スペインにも苗代がある。日本という方法がどんな航路を辿ってそこで息づいているのかー三陸の港から物語をはじめたい。
わたしが住んでいる町は、縄文時代の遺跡からもマグロの骨が出土する、日本一マグロ漁師の多い町と言われている。インド洋からケープタウンを回って北大西洋までを漁場とし、スエズ運河もパナマ運河も通って世界一周したという漁師も少なくない。1年近くにもなる遠洋マグロ漁の航海の補給基地としてよく寄港するのが、スペインのカナリア諸島にあるラス・パルマス港だという。
400年ほど前、日本人ではじめて太平洋・大西洋の横断に成功し、スペインに渡った支倉常長も、三陸の港から出航した。伊達政宗の命を受け、慶長遣欧使節団を率いて外交交渉をした人物だ。スペイン国王とローマ教皇に謁見し、ローマの市民権と貴族の位も与えられた。
常長の船出は1613年。政宗は仙台藩内でのキリスト教布教の容認と引き換えに、メキシコとの直接貿易を求めた。日本から常長に同行した宣教師のソテロは、徳川家康を“Emperedor”(皇帝)、伊達政宗は“Rey de Voxu”(奥州の王)と呼び、政宗のことを「次の皇帝」と紹介した。ヨーロッパで「皇帝」と称されるのは神聖ローマ皇帝のみ、大名を表現した「王」は、スペイン国王と同列である。
(ちなみに、日本の施政者が“Emperedor”と呼ばれた例の初見は秀吉だそう。植民地を求めて触手を伸ばしていたスペイン・ポルトガルは、朝鮮出兵で見せた秀吉の動員力に「帝国」を見たのだという説がある。)
しかし、常長の出航から2年後の1615年には大坂夏の陣で豊臣家が滅亡、徳川政権が揺るぎないものとなり、政宗は「次の皇帝」たり得なかった。そして、常長はスペインで洗礼を受けカトリック教徒となったが、日本でキリスト教弾圧の動きが拡大していることはヨーロッパまで届き、貿易交渉は成立しなかった。ねばりながらも1620年に帰国すると、江戸幕府はキリスト教を禁止していた。
常長が出航する少し前のヨーロッパでは、1605年に『ドン・キホーテ』第1部、1606年に『リア王』が相次いで出版されている。
1588年にイギリス海軍がスペインの無敵艦隊を破って以降、少しずつ傾いていく西日のような物語を追っていくドン・キホーテを、さらに物語にした書物。それが世に出た直後、徳川に拮抗しうる最後の戦国大名としての政宗の物語に乗って、常長は海を渡った。サブストーリーとしてカトリックをインストールするもメインストーリーが破綻し、帰国したら今の政宗の物語ともズレていて、さらにはクリスチャンとしての物語も命を危険にさらすようになる。まるでリア王が落ち込んでいったような「裂け目」が現れたようだ。
常長の航海の3年前、1610年に東インド会社ではじめて株が登場した。また同じ年、イギリスで石炭炉の特許が許可され、石炭を活用してヒトは身の丈を越える力を振るえるようになっていく。常長が航行していったのは、世界の貪欲の亀裂のはじめだった。
ヒトはそこに物語を読み込まずに、世界を見ることはできない。常に物語をインストールせずにいられない空洞だ。リア王は錯乱していると言われるけれど、ドン・キホーテは幻影を見ていると言われるけれど、物語が行き止まりになったり、接ぎ木されたり、分岐して遠ざかったり、反転したりしないと思っている方が、幻なんじゃないだろうか。モノのカタリはいつも引き裂かれそうな想いの丈だ。物語に安逸を求めると、それを思い出させるように世界は裂け目を見せてくる。
セビリア郊外のコリア・デル・リオという川岸の町には、ハポン(日本)という姓をもつ人が800人ほどいて、400年前使節が上陸したこの地に残った人たちの子孫だと言われている。ここには日本の風景と見紛うような水田が広がっていて、スペインやイタリアでは水田に直接モミをばらまいていく農法が一般的なのに対し、苗代に種を蒔きそこで育てた苗を植えているという。
常長も残した苗代で、物語を直播せずに育て、動いていくさまを観よう。そして、苗を選び、組み合わせて植えよう。旱もある、台風も来る、安逸はない、だからこそ編集は終わらない。
参照文献:
『情報の歴史21』
『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新
『支倉常長遣欧使節 もうひとつの遺産』太田尚樹
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林 愛
編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。
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