──胸が痛い、息切れもする。左肺上葉の腺癌を取った。
満身創痍の松岡正剛が取り上げた1冊は、『神秘主義』。
医学がどれだけ進歩しても、人体やウイルスのことはわからないことだらけ。癌ができるメカニズムもタイミングも、薬物の効果も副作用も、ウイルスの伝播の具合や終息のきっかけも、まだまだわからないことがいっぱいだ。
カラダや社会が弱ったときほど、神秘主義に傾倒するのは世の常。多読ジム千夜リレー伴読。この一夜は小倉が担当します。別様の可能性に富む神秘主義の一端に触れてまいりましょう。
■二度の「上葉」肺癌
「なぜ、何度も癌にかかるのだろう。体質かな」松岡正剛がつぶやく。お土産のトライボールを片手に、「もちろん、タバコが原因です」と、口にしそうになるが、黙っていた。それはきっと答えになっていないだろう。
タバコは発がん物質の宝箱だし、肺がんに限らずあらゆる悪性腫瘍の病因となりうる。特に肺がんは、喫煙がいちばんのリスクファクターだから、当然目の敵にされ、特別にチェックされる。
術前のカンファレンスでは、現在喫煙している(current smorker)、かつて喫煙していた(ex-smorker)、喫煙したことがこれまでにない(never smorker)と患者を分類する。さらに、喫煙者の場合は、喫煙が人体に与える影響(ブリンクマン指数)を割り出す。喫煙本数×年数で、400以上が肺がんの危険あり、600以上で肺ガン高度危険と判定される。
上記のような指標に呼吸機能検査の結果もあわせ、肺気腫や慢性気管支炎など、COPDの有無を判断し、術式、術後の管理を決定している。
でも、喫煙していてもがんにならない人もいるし、never smorkerの肺がん患者さんもけっこういる。最近、私の病院では、コロナ禍でCT検査を受ける機会が増えたからなのか、肺がん患者さん、それも40代を中心とした若い患者さんがかなり増えたという印象がある。
何がどうしてがんになるのか。その遺伝子のエラーとプロセスはリアルタイムで確認はできない。がん細胞の遺伝子はいくらでも調べられているけれども、それはもう完成したがんの中の状態を見ているだけである。もちろんそこからリバース・エンジニアリングして、発がんのメカニズムは研究はされているけれども、校長が以前、胃癌を患い、70代に突入して2度の肺がんになった根本的な要因はわからないままだ。わからないからこそ、実体のさらにつかめないストレスを諸悪の根源だと断罪したりする。その結果、スピリチュアルな方向に向かい、マインドフルネスがはやったりするのだ。
幸いに松岡校長の2度の肺がんは、いずれも両肺の上葉に発生した。これって本当に幸いなのだ。いま私がPC前でこの原稿を打っているときのような安静な状態において、肺の上側はほとんど使われていない。上体を起こしているときは、どうしても肺の血流は下側に偏る。だから下の肺だけを動かしていた方が効率が良いといえば良い。階段の上り下りやマラソンなど少し息が上がったなと思っているときにはじめて肺の上側も使い始めるのだ。
よって、肺がんといっても、上葉と下葉では手術の負担は大きく違ってくる。下葉はいつも使っている部分だし、上葉に比べて容積も大きい。現在は、がんとその周囲だけを切り取る部分切除術や区域切除術といった縮小手術も主流となってきているが、ごくごく早期のがんに選択されるものだし、できた場所によって縮小手術ができない場合もあり、かつ、リンパ節の郭清術も必要な場合は、どうしても葉ごと切除する必要がある。葉切除が根治術の一般的方法なのである。松岡校長の2つの肺がんがいずれも上葉にできたのは、とにかく不幸中の幸いであった。
それにしても、毎日3箱のタバコを消費するほどのヘビースモーカーで、COPDもかなり進んでいるであろうにもかかわらず、術後も14離の退院式に顔を見せてしまう、その体力と気力にこそ驚く。1度目の肺がんの手術後だってしばらく経つと、90分くらいの講義は精力的にこなされてきた。体調不良をおして出演された昨年夏のweb講演会「千夜千冊の秘密」は、実に3時間を越える長丁場であった。若い健康な人間であってもかなりきつい。どれだけ強靭な精神と肉体なのだろうと思うし、それこそ“神秘”である。ここぞの時機を捉えるセレンディップな力がなせる技なのだろうか。
医師の大半は、医学部で西洋医学を6年間かけてじっくり学び、そこでは嫌というほど、EBMの重要性を叩きこまれる。Evidence-based medicine、根拠に基づく医療を、ということである。
AとBという治療選択肢があったとすると、だいたい5年や10年で区切った生存曲線や再発率が提示され、その治療の副作用も考慮し、どちらかを選択する。こういったビッグデータに基づいた方針選択が今の医療の主流であり、大原則である。
