【ISIS co-mission INTERVIEW02】武邑光裕さん―ポストYouTube時代、深いものを発信せよ

2024/11/03(日)08:17
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イシス編集学校には、松岡正剛の編集的世界観に〈共命(コミッション)〉するアドバイザリーボード[ISIS co-mission]があります。そのISIS co-missionのひとりが、メディア美学者の武邑光裕氏です。ニューヨークやベルリンなど海外在住経験も豊富で、クラブカルチャーなどアンダーグラウンド・カルチャーにも造詣の深い武邑さんに、これまでの来歴やポストYouTube時代の展望を語っていただきました。


聞き手:吉村堅樹ほか

 

武邑光裕 ISIS co-mission、メディア美学者

1954年東京都生まれ。日本大学芸術学部文芸学科卒業、1978年同大学芸術研究所修了。メディア美学者。日本大学芸術学部、京都造形芸術大学、東京大学大学院、札幌市立大学で教授職を歴任。1980年代よりメディア論を講じ、インターネットやVRの黎明期、現代のソーシャルメディアからAIにいたるまで、デジタル社会環境を研究。2013年より武邑塾を主宰。2017年よりCenter for the Study of Digital Life(NYC)フェローに就任。『記憶のゆくたて―デジタル・アーカイヴの文化経済』(東京大学出版会)で、第19回電気通信普及財団テレコム社会科学賞を受賞。

 

 

■同時代を目撃した松岡正剛

 文化の臨界点・東京で育って

 

――武邑さんは、松岡正剛に出会ったのはいつ頃なんでしょうか。

 

高校、大学の頃、『遊』に出会いました。『遊』の1冊を見ただけで、超えられない存在だと感じたのを覚えています。松岡校長と僕は10歳離れています。10年長く生きているだけで、どうしてこんなに博覧強記なのかと驚きました。

世代的にいえば、僕の3〜5年年上の人たちは大学紛争を経験した人たち。当時は自分も若かったですし、その人たちとの差も感じていましたから、10歳離れた博覧強記の松岡正剛という存在はとても大きなものでした。

 

――その後、松岡校長との接点はおありでしたか?

 

いっときは、同じクライアントから仕事を受けるなど、距離が近くなりそうなこともあったのですが、まだまだ超えられない存在で。2001年に、とある映画のシンポジウムで松岡校長とご一緒して、それは印象に残っていますが。

その後、東京豪徳寺の本楼で松岡校長とお会いしてゆっくりお話ししたのは、2017年。知り合いの編集者の橋渡しのおかげでした。私はベルリンから一時帰国しているタイミング。そのとき、すごく盛り上がったんです。

 

――どんなお話をされたんですか。

 

生身の松岡校長とお話しするのは初めてだったんですが、お互いの記憶がすごく重なっていて。時代を一緒に見てきた感覚がおおいに深まりました。若い頃から「超えられない存在」でしたから、深くお話しすることはまずないと思っていたのに、ふとしたご縁でお話しができ、いろいろとクロスオーバーしながら同時代を生きてきた実感を得ましたね。

 

――編集工学研究所のAIDAなどに関わってくださるのも、松岡校長との“再会”の直後からでしたね。武邑さんは、文化的にかなりユニークな素養をおもちですが、どんな少年時代を送られたんですか?

 

東京の世田谷生まれなんです。等々力で生まれ、すぐさま谷中などへ移りました。小学生のときは、ひとりで映画館に行ってましたね。毎週。入場制限のない場末の映画館です。3本立ての映画館で、ずっと見ていました。

 

――その原体験はかなり影響が大きそうですね。

 

小学生とか中学生くらいに見た映画は、やっぱり今でも心に残っていますよ。グァルティエロ・ヤコペッティ監督の『世界残酷物語』を小学生のときにみて、あちらの世界に連れていかれちゃいましたね。中学生のときに『2001年宇宙の旅』を見ましたし。松岡校長とのちにご一緒したシンポジウムも、2001年に『2001年宇宙の旅』を考えるものでした。あとで、いろいろなものにつながってくるんですよね。

 

――小中学生から映画にどっぷりとは、文化的にかなり早熟ですよね。

 

