べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その八

2025/02/28(金)23:59 img
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 名が広まることで、人は称えられ、道が拓ける。しかし、その光が強まるほど、影もまた濃くなる。期待はやがて重圧となり、善意で示された道であっても、いつしか逃れられぬ枷へと変わっていく。

 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。

 


第8回 逆襲の『金々先生』

 

 大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』第8回では、情報流通がもたらす「可視化と不可視化の逆説」が鮮明に描かれていました。蔦屋重三郎が手がけた『籬の花』は、確かに吉原の繁栄を支える媒体として成功を収めました。しかし、それは遊女たちの未来を照らす光となったのでしょうか。それとも、彼女たちを縛る新たな影を生み出すものだったのでしょうか。

 この矛盾は、現代のメディア環境にも通じる問題です。情報が広く行き渡ることで、個人の存在はより鮮明に浮かび上がる一方で、その「可視化」が逆に「本音の不可視化」を引き起こすことがあります。SNSの発展により、誰もが自由に発信できるようになった一方で、フォロワーの期待やアルゴリズムの影響に縛られ、本当の自分を表現することが難しくなる状況が生まれています。そればかりか、本音を語ることが「裏切り」と見なされ、時には社会的な排除や攻撃の対象となることさえあります。この構造は、江戸時代の出版文化と現代の情報プラットフォームに共通する課題を浮かび上がらせます。

 

 今回は、江戸時代と現代の情報流通を比較しながら、第8話における瀬川の涙を手がかりに、感情労働や超現実といった概念を交え、情報流通の本質とその影響について考察していきます。

 

『籬の花』と「超現実」——侵食される私的領域

 新たな吉原細見として登場した『籬の花』の成功は、遊女たちの「商品価値の可視化」を促進しました。しかし、それは同時に、彼女たちの「私的領域の不可視化」をもたらしました。細見に名前や逸話が掲載されることで、遊女は「商品」としての価値を公に認知され、より多くの客を引きつける存在となります。しかし、情報が流通すればするほど、彼女たちの個人的な感情や自由は、ビジネスを阻害するものとして徐々に削がれていくのです。

 この現象は、ジャン・ボードリヤールが提唱した「超現実(ハイパーリアリティ)」の概念と密接に関係しています。ボードリヤールは、「現実を超えてリアルに見える虚構」が人々の認識を支配すると指摘しました。遊女たちにとって、『籬の花』はまさに「超現実」を生み出すメディアとなっていたのです。

 たとえば、『籬の花』によって「名花」としての瀬川が「物語化」されると、客たちは実際の彼女ではなく、「細見に記された瀬川像」に期待を抱き、吉原を訪れるようになります。こうして彼女自身の人格は次第に「名花としての瀬川」という虚構に塗り替えられ、自己を表現する余地を失っていきます。これは、現代のアイドルやインフルエンサーが理想の自分を演じ続けなければならない状況と極めてよく似ています。

 さらに、この情報流通の影響は遊女個人にとどまらず、吉原というシステム全体に及びます。『籬の花』が話題を集めるほど、細見での評価そのものが生存戦略として不可欠なものになっていくのです。その結果、遊女たちは「可視化競争」に巻き込まれ、常に自分を演出し続けることを求められるようになります。これは、情報が可視化されるほどに個人が演じる役割を固定され、自由を失っていくという、現代のメディア社会とも共通する構造を示しているのではないでしょうか。

 

「感情労働」としての遊女、そしてシステム暴力への転化

 アーリー・ホックシールドは著書『管理される心——感情が商品になるとき』において、「感情労働(Emotional Labor)」という概念を提唱しました。これは、労働者が業務の一環として「本心とは異なる感情を表現することを求められる」ことを指します。たとえば、航空会社の客室乗務員がどれほど理不尽な客にも笑顔を崩さずに応対することや、コールセンターのオペレーターが怒りを抑えながら丁寧な対応をし続けることが、そのステレオタイプです。

 本作では、この感情労働の構造が瀬川の苦悩として描かれました。彼女は「吉原随一の名花」として、常に優雅で魅力的な花魁であり続けることを求められます。細見が成功し、名が広まるほどに、彼女自身の「瀬川」としての存在は虚構化し、「理想の花魁像」を演じることが義務となっていきます。本来の感情を抑え、期待されたロールを全うすることこそが、彼女にとっての感情労働だったのです。

 

 さらに、ここで注目すべきは、重三郎の宣伝は「善意」から始まったにもかかわらず、システムの暴力へと転化する可能性があるという点です。

 

 本作では、瀬川の名声が高まりすぎたことで、吉原の構造そのものが新たな負担を生む様子が描かれます。特に印象的なのが、強蔵(精力旺盛な客)を相手にする瀬川の苦しみを知った重三郎が、「もっと瀬川をいたわれ」と激昂する場面です。しかし、その言葉に対し、他の遊女がこう詰め寄ります。

 

「ならば、わっちならかまわぬと? 空蝉ならかまわぬと?