しかし、熟練の医師なら、EBMだけで日々の診療が成り立つなんて思っていないし、患者の経過が自分の予想を思いっきり裏切り、喜んだり悔んだりする経験をしたことのないひとはいない。もちろん、適切な医学的評価ができていなかったという未熟さということもあるが、どんなに完璧な診療を行っても患者さんの経過が必ずしも良いとは限らない。一方で、これはもうだめかと思っても驚異の回復力を見せる患者さんもいるし、検査の際に確認した癌が手術の時に消えていたという症例もわたし自身が何例か経験している。人間のカラダはどんなに医学が進んでも神秘に包まれた部分が多くある。だから面白いのだけれど。
■凹んだ伽藍には神秘主義を
だいぶ前置きが長くなったが、本千夜の位置づけは、神秘主義やオカルトについての序章ということのようだ。このあと数冊の神秘主義関連の本が続くのだろう。
本千夜のはじめの方で、日本中の大病院は過密な21世紀の「凹んだ伽藍」と表現されていたが、コロナ禍はまさに世界が「凹んだ伽藍」のようだ。それならば、術後の松岡正剛だけにまかせるのではなく、神秘思想史の小枝とフォーマットをみんなで育てていく必要がありそうだ。フェチの次は、オカルトなのである。オカルトフェチが世界と自分を救うかもしれない。
神秘主義(mysticism)の語源は、古代ギリシアのミステリーズ=密儀(mysteries)である。動詞のミュエイン(myein)に発したもので、「唇や目を閉じる」つまり、沈黙や遮断に何か格別な力を感じようとするものだ。一方オカルトは、ラテン語、オックルトゥス(occultus)に由来し、「隠された」という意味を持つ。神秘主義と同様に「ないようであるもの」に意義を見いだす。
ないようであるものは、ないものとされてきた負の歴史がある。ヨーロッパの歴史の中では、ローマ教会が認める正統なキリスト教に対して異教が誕生した。ローマ教会に忠誠を見せないあらゆる思想は、負の烙印を押され、異端として迫害されるか、あるいはないものとして無視されてきた。
しかし、そういった負の烙印によって、神秘主義もオカルティズムも、編集的に発展してきたともいえる。例えば読めない文字、つまり暗号化した神秘思想の書物はメディエーションの最たるものである。また時に、負から正への変身もはかってきた。ニュートンの万有引力の提案も、同時代人にはオカルトじゃないかと言われていたそう。しかし、結局は、その後の宇宙物理学の発展の基礎となっていったのである。わからないものは、わかるとかわるのである。編集の常だ。
見える、見えない。わかる、わからない。編集学校にいればよくわかるが、それらは表裏一体で、たくさんのわたしであり、地と図の問題とも言い替えられ、物事をどんな視点から分析するかにより、容易にかわるものだ。要は見え方の問題だが、ひとつの物事を正と負、表と裏、全体と部分、明と暗、顕在と潜在として二項同体的に捉えていくためには、見方のどこかに神秘主義を潜ませておくことはきっとこれからもっと求められていくはずだ。
■密儀を読み解くオカルト力を
今の社会の見えない代表格といえば、コロナウイルスとヒトのココロの移り変わり。ウイルスの“密儀”を解読できず、変異株に右往左往するばかりの日本政府。IOCの密儀にばかりに振り回されて、見方は偏るばかりである。ココロの問題もしばしば「心の闇」という常套句で転がされるままだ。
ないものもあるかもしれないと想像する力こそ、神秘主義を支えているエネルギーであるなら、神秘主義的なアプローチは、宗教や哲学に限らず、政治にも教育にも医療にも必要だろう。もちろん、文化の成熟にも。
いつまでも神秘主義やオカルトを、あやしいものという単一の見方で、特別視していてはいけない。エディションの『心とトラウマ』も再読してみたくなった。
神秘主義の小枝とフォーマットを育てる時機が到来しているようだ。セレンディピティを味方にして、私たちはもっと自在にありたいものだ。それにはやっぱり松岡校長も必死で入院中にも継続しようとした読書に勝るものはなし。
不安に思うことがあれば、多読ジムへ。オカルトを多様に操る読筋が鍛えられることでしょう。読書処方箋を抱えてお待ちしております。
小倉加奈子
編集的先達:ブライアン・グリーン。病理医で、妻で、二児の母で、天然”じゅんちゃん”の娘、そしてイシス編集学校「析匠」。仕事も生活もイシスもすべて重ねて超加速する編集アスリート。『おしゃべり病理医』シリーズ本の執筆から経産省STEAMライブラリー教材「おしゃべり病理医のMEdit Lab」開発し、順天堂大学内に「MEdit Lab 順天堂大学STEAM教育研究会」http://meditlab.jpを発足。野望は、編集工学パンデミック。
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