それは、東京で生まれたことの功罪を感じます。文化を探ろうとするのは、たしかに東京だから出来たことなのだと思います。若い頃は、高校・大学のころに出会った松岡校長の『遊』や、松本俊夫の『季刊フィルム』に影響を受けたり、草月会館での前衛的なパフォーマンスを見たり。音楽も、世界のトレンドから現代音楽、プログレッシブまで取り揃えた新宿レコードというレコード屋があって、そこで最先端の音楽文化に触れられました。通っていたのも新宿の高校でしたから。僕ら世代は、体制と戦って痛い思いをした世代とは違い、アートや文化に切り口を求めたんですね。

 

いっぽうで、東京に生まれてしまうと、この東京にしか日本の最先端のものがないというもどかしさも感じました。東京は、先端的なものの臨界点。それを感じると、海外に出ていくほかがないんです。

 

■廃墟がフロンティアだった

 NYとベルリン、日本のクラブカルチャー

 

――東京の限界を感じて、海外へ行かれたんですね。

 

1978年にアメリカ・ニューヨークに行くと、どーんとカルチャーショックを受けました。80年代はほとんどNYにいて、アンダーグラウンドカルチャー、カウンターカルチャーをひととおり通過しました。その頃は、バーチャルリアリティとかサイバースペースとかインターネット前夜の熱狂がありましたね。80年代後半には、ドラッグ・カルチャーも。クラブドラッグがもたらした社会変革は、いまだにタブーで語られることはありませんが、人種などのさまざまなボーダーが融解し、のちのLGBTムーブメントにもつながる大きな社会変革でした。

 

――NYで目の当たりにしたクラブカルチャーを、日本に持ち込んだのも武邑さんでしたよね。

 

そうですね、NYのクラブに入り浸っているうちにいろいろなことがわかってきましたので、帰国してからは、1989年には東京芝浦に「GOLD」というクラブの創設に参加しました。その時期の日本はバブルで、まちの自営業者がワインの味を覚えるなど、文化的な熟成が起こるタイミングでした。ですから、ふだんの日本では受容できないものをアンダーグラウンド、カウンターカルチャーのなかで投げ入れていくことができたんです。インターネット前夜の出来事ですから、記録には残っていませんが、人々の記憶には生きているはず。体験した第一世代が、同じくISIS co-missionの宇川直宏さんだと思います。

 

――GOLDでは、どんなことをなさったんですか。

 

海外からたくさんのパフォーマーを呼んだりして、デジタル時代の文化潮流を考えるイベントをなどをしましたね。日本の芸能人からジョンレノンの息子ショーンなど、さまざまな人が来てくれました。

GOLDでの面白い思い出でいうと、クリスマスに雪を降らせたことでしょうか。雪といってももちろん紙吹雪です。ふつうは紙を適当に切るんですが、僕らは高性能のシュレッダーでめちゃめちゃ細かくしたんです(笑)。紙吹雪が入ったでっかい袋をクラブの天井にスタンバイさせ、12時ジャストに降らせる。もちろん、DJとは、12時ジャストに締める曲と、12時ジャストから始める曲の打ち合わせはしてあり、何が起こるかの予測もしています。けれど、実際に雪を降らせてみると、予測をはるかに上回るグルーヴがフロアに充満するんです。すごいことになるんです。それは僕らにとっても至福の空間でした。

 

――NYで学んだことを日本で実践してみたわけですね。でも、そのあとベルリンに行かれるのはどうしてですか?

 

僕がいた80年代のNYって、今じゃ考えられませんが廃墟でしたからね。でも、その廃墟からグラフィティなんていう文化が生まれてくる。

そして、ベルリンにも似た街を見つけてしまったんです。毎年ベルリンには通っていましたが、クロイツベルクという街に行ったら、80年代のNYにタイムスリップしたような錯覚を覚えて、これはここに住む以外はないなと移住を決めました。60歳の頃ですね。

 

――廃墟がフロンティアで、そこから新しい文化が生まれていく瞬間に立ち会っておられたんですね。

 

■大学減少時代、

 イシス編集学校が担うべき役割とは

 

