【三冊筋プレス】告白の日記・告発の短歌(中原洋子)

2021/05/13(木)10:02
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◆男もすなる日記といふもの 

 

 あなたは、日記をつけたことがあるだろうか。日記を書くのは、一種の告白的行為である。告白というのは誰かそれを聞いてくれる者がいなければ、何の意味も持たない。ほとんど全ての日記は、いつかは他人がそれを読むであろうという無意識の希望、期待を込めて書かれている。

 私も日記をつけたことがある。一番力の入ったのは、旅日記だった。道中の出来事や感動した風景、書きながら甦る思い出は美味だった。それは私だけの楽しみであったにも拘らず、読み返してみると無意識とはいえ、明らかに人に読まれることを意識して書いているように思える。

 

 日本文学研究者であるドナルド・キーンの日記文学への関心は、戦場での体験に端を発している。米軍が入手した日本兵の日記の読解という任務に従事していた彼は、日記から日本人の気持ちを深く読み取った。そのうち、キーンは日本の古典日記も読むようになった。

 著書『百代の過客』には、『土佐日記』、『蜻蛉日記』といった有名どころから無名日記に至るまで、約八十冊の日記が紹介されている。外国人ならではの目線で、キーンは作者の心情の吐露をすかさず掬い取る。ゴシップへの恐れが書かれていない頁は一頁もない『和泉式部日記』、詩的真実のために、明らかに客観的事実を曲げて綴られた『奥の細道』、日記はどんな文学形式にもまして、日本人の思考と感情をよく伝えていることに気づくのだ。

 

◆たびごころもろくなり来ぬ

 

 日本人は先人が訪れた場所を再訪することを楽しむ。歌枕を訪れ、先達の詠んだ歌を口ずさむ。たとえそこに先達が見たものがなくても、その面影を偲び、あたかもあるかのごとくそれを感じる。そして、旅で得た体験の様々を思い返しながら、紀行文、旅日記をつけるのだ。体験の新奇さを述べることが目的の西洋人と違って、日本人は先人がすでに体験したことを再体験することを常に望む。書きながら甦る思い出は、さぞかし美味であったに違いない。日記をつけることは時間を温存することなのだ。

 白洲正子の文章にも「道行き」的要素がある。正子はエッセイ集『かそけきもの』の中で西国巡礼の旅を綴っている。熊野の山で、那智の滝で、補陀落山寺でふと口をついて出るのは先人たちの詠んだ歌である。

 

                                  

    ちぎりあれや山路のを草莢さきて

             種とばすときに来あふものかも  

                               

 那智の滝に出会った時、正子の胸に浮かんだのは釈迢空の歌であった。奇しくもめぐり合うこのような風景との「同化」の体験とその心情を正子は先人の歌に託した。日本人の死生観、神仏混合も、この旅の経験の中ではっきりと掴んだ。

 本書で繰り返し話題となるのは「補陀落渡海」である。永遠の国、人間の還るべき故郷が海のかなたにあり、海へ船出して、どこまでも西へ西へと進んでいけば観音浄土に達するという信仰である。つまりは自殺行為であるが、はてしもない海原を見つめていると、個人の体験とは別に、人間の中に潜在している民族の記憶といったようなものが甦ってくるようにも思える。多くの人々がそういう信仰のもとに死んでいった。海を見つめる正子の口をついて出る歌は、心に師と仰ぐ折口信夫の歌である。 

 

    青うみにまかがやく日やとほどほし

               妣が国べゆ船かへるらし

 

 一途に西方に浄土があると信じて船出した人々の心は哀れだが、信じ切って死ねるという幸福もまたあるのだと正子は思う。

 

◆額の真中に弾丸うけたるおもかげ

 

 先人の歌に自分の心情を託す者もあれば、自ら歌を作り心情を吐露する者もいる。中世では和泉式部、近代では与謝野晶子がそれにあたるだろうか。さらにもう一人、忘れてほしくない昭和の女性歌人がいる。斎藤史だ。

 斎藤史は、十代で歌壇に彗星のごとく登場した。父は二・二六事件に連座し下獄した齊藤瀏、父を通じて親交があった青年将校の多くが刑死した。この経験が生涯に渡っての文学的テーマとなる。『斎藤史―不死鳥の歌人』は、史の人生と歌を通して昭和の歴史の闇を告発する。

 

     たそがれの鼻唄よりも薔薇よりも

               悪事やさしく身に華やぎぬ

 

 昭和15年(1940年)、第一歌集『魚歌』に掲載された初期の歌は、どれも美しく華麗なモダニズムに溢れている。しかし、その明るさは次第に影をひそめ、時代の人間凝視の歌に変っていく。

 

 

     濁流だ濁流だと叫び流れゆく

               末は泥土か夜明けか知らぬ

 

 国家総動員を必要とする情勢で、正面切って歌うのは憚られる時代。言葉の裏に二・二六が潜む。行く末は「夜明け」か「泥土」か、と突き放した表現は強い怒りと鋭い時代の予言である。

 史は昭和37年(1962年)歌誌『元型』を創刊、主宰する。6年後、母が緑内障のために失明、続けて夫の尭夫が脳血栓のため入院、母と夫両者の看護にあたるようになる。そんな中、第八歌集『ひたくれなゐ』を出版するが、その年、尭夫死去。3年後に母が没した。

 

     盲ひたる母の眼裏に沁みてゐし

               明治の雪また二・二六の雪

 

 平成9年(1997年)、召人として宮中歌会始に招かれる。参内する前夜、史は「みんな一緒に行こうか。今度こそ成仏できるわよ」と青年将校たちに声を掛けたという。

 「 お父上は瀏さん、でしたね 」これは、陛下の側からの二・二六事件受刑者側に対する和解の意思表示であったようだ。

 史がその日詠んだ歌である。

 

