく、声の手前で生じる“震え”を外へ響かせるための装置でした。つまり写楽とは、実を写す写実ではなく、情動の震え(楽)を写す存在であることを、文字そのものが語っているのです。

 

 では、この震えを掬い上げることができるのは誰か。それが歌麿だけである理由は、彼自身が“語れない感情”を抱えているからです。歌麿は、役者の眼差しの湿度、頬のわずかな緊張、顎の角度、呼吸の揺れといった、語りの外側に漂う徴候を直感的に読み取り、それを絵へと翻訳する能力を持っています。しかしそれは訓練による技法ではなく、彼自身が蔦重に対する名状しがたい愛——思慕、嫉妬、怒り、憧れ、依存、尊敬といった複雑で沈殿した情動——を胸に宿しているがゆえに可能になる営みです。語れなさを自ら内包する者だけが、他者の語れなさを見抜き、それを表現へと昇華することができるのです。

 

 この構造をもっとも鮮やかに照らし出すのが、ロベルト・ボラーニョ『野生の探偵たち』です。この小説では主人公たちはほとんど語らず、物語は周囲の人物たちの証言が断片的に積み重なって進みます。語りが増えれば増えるほど人物像は膨らんでいくのに、核心となる人物は依然として沈黙のまま──むしろ語られれば語られるほど“中心の空白”が際立つという逆説が作品全体を貫いています。

 

 この“空白を中心に抱えた構造”こそ、写楽のあり方と響き合います。写楽は名も姿も定かでないまま、噂や絵草子、評判記といった言説が次々と重なり、像だけが肥大していく。しかし語りの増殖に比例して、作者としての実体は遠のき、中心の不在がますます濃くなる。この生成の仕方は、ボラーニョの小説が示した逆説と同じ仕組みによって支えられています。

 

 さらにボラーニョの世界には、恋や焦燥といった“語りえぬ情熱”が、言語化されぬまま微細な震えとして存在し続けます。その震えは誰かの証言によって断片化され、誤読され、神話化されながら、最後まで語りの外側に残り続けているのです。

 

 歌麿は、この構造を直感的に理解しています。彼が描く役者絵は、説明されない情動、言葉になる前のかすかな震え、役と素顔の狭間に生じる一瞬の沈黙──そうした前言語的な揺らぎを掬い取り、画面へと定着させる行為そのものです。歌麿の筆は、まさにボラーニョが証言形式によって可視化した“語りえぬ震え”を、絵画という別の媒体へ移し替えるための器官として働いているのです。


“火と芯と蝋”──三位一体としての写楽

 

 しかし、ここでどうしても考えざるを得ない問いがあります。写楽という虚構は、いったいどのような力の交差点として立ち上がったのか。どのような意志と情と理が重なり合ったときに、あの特異な名と絵は生まれたのか。

 

 その問いに答えるために、まず交差点の中心に据えるべきなのは蔦重の〈狂気〉です。蔦重は、虚構が現実へ浸透し、人々の想像力の流れを変えてしまう力を、誰より鋭く感知しています。どんな噂が町をざわつかせるのか、どんな絵と言葉が江戸の空気を一変させるのか──それを考えるより先に閃いてしまうがゆえに、面白さが見えた瞬間に危うい一線をもためらわず跨いでしまう。治済のように恐怖で人を縛るタイプではありませんが、その過剰な推進力は、周囲の人間をも巻き込み、破綻へと突き進みかねない危うさをはらんでいます。蔦重の狂気は祝祭を生む火(火花)であると同時に、制御を誤れば全てを焼き尽くしかねない炎にもなるのです。

 

 この火に芯を与えるのが、ていの〈倫理〉です。ていは一見、筋道立ててものを考える理(ことわり)の人のようですが、その心の奥には、弱い者に寄り添わずにはいられない深い情が堆積しています。しかし、その情をむき出しにすれば、自分の世界が崩壊することを知っている。だから彼女は、情をいったん理へと変換し、“伝わるかたち”に整えてから言葉にします。この「情なる理」という芯が差し入れられることで、蔦重の虚構の火は初めて形を保って燃えることができます。芯のない炎が四方へ延焼するのとは対照的に、ていの芯で燃える蔦重の火は、蝋燭の炎のように輪郭を保つことができるのです。

 

 しかし、芯と火だけでは長く持ちません。火を支え、ゆっくりと自足させる“蝋”の部分がなければ、すぐに燃え尽きてしまいます。その蝋にあたるのが、歌麿の〈沈黙〉です。

 

 この沈黙は、言葉を拒む静けさではなく、言葉になる前の情動をそのまま抱え込んだ沈黙です。蔦重に対する名づけられない愛――思慕、嫉妬、怒り、憧れ、依存、尊敬といった互いに打ち消し合う感情の層を、歌麿は自らの内部に沈殿させています。この語れなさを生きているからこそ、彼は他者の語れなさを見抜くことができる。眼差しの湿度、頬の緊張、顎の角度、呼吸の揺れといった、言語の外側に漂う微細な徴候を掬い取り、それを線と色に変換する力が歌麿には宿っています。

