釈迦からつながる28祖であり中国禅第一祖でもある菩提達磨。達磨が中華に禅を持ち込み、9祖となる天皇道悟に至るは6世紀から9世紀序盤。1200年生まれの道元が中国禅と出会うのはもう少し先のお話である。
2021年11月末に開かれた輪読座第2輪の図象解説は、達磨から始まった中国禅を9祖まで追いながら、中国と日本をインタースコアした。
■中華文明圏で拡大する禅
釈迦より数えて28祖である菩提達磨は20年間インド諸国を行脚し「悟後の修業」に励んだ。その後、未知の中華文明圏を目指してパッラパ朝の貿易港マーマッラプラムから広州に向けて出航した。中国は西魏・東魏・梁の時代、日本は古墳時代にあたる。
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梁の武帝は、502年から549年まで、およそ50年の長期政権をもった。『情報の歴史21』には「武帝、道教を捨て仏教に帰依(国教に)【梁】」という記載もあり、寺をつくったり、写経を好んだ皇帝だったという。
菩提達磨は中国禅では第1祖にあたる。527年 武帝は広州に到着した達磨を招いて問うた。
武帝「朕は即位して以来、寺を造り、経を写し、僧を得度すること数え切れない。どんな功徳があるだろうか」
達磨「無功徳」
武帝「なぜ無功徳か」
達磨「それらはただ人間界・天界の小果であって、煩悩を増すだけの有漏の因。影が物をかたどっているようなもので、存在はしても実体ではない」
<武帝は、寺を造ったり経を写したりしていて“なかなかな仏教国でしょ?”と思っていたのに、達磨は「無功徳」であると答えた。そんなのは人間の世界や神々の世界なのだ、そんな小さいことでどうするのかと。綺麗な五重塔をつくっても煩悩が増えているだけで、実体がないって言ったんだよね。とは輪読師バジラ高橋の解説である。>
達磨の法を嗣いで二祖となったのが慧可、慧可から伝法の信を表す袈裟を与えられ、三祖となったのが僧璨であった。中国禅は限られた集団から徐々に輪を拡大していく。
592年 第四祖となる14歳の道信が司空山の三祖僧璨を訪ねて問う
道信「和尚様、何卒、慈悲たれ賜いて 悟りへの法門をほどき与え たまへ」
僧璨「誰が汝を縛ったか」
道信「縛った人はいません」
僧璨「今更 何を解くと、いうのか」
この途端、道信は大悟した
<僧璨のところに道信がやってきて、“どうしたら悟れるのか教えてーっ”て聞いたら、「誰がお前を縛ったのか」と。それで14歳の子が悟っちゃった。自分は世界を刷り込まれていたと。14歳ぐらいで気がつくと早くていいよね。これぐらいを中学校でやるといいわけよ。
バジラの語りで中国禅のクロニクルが21世紀の現代に入り混ざる。>
中華では589年に隋の文帝が300年ぶりに天下を統一し、あらゆる制度やインフラを構築した。市場拡大の触手は高句麗にまで伸びた。
隋の文帝(楊堅)が「開皇の治」で築いた中央集権力と国富力は、2代目の煬帝(楊広)が対外膨張政策と桁外れの土木事業と豪奢な宮廷生活でたちまち崩れていった。
とくに612年から始まった高句麗遠征は最初から100万人の大軍の敗退となり、ロジスティックスを担当監督していた楊玄感の反乱を招いた。
それでも煬帝は第3次高句麗遠征を断行するのだが、すぐに雁門で突厥に包囲され、とりあえずなんとか脱出するものの、結局、不満兵士を率いた宇文化及(うぶんかきゅう)によって殺されてしまった。隋朝はここであっけなく滅ぶ。
(千夜千冊 1436夜『隋唐の仏教と国家』礪波護)
ここで立ち上がってきたのが唐である。618年に李淵(高祖)が唐を建国し、初代皇帝に即位する。二代皇帝となる李世民(太宗)が全国統一戦争開始すると、中華民族と突厥の遊牧民族を支配した。太宗は644年には高句麗討伐に向かうが遼東郡で敗北し負傷。649年に没している。