     野の中のすがたたゆけき一樹あり

               風も月日も枝に抱きて

 

 だからといって長い胸の思いが晴れたとは思えない。いろいろな人が語っていることが果して真実なのか、史の痛恨はいつも胸の中で疼いた。

 「あの事件のとき父が帰ってきて聞いた話と、随分違うの。あのとき本当はこうだったのよ。なんて今になって暴露するわけにはいかないでしょう」。

史は繰り返し繰り返し二・二六事件への思いを詠った。

 

     深淵は天にありたりいっさいを

               吸ひて返さぬ底無しの空

 

 平成14年(2002年)4月、斎藤史永眠。

 

Info


⊕アイキャッチ画像⊕

∈『百代の過客』ドナルド・キーン//講談社学術文庫

∈『かそけきもの』白洲正子/角川ソフィア文庫

∈『齊藤史 不死鳥の歌人』山名康郎/東京四季出版

 

⊕多読ジム Season05・冬⊕

∈選本テーマ:日本する

∈スタジオ茶々々(松井路代冊師)

∈3冊の関係性(編集思考素):二点分岐

 

          ――――『かそけきもの』
         |    
 『百代の過客』―|
         |
          ――――『齊藤史 不死鳥の歌人』

             

⊕著者プロフィール⊕

∈ドナルド・キーン
 1922年ニューヨーク生まれ。日本文学研究者、文芸評論家。コロ
ンビア大学名誉教授。1940年(18歳)、アーサー・ウエーリ訳『源氏物語』に感動。1942年、日米開戦に伴い米海軍日本語学校に入学。翌年、海軍情報士官として従軍。ハワイで米軍が入手した日本軍に関する書類の翻訳、日本兵の日記読解、日本兵捕虜の尋問や通訳などに従事。終戦後、日本文学や日本文化の研究を志しコロンビア大学大学院、ケンブリッジ大学を経て1953年に京都大学大学院に留学。アメリカ帰国後、コロンビア大学で日本文学を教えながら日本に足繁く通い、川端康成、谷崎潤一郎、三島由紀夫など名だたる作家と交流を深めながら古典から現代文学にいたるまで広く研究し、海外に紹介。日本文学の国際的評価を高めるのに貢献。1962年に菊池寛賞、1983年に山片蟠桃賞、国際交流基金賞を受賞。また日本人の日記を研究した『百代の過客』で読売文学賞、日本文学大賞(1985年)を受賞。1986年、コロンビア大学にドナルド・キーン日本文化センターを設立。2002年には文化功労者、2008年には文化勲章を受章。2011年3月の東日本大震災後、被災地の懸命に生きる人々の姿をみて「いまこそ私は日本人になりたい」と日本永住・日本国籍取得の決意を表明。2012年3月、帰化申請が受理され日本人となる。日本国籍取得後の正式名はキーン ドナルド。名誉都民。2019年2月24日朝、心不全のため東京都内の病院で死去。享年96歳。主な著書として『日本文学の歴史』18巻、『明治天皇』など。また、古典の『徒然草』や芭蕉の『奥の細道』、近松門左衛門、現代作家の三島由紀夫、安部公房などの著作の英訳書も多数。

 

∈白洲正子
 1910年~1998年。随筆家。樺山愛輔と母・常子の次女として生まれる。祖父は樺山資紀(海軍大将、伯爵)、母方の祖父に川村純義(海軍大将、伯爵)。夫は白洲次郎。日本の古典・能楽・古美術に通じる。1914年(大正3年)、 能を習い始める。1924年(大正13年) 能舞台で初めて能を演じる。演目は『土蜘蛛』。学習院女子部初等科修了。渡米しハートリッジ・スクールに入学。1929年、白洲次郎と結婚。1943年、鶴川村へ転居。、青山二郎や小林秀雄の薫陶を受け骨董を愛し、日本の美についての随筆を多く著す。梅原龍三郎や秦秀雄、晩年は護立の孫で元首相の細川護熙、河合隼雄や多田富雄等との交友もあった。骨董収集家としても著名。『能面』『かくれ里』『日本のたくみ』『西行』など著書多数。

 

∈山名康郎
1925年(大正14年)12月北海道に生まれる。歌人。陸軍士官であり斎藤史の父であった齊藤劉の部下、山名薫人(歌人)を父に持つ。「旭川歌話会」で史と交流のあった父から話を聞かされ、早くから史に強い親近感を抱いていた。 1940年、歌誌『潮音』『新墾』に入会。札幌光星高等学校卒業。明治大学在学中より特別幹部候補生として苫小牧市沼ノ端の独立旅団に入隊し、終戦を迎える。戦後は北海道新聞記者を務めながら、四賀光子に師事。1954年に、結社制度に疑問を抱いて『潮音』『新墾』を脱退し、中城ふみ子ら道内の若手とともに同人誌『凍土』を創刊した。また、「青年歌人会議」に参加していた縁から、尾崎左永子とも交流が深かった。昭和30年代以降は前衛短歌運動に反発して作歌を中断するが、1973年に復帰。歌誌『花林』代表、北海道歌人会代表などを歴任。1986年から1997年まで、北海道新聞短歌欄選者。北海道立文学館参与。2006年、歌集『冬の骨』で第33回日本歌人クラブ賞受賞。2009年、北海道文化賞受賞。2015年没。

  • 中原洋子

    編集的先達:ルイ・アームストロング。リアルでの編集ワークショップや企業研修もその美声で軽やかにこなす軽井沢在住のジャズシンガー。渋谷のビストロで週一で占星術師をやっていたという経歴をもつ。次なる野望は『声に出して歌いたい日本文学』のジャズ歌い。