 

 “火と芯と蝋”が揃い、蝋燭がひとつの灯になるように、蔦重・てい・歌麿の三つが重なったときにだけ、“写楽”という虚構は祝祭の灯として立ち上がります。

 

 ここであらためて確認すべきなのは、治済を討ち倒したところで恐怖が消えるわけではない、ということです。恐怖の虚構は治済の内側にあるのではなく、噂を信じ、恐れを増幅し、沈黙を煽る私たち自身の語りの構造に潜んでいる。治済は恐怖の源ではなく、恐怖の虚構がどのように増殖するのかを映し出すスクリーンにすぎません。だからこそ、べらぼう終盤で写楽が創造される意味は決定的です。写楽は、恐怖の虚構を力ずくで否定するのではなく、それとは別種の虚構――祝祭の虚構――を対置することで、物語の力学そのものを反転させる装置として機能します。

 

 マーガレット・アトウッド『侍女の物語』において、国家が用意した公式の物語に対し、ひとりの女性が内側で紡ぎ続ける私的な語りが、かすかながらも世界にひびを入れていくように、べらぼうは江戸の芝居町に“写楽”という名の虚構を立ち上げることで、恐怖の物語に対する別の物語の可能性を提示します。国家の虚構ではなく、市井の祝祭の虚構によって人々を束ね直すこと。その物語が、蔦重とていと歌麿の重なりから生まれた“写楽”に、もっとも鮮やかなかたちで託されているのです。

 

虚構の宥和力──“まれびと”としての写楽

 

 治済と写楽という二つの虚構が物語の中に現れたとき、その対立をもっとも深い文化史の層から照らし返す鍵となるのが、日本古来の統治原理としての政(まつりごと)です。政とは、近代的な政治(politics)とは異なり、祭祀が連続的に営まれる場そのものを指しました。祝祭と政治は分離した概念ではなく、むしろ祝祭こそが共同体を動かし、編成するための中心的な力だったのです。

 

 では、なぜ祝祭が政治の核心となりえたのか。ここで折口信夫の指摘が大きな意味をもちます。折口によれば、古代日本の権力とは武力による制圧ではなく、虚構を用いて共同体を鎮める力として理解されていました。災害・疫病・怨霊・争いといった名づけがたい恐怖が共同体を脅かすとき、人々はそれらを神話・歌舞・儀礼という祝祭の形式へと移し替え、“物語として扱えるもの”へと変換してきました。政とは、恐怖に対して「虚構の器」を用意し、共同体が再び呼吸できるようにするための国家的な編集作業だったのです。

 

 折口はさらに、「まれびと」という概念でこの働きをより精密に説明しました。まれびとは、外部から訪れる異界的な力の象徴であり、畏れと再生の契機を同時に帯びた存在です。共同体は、「まれびと」という虚構を祭祀によって迎え入れ、その異界性を祝祭で包摂し、無害化するプロセスを経て共同体の自浄効果を喚起し、秩序を維持してきました。

 

 そして、この政の原理をもっとも制度的に体現したのが天皇制です。天皇は軍事的な統率者ではなく、天照大神の代理者として祭祀を司る祝祭の中心に位置づけられていました。天皇の権威は武力の大小によって支えられていたのではなく、まれびとの力を安全なかたちで受け止め、共同体にふさわしい物語の秩序を付与する、その役割に根ざしていたのです。

 

 この視点を踏まえると、写楽の輪郭がより鮮明になります。写楽は、蔦重・てい・歌麿という三つの力が交差したときに立ち上がった“編集されたまれびと”です。匿名性、突発性、外部から舞い降りたかのような異質さ──写楽はまれびとの特性をそのまま備え、江戸の町に眠っていた祭祀の回路を呼び覚ます存在として立ち上がりました。蔦重が仕掛けた「祝祭としての虚構」が“写楽”という人格に結晶したとき、硬直しつつあった江戸は再び熱を帯び、呼吸を始めます。 

 

 一方で、治済が操ろうとする虚構は、この“政”の原理から最も遠い地点にあります。治済にとって虚構とは、不安を煽り、疑念を惹起し、人心を掌握するための支配装置に他なりませんでした。

 

 本来、虚構は支配のための道具ではなく、“まれびと”という外来の力を祝祭へと編み直し、共同体の生命力を呼び覚ます回路として働くはずのものです。異界から訪れる畏れを、そのままではなく祝祭の形式に包み直し、再生の力へと転じさせる――それが政における虚構の本来的な働きでした。

 

 しかし治済はこの回路を根本から取り違え、虚構を共同体の再生ではなく統制に利用し、社会の呼吸をいっそう狭めてしまうのです。

 

 このようにして治済と写楽の対立は、虚構をどちらの方向へ使うのか――支配のためか、祝祭力を喚起するためか――という、根源的な分岐として姿を現します。治済の虚構は萎縮を生み、写楽の虚構は共同体の息吹を蘇らせる。第四十五回が浮かび上がらせたのは、この対立軸そのものだったのです。

 


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