――そういえば、武邑さんはクラブの立ち上げだけでなく、日本の大学の立ち上げも関わっておられたとか。

 

ISIS co-missionの津田一郎さんがおられる札幌市立大学は、僕も設立に関わりました。1年間は札幌市役所の公務員として働いていましたね。ベルリンに行く前です。その前には、京都芸術大学や東大に籍をおいていたんですが、たとえば東大では入試問題をつくるのに時間を取られて……。日本で一番むずかしい入試問題は、20人ほどの教員が半年くらいかけて作っているんです。そういう状況では、僕がやりたかった科学と芸術の融合は難しいと実感して、新しい大学をつくるほうに可能性を見出したんです。

 

――大学をつくってみて、いかがでしたか?

 

じつは、札幌で大学をつくったことはいまでもトラウマですね(笑)。文科省の仕組みの限界も感じました。

大学のことでいうと、最近、ワシントン・ポストを見ていて驚くべきニュースを目にしました。それは、アメリカでは1週間に1校、大学がなくなっているというものです。昨年2023年は、毎月1校のペースでしたが、2024年は、毎週1校ですよ。アメリカには、大学に行ったけれど学位をもらえずドロップアウトした人が4000万人います。この問題は、日本では報道されていませんが、間違いなく日本にも波及してくるでしょう。

 

――人口減少とともに、街が消えていくだけでなく、大学もなくなる未来がすぐそこに迫っていますね。

 

そうです。これまで大学が果たしてきた役割を何で代替していくのか、あるいは、代替する必要があるのか考える局面がきます。そのとき、イシス編集学校がやってきたことっていうのは大きな可能性になると思っています。

 

――たとえばどのように?

 

いまの問題は、ページビューが価値の指標になっているという構造とそれにともなう錯覚です。クリック数が価値だと錯覚しているから、みんなYouTuberになって視聴数を稼ごうとしています。でも、これから求められているのはもっと深堀りすることです。深堀りすることが大事なのは、みんなわかっているはずです。

 

――評判が評価になってしまうというのは、ネットのPV主義の弊害ですね。

 

さらにいえば、地上波のテレビとYouTubeを二項対立で見たとき、「YouTubeのほうが真実だ」と単純に思っている人が多いように思います。でも、話はそれほど単純ではないはずです。

マクルーハンも言っているように、新しいものが生まれるときにはかならず古い体質を引きづりながら変化を遂げていくものです。変化の途中を見て、それが新しい変革なんだと思ったら大きな間違いです。地上波のテレビもYouTubeもSNSも、同じくtele-vision(遠くを見るもの)ですから。

 

――どうやって変革を迎えたらいいのでしょう。

 

コロナ禍のベルリンで起きた最大の出来事は、クラブがぜんぶクローズしたことです。日々、若者たちがガス抜きしたり社交したりする社会的機能をもっていたクラブが全滅しました。しかし、本当のアンダーグラウンドには秘密のクラブが生き残ったんです。そのときに使ったのは、手書きのカード。SNSなどではありません。紙に手書きで住所を書いて、200人ほどに配った。その紙を受け取った人たちは、ひっそりと集まって、クラブのコアとなる部分を存続させたのです。

 

いま、YouTubeに対するカウンターカルチャーがあまり見えてこないのが気になります。重要なのは「ポストYouTube」です。そこへ至る転換をプロセスをどう乗り切るかを考えると、「誰も見なくてもいい」「誰も聞かなくてもいい」くらいの覚悟で、ほんとうに深いものを発信することが大事でしょう。

 


ISIS co-missionインタビュー連載

 

【ISIS co-mission INTERVIEW01】田中優子学長―イシス編集学校という「別世」で

 

【ISIS co-mission INTERVIEW02】武邑光裕さん―ポストYouTube時代、深いものを発信せよ

 

  • 梅澤奈央

    編集的先達:平松洋子。ライティングよし、コミュニケーションよし、そして勇み足気味の突破力よし。イシスでも一二を争う負けん気の強さとしつこさで、講座のプロセスをメディア化するという開校以来20年手つかずだった難行を果たす。校長松岡正剛に「イシス初のジャーナリスト」と評された。
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