日本では593年推古天皇即位後、聖徳太子が政治に参加し、冠位十二階(603)、十七条の憲法(604)など国家体制を整備する。607年に派遣した遣隋使が小野妹子である。その後、日本は大化の改新を経て律令国家へと歩みを進める。斉明女帝・中大兄皇子政権では百済と和済同盟を強化するが、唐と新羅軍の協働によって百済は滅びてしまう(660年)。日本は軍を送るも敗北を喫す(663年白村江の戦い)。
唐・新羅連合軍に完敗した白村江の海戦が、なんといっても日本(倭国)を変えたのである。これで日本は朝鮮半島との“連合性”をあきらめ、自立の道を歩む決断をする。そのための処理を斉明と天智がやって、次の統一のための派遣争いが壬申の乱である。
(千夜千冊 857夜『埋もれた巨像』 上山春平)
中国禅は五祖弘忍を経て、神秀・慧能が登場する。神秀は荊州当陽山の玉泉寺に移り北宗禅を広めていく。慧能は南方へ、韶州(しょうしゅう:広東省)曹渓の宝林寺の住持となり、頓悟禅(南宗禅)を広める。その流れを継いだ七祖が青原行思は青原山(江西省吉安市)に静居寺(じょうごじ)を開くと、修行者が雲集した。八祖石頭希遷は衡山(こうざん、南嶽:湖南省)の南寺へ行き、絶岳の上にそびえる台形の巨石の上に庵を結び、石頭と称される。後に、故郷の端州(広東省肇慶市)で宗風を宣揚する。九祖となる道悟は荊州(けいしゅう)東陽の柴紫山(さいしざん)に住した。そこに学徒が大いに集まったため、荊州城東の天皇寺に移った。道悟は天皇道悟と称され、官界からも嘱望されるようになっていた。
■分派する中国禅
「禅の歴史は長い。達磨以前にも禅があり、6世紀前半に菩提達磨が中国に来て面壁九年をおくって少林寺に籠もってから、7世紀後半に五祖弘忍が登場してくるまでだけでも100年がかかっている」
「ついで、その弘忍の東山(とうざん)法門において、初めて修行僧の集団的定住がはじまって、六祖慧能のときに南宗禅と神秀の北宗禅が分かれた。その後に禅林の礎を築いたのは、荷沢神会(かたくじんね)と午頭宗(ごずしゅう)が出てきたあたりだった。 」
(千夜千冊 1175夜『無関門』無門慧開)
中国禅は 六祖慧能のときに南宗禅と神秀の北宗禅などに分派し、大きく動いていく。南宗禅では慧能の後継者が何人も現れていた。
南岳懐譲は臨済宗や潙仰宗につながっていく。青原行思は曹洞宗・雲門宗・法眼宗では七祖だ。南陽慧忠に弟子はいなかったが、安史の乱で代宗の国師となった。司空本浄は、後々、道元によって大悟後の修業に多数引用されている。永嘉玄覚は慧能の問答集を集めた『証道歌』を記した。曹洞宗では必読となっている。荷沢神会は、もとは神秀の弟子だったが北宗禅を批判し荷沢宗という独自の禅の宗派をつくった。中国禅は、個性的な禅僧によってその思想や文化を一挙に広めていく。
755年、安史の乱勃発。9年に及んだ大乱は混乱を招くが徳宗が終結させていた。しかし兵力削減や節度使の世襲禁止を実施しようとしたことに節度使が反乱し、長安を占拠されてしまう(783年)。徳宗は『罪己詔』を発して節度使に対する不介入を約束。この後、唐王朝は130年ほど存続するが朝廷の力は相対的に弱体化していく。
日本では、文武天皇が完成したばかりの「大宝律令」を持たせて周の聖神皇帝に使節を派遣した。「日本の使者」として謁見し、「日本」という国号が認められたというエピソードが残る。(702年)。平城京や平安京への遷都があり、804年、平安時代初となる遣唐使船で最澄と空海が唐を目指していた。
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第3輪では、いよいよ曹洞宗開祖となる2人の禅僧が図象解説に登場し、時代は唐から五代十国へと時代は移りゆく。そして2022年1月、輪読座「道元を読む」は後半戦へと突入する。
宮原由紀
編集的先達:持統天皇。クールなビジネスウーマン&ボーイッシュなシンデレラレディ&クールな熱情を秘める戦略デザイナー。13離で典離のあと、イベント裏方&輪読娘へと目まぐるしく転身。研ぎ澄まされた五感を武器に軽やかにコーチング道に邁進中。
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