【三冊筋プレス】記憶多様化・読書世界(寺田充宏)

2020/10/29(木)10:09
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 物理学者フリーマン・ダイソンは『多様化世界』で「最大多様化は、しばしば最大のストレスをもたらす」と書いている。多様化とは摩擦と争いをうむのだろうか。


 私の13歳の時の記憶である。黒に塗りつぶされた建物の影の間を緑の蛍光色の光がいくつも飛び交っている。ニュースで観たクウェート爆撃の映像だ。初めて観るリアルタイムの戦争行為だった。イラクが悪者にみえた。およそ30年が経った今も国際関係はきな臭い。イスラム国は解体されたというが、中東は依然不安定な情勢だ。米国ではトランプの自国主義が幅をきかせ、人種差別問題が燻る。中国は神の見える手とデジタルシフトで国力を増した。COVID-19によって米中の対立はより深まっている。差異が争いをうんでいるようにもみえる。

 

 国際派アラブ知識人であるエルマンジュラは湾岸戦争が第一次文明戦争であったと断言した。初めて経験する真の世界大戦ともみなした。ユネスコをはじめとする国連機関に20年以上勤めてきたせいで、欧米の傲慢さにも第三世界がおもねる姿にも苦々しい思いを抱いていた。『第一次文明戦争』には怒れる声が響いている。同時にアラブ・イスラム世界を端然とみる目がある。

 以前から西洋のヘゲモニーがイスラム世界を取り込みつつあった。実はその中で自立を示そうとしたのがイラクだった。米国はフセインの態度を歓迎しない。多国籍軍の圧倒的火力は、反抗しようとする第三世界へ警告でもあった。さらに言えば米国はトラウマを払拭するチャンスにもした。戦争終結の日にジェイムズ・ベイカー国務長官は「ヴェトナム敗戦の記憶を抹消できた」と会見で述べている。

 イスラムでは記憶のことをズィクルと呼ぶ。集合的記憶であり、アラブ・イスラム社会の向かう先を示すものだ。しかし、ズィクルは西洋によって浸食され、塗り替えられつつあった。湾岸戦争では爆撃によって叩かれることになる。エルマンジュラの言う文明戦争とはつまり記憶の戦争だったのだ。

 

 グローバルな世界では多様な見方と記憶があちこちで交わることになる。戦争のように差異が際立って衝突もすれば、デモ隊のように類似によって密着もする。はたして多様性を持ちながら、かつ持続する仕組みとはどのようなものなのか。

 フリーマン・ダイソンは生物にヒントがあるという。生命はスタート時から複雑さを内包していた。複製を繰り返すなかでパターンを増やしていった。

 生命は情報を伝達するシステムだ。遺伝子というメディアに乗せ、生命に必要な設計図とプロトコルを次代に伝えていく。だが、遺伝子は細胞という構造体がなければ機能しない。つまり遺伝子がソフトウェアで、細胞がハードウェアにあたる。生命活動にはコードを継承し、構造をつくることによってシステム全体を複製していく仕組みが動いている。

 このとき生命情報を保つこととバリエーションを生むことの双方にとって重要なのは、意外にもエラー率である。コードの複製精度がある範囲を逸脱するとシステムが壊れる。一切の間違いが起きなければシステムが停滞し、環境変化に負けてしまう。生命はエラーが持つゆらぎの力を使って自らの情報を残し続けてきた。38億年に渡って情報を継いでいくことを可能にした方法である。

 

 ひるがえって人々が記憶を継承するときはどうだろか。イスラム世界ではクルアーンは書物であるという以上に神の属性にあたる。読むことは信仰そのものである。エルマンジュラは失われつつある集合的記憶を取り戻すためにはクルアーンを新しいアプローチで読まなければならないといった。

 ボルヘスの『伝奇集』は読書がエンコードとデコードの技法であることを教えてくれる。読み手が解釈力を上げれば、読書は魔術のように自在になり、いくらでも新しい方法で本に臨むことができる。「バベルの図書館」では一冊の本が世界であり、世界が一冊の本であることが暗示される。「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」にあやかり、全く同じ記号から多彩な意味を引き出すことも可能だ。ボルヘスの特徴はそれ自体が一個の迷宮であるようなテクストである。多岐多様な引用や傍証が織り込まれ、世界の記憶に編みこまれている。

 

 テクストに折り畳まれた意味は読み手の持つプログラムによってデコードされ、同時に記憶としてエンコードされる。本の迷宮が転写される。読書は情報を複製伝達しながら、それを多様化させる「記憶の生命システム」であった。エルマンジュラは民族の記憶、つまりズィクルを継承するには、クルアーンと人々が一体となった読書そのものを手渡していくべきだと言いたかったのだろう。西洋ヘゲモニーからの圧力を受けているからこそ、内側では集合記憶を維持するための解釈の多様性を生むことができるはずである。

 「ストレスの最大化」を表明したダイソンはSF的想像力を使った摩擦の克服方法を示してくれている。宇宙で増殖する鳥「アストロチキン」のようにありそうもないことに思いを致すことだ。行き詰りや衝突を前にしたときにはボルヘス的オクシモロンで飛躍力をあげるとよい。差異がうまれる場所には、争いではなく、新たな解釈可能性の息吹を感じるべきなのである。

 

●『第一次文明戦争』マフディ・エルマンジュラ/御茶の水書房
 『多様化世界』フリーマン・ダイソン/みすず書房
 『伝奇集』J.L.ボルヘス/岩波書店

 

●3冊の関係性(編集思考素):三間連結型


  • 寺田充宏

    編集的先達:ジョルジュ・ペレック。イシス1のハイトーンボイスから繰り出されるワークショップの切れ味。生命モデルをベースにした深い編集的世界観。離の火元組としても将来を嘱望される。通販番組ジャパンエディットTERADAは必見。