「技」と「能」。どちらも「わざ」と読みます。
「わざ」の字義を白川字書を手引きに調べると、「ある特定の意味を含む行為をいう」とあります。他に「行」や「業」も「わざ」と読んで、それぞれ少しづつニュアンスの異なる「わざ」を表し、派生語には「わざをぎ」「わざはい」「ことわざ」などがあって、いずれも呪詛的な行為に出自があるそうです(『字訓』による)。
この「わざ」について、『風姿花伝』では全文を検索しても「能(または態)」とあるばかりで「技」「行」「業」の字は見当たりません。
「技能」「技芸」「芸能」などと綴ってみると「技」と「能」は互換性が高いようにも見えますが、世阿弥は「能(わざ)を知る心にて、公案を尽して見ば、花の種を知るべし」と書いています。花を知ろうとするなら、その種であるところの「能」を究めなくてはならないということです。
おそらく日本的な技能伝承のコアコンピタンスは、この「花は心、種は態(わざ)」とする考え方のなかに滲出していると見るべきなのでしょう。
「技」は、手偏が示唆する通りアーティフィシャルなイメージのシソーラスへ連っており、「技術」という語によって象徴される器械や軍事と親和性が高く、現代に至ってはサイエンスとの強固な蜜月関係を結んでテクノロジーのアイコンとして君臨しています。一方、「能」は水中の昆虫を象形したものが原型で、そもそもの字義としてはあまり良い意味を持たず謎めいていたようです(『字統』による)。
「技」と「能」の対比からは、顕るるものと隠るるもの、西洋と東洋、男性性(=種をつくる力)と女性性(=種を育む力)などのアクシスが想起され、虚実を巡るイメージメントが動き出すのを感じます。
◆あの2011年、岩野範昭花伝師範は編集学校へ入門したものの名状しがたいモヤモヤを抱え続けていた。その境を超えたのは、師範代登板に際して「舞姫密談教室」というワールドモデルが冠界された時だった。土方巽の踊る『病める舞姫』の残像が、岩野の深部をクリックしたのだ。◆「イメージメント」とは、モノゴトの原始ではなく原初へ向かうカマエのことである。伝承され、継承されるものがあるとすれば、それは「アーキタイプ(原型)」のなかにある。◆先ず「言語化される前のイメージ」があって、それは「らしさ」「っぽさ」として認識され、記号化されながら文字として表象され、やがて文脈となって束ねられると物語へ昇華していく。
(2023.5.13 @39[花]入伝式 問答条々)
いったい「虚に居て実を行ふべし」とは、いかなる編集モデルを提示しているのでしょう。方法日本について、ISIS花伝所は今更ながらに自己言及する試みに取り組んでいます。
編集学校は「編集」を学ぶ学校ですから、編集術や編集工学のことは皆が縦横に語り交わしてきたのですが、編集学校を運んでいる方法日本のユニークネスについて自覚的に言語化することは決して充分ではありませんでした。
もちろん、講座名の[守] [破] [離] [花伝所]や、「師範代」「師範」「番匠」「学匠」といったロール名が和語でネーミングされていることは誰もが承知しています。けれど、そうした設営がたんなる演出ではなく「方法」であることを強調して行かなくては、イシスが育んできた情報経済圏を時代や社会へ接地させることは出来ないでしょう。
39[花]の入伝式では、気鋭の3師範が意欲的に「日本という方法」を語り重ねました。
◆方法日本はリバーシブルである。梅澤光由錬成師範は、ウツとウツツの虚実皮膜を高速かつペダンティックな言葉の往還によって一気呵成に語り上げた。梅澤の講義は、いつも室温を3℃上昇させる。◆ウツ(空)とは、中心に何もない「鐸(さなき)」である。そのウツへ、あるとき神が訪れる(オトヅレ=音連れ)。すなわち、鈴の音は工学的に表象された外来神の来訪なのだ。来訪神はやがて帰去し、ウツ(空)とウツツ(現)は行きつ戻りつウツロヒ(移ろい)ゆく。◆「日本という方法」の真髄は、「実」の傍らに「虚」を併存させるところにある。仮名の文章を漢字の文章に対同させた編集感覚を、私たちはもっと誇るべきなのだ。
(2023.5.13 @39[花]入伝式 問答条々)
◆私たちはコミュニケーションによって意味の交換を行なっている。そこには「意味の市場」があって、居合わせた者が互いに必要な意味を抜き取りあっている。その交換プロセスは、たとえば「問・感・応・答・返」としてモデリングできる。意味の交換は、意味を生む編集構造(エディティング・モデル)ごと行われているのである。◆では、私たちは社会のなかで、どのような意味をどのような編集構造において交換し、関係しあって行けば良いのか?◆人と人とが相互に関係しあうための作法を学ぶ型として、吉村堅樹林頭が示したモデルは「守破離」だった。先ず型を真似び、次に捕らわれている型を破り、最後に離れて自他を同時に編集する。そうした交換サイクルを更新し続けることこそが、花へ至る道なのである。
(2023.5.13 @39[花]入伝式 問答条々)
「わざ」が花の種ならば、花には「わざ」の実がなって、「わざ」を継承しながら花を更新して行くことでしょう。まるで花と「わざ」とは虚と実の往還関係の如しです。
写真:後藤由加里
花伝式部抄(39花篇)
::序段:: 咲く花の装い
::第1段:: 方法日本の技と能
::第2段::「エディティング・モデル」考
::第3段:: AI師範代は編集的自由の夢を見るか
::第4段:: スコア、スコア、スコア
::第5段::「わからない」のグラデーション
::第6段:: ネガティブ・ケイパビリティのための編集工学的アプローチ
::第7段:: 美意識としての編集的世界観
::第8段:: 半開きの「わたし」
::第9段::「わたし」をめぐる冒険
深谷もと佳
編集的先達:五十嵐郁雄。自作物語で語り部ライブ、ブラonブラウスの魅せブラ・ブラ。レディー・モトカは破天荒な無頼派にみえて情に厚い。編集工学を体現する世界唯一の美容師。クリパルのヨギーニ。
一度だけ校長の髪をカットしたことがある。たしか、校長が喜寿を迎えた翌日の夕刻だった。 それより随分前に、「こんど僕の髪を切ってよ」と、まるで子どもがおねだりするときのような顔で声を掛けられたとき、私はその言葉を社交辞 […]
<<花伝式部抄::第21段 しかるに、あらゆる情報は凸性を帯びていると言えるでしょう。凸に目を凝らすことは、凸なるものが孕む凹に耳を済ますことに他ならず、凹の蠢きを感知することは凸を懐胎するこ […]
<<花伝式部抄::第20段 さて天道の「虚・実」といふは、大なる時は天地の未開と已開にして、小なる時は一念の未生と已生なり。 各務支考『十論為弁抄』より 現代に生きる私たちの感 […]
花伝式部抄::第20段:: たくさんのわたし・かたくななわたし・なめらかなわたし
<<花伝式部抄::第19段 世の中、タヨウセイ、タヨウセイと囃すけれど、たとえば某ファストファッションの多色展開には「売れなくていい色番」が敢えてラインナップされているのだそうです。定番を引き […]
<<花伝式部抄::第18段 実はこの数ヶ月というもの、仕事場の目の前でビルの解体工事が行われています。そこそこの振動や騒音や粉塵が避けようもなく届いてくるのですが、考えようによっては“特等席” […]