瀬川でないのなら良いと? 誰かが相手をせねばならぬのでありんす。」

 

 この言葉が示しているのは、瀬川の人気が高まることで、彼女だけでなく他の遊女たちにも新たな負担が生じるという構造です。細見によって遊女の商品価値が明確に可視化されたことで、遊女たちは「推される存在」として競争させられることになりました。瀬川が成功することで、彼女が休む時間を確保するための負担が、他の遊女へと転嫁されていくのです。彼女の成功は遊女全体の待遇向上にはつながらず、むしろ「誰かがその穴を埋め合わせなければならない」というシステムの圧力を生み出してしまいました。

 

 結果として、瀬川と重三郎は吉原のシステムの中で孤立していく危険を抱えます。瀬川の名声は上がる一方で、彼女を支える吉原の構造が疲弊し、やがて「瀬川だけが特別扱いされている」という不満が周囲に蓄積していくのです。この状況は、現代における「人気クリエイター」や「トップインフルエンサー」が抱える孤立の問題にも通じます。個人の成功がコミュニティ全体の不均衡を生み、それが軋轢や嫉妬を引き起こすという現象です。

 

 感情労働を強いられた瀬川は、商品価値を維持するために理想像を演じ続け、やがてそのロールに絡め取られてしまいました。そして、その成功ですら、システムの負担を別の遊女たちに押し付けることで成り立っていたのです。これは、吉原という閉ざされた世界の中で生まれた問題でありながら、現代の情報社会や労働環境においても繰り返される普遍的な構造なのではないでしょうか。

 

 

瀬川の涙——感情労働と自己疎外の極致

 重三郎が「お前のおかげだよ」と感謝を述べ、『女重宝記』という女性の教養書を贈る場面は、一見すると彼の誠実な気持ちが表れているように見えます。しかし、この言葉が瀬川にとって「救済」ではなく、「疎外」として受け取られることが重要です。重三郎は彼女が「名のある武家や商家に身請けされ、幸せになってほしい」と願っていますが、それは彼自身の価値観に基づいた「理想の未来」であり、瀬川の本心とは必ずしも一致していません。

 身請け後の生き方を学ぶ本である『女重宝記』は、結局のところ、「わっちは重三郎にとって救うべき女郎の一人に過ぎないのか」という絶望を突きつけるものでした。瀬川の涙は、このOne of themのもどかしさと孤独感からこぼれ落ちたのです。

 

 この状況は、アーリー・ホックシールドが『管理される心——感情が商品になるとき』で指摘した「感情労働の自己疎外」のステレオタイプといえます。感情労働とは、労働者が仕事の一環として「本心とは異なる感情を表現すること」を強いられる状況を指します。瀬川は、『籬の花』の成功によって「幸福な花魁」というロールを演じ続けなければならなくなり、本来の自分を徐々に喪失していきました。

 瀬川が涙を堪えながら「莫迦らしゅうありんす」と呟いたのは、単なる失望からではありません。吉原から抜け出すことは、単なる社会的な身分の変化ではなく、「名花としての商品価値」から解放され、「ひとりの女性」として見てもらうことを意味していました。瀬川が本当に求めていたのは、「救済」ではなく、「愛」でした。しかし、重三郎は彼女の本心に気づくことなく、その願いを「合理的な成功」と決めつけています。その結果、彼は無意識のうちに彼女をさらに孤立させ、疎外していたのです。

 

 感情労働を続ける中で、自分自身を見失いかけた瀬川は、最後の望みとして、重三郎に「本当の自分」を拾ってもらいたかったのです。しかし、この期に及んで鈍感重三郎は、その想いに気づくことはありませんでした(平賀源内からそれとなく指南されていたにもかかわらず)。

 

 だからこそ、瀬川は「莫迦らしゅうありんす」と涙を噛み締め、九郎助稲荷から「ばーか、ばか、ばか!豆腐の角に頭ぶつけて死んじまえ」と罵られることになったのです。

 

情報の「可視化」が生むパラドックス

 「情報の可視化」において悩ましいのは、その「情報流通の自由」が逆説的に「個人の自由」を奪いかねないことです。YouTubeが発信の自由を保証しながらも、その収益モデルを管理することで事実上の支配を確立しているように、重三郎の「善意」による可視化もまた、瀬川の「本当の自分として生きる自由」を奪い、彼女を虚構のロールへと縛り付けるものとなってしまいました。本来の自分ではなく、社会が求める「理想像」として生きることを強いられる――それこそが、情報流通の持つ力の影の側面なのです。

 このドラマが突きつける問いは、「情報の可視化は、本当に人を自由にするのか?」という点にあります。情報が広がることで、社会的な評価を得る機会は増えます。しかし、同時に、その評価に応えなければならないという新たな制約も生まれるのです。江戸時代の遊女たちも、現代のSNSユーザーも、情報流通の中で「自由」に見えて、実は「管理された自由」の中に生きているのではないでしょうか。

 

 情報の「可視化」が常に新たな「囲い込み」を生むパラドックス——それは、過去の吉原でも、現代のデジタル社会でも、私たちが向き合うべき本質的な問題なのです。


Info


多読アレゴリア2025春

【申込】https://shop.eel.co.jp/products/tadoku_allegoria_2025haru

【開講期間】2025年3月3日(月)〜2025年5月25日(日)

【定員】20名

【受講資格】どなたでも受講できます

【受講費】月額11,000円(税込)
 ※ クレジット払いのみ
 ※ 初月度分のみ購入時決済
 以後毎月26日に翌月受講料を自動課金
 例)2025春申し込みの場合
 購入時に2025年3月分を決済
 2025年3月26日に2025年4月分、以後継続

 ・2クラブ目以降は、半額でお申し込みいただけます。
 ・1クラブ申し込みされた方にはクーポンが発行されますので、そちらをご利用の上、2クラブ目以降をお申し込みください。

 


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