べらぼう絢華帳 ~江戸を編む蔦重の夢~ その四十三

2025/11/14(金)22:00 img
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 語られることを嫌う真実は、沈黙の奥で息をひそめている。名づけや語りで手繰ろうとする瞬間、真実は身を翻し、喉笛に喰らいつく。空白が広がるその先で、言葉に縛られない真実が気まぐれに咆哮するが、男たちはその獣をついに御することができない。
 大河ドラマを遊び尽くそう、歴史が生んだドラマから、さらに新しい物語を生み出そう。そんな心意気の多読アレゴリアのクラブ「大河ばっか!」を率いるナビゲーターの筆司(ひつじ、と読みます)の宮前鉄也と相部礼子がめぇめぇと今週のみどころをお届けします。


 

第四十三回「裏切りの恋歌」

 

語りでは捉えられない真実──言語化以前を描く歌麿

 

 第四十三回の冒頭、歌麿が花魁に向けて静かに投げかけた「間夫(まぶ)を想って歌を詠んでいるようにしてくれるかい」という言葉は、単なる美人画のポーズ指示にとどまりませんでした。それは、この回全体の価値原理を開示する“宣言文”として響いていました。歌麿が求めていたのは、花魁の肉体的な美しさでも輪郭線の端正さでもなく、女性が深く誰かを思うとき、言葉になる直前の沈黙の領域にだけ現れる――“微細な心の揺らぎ”にほかなりませんでした。

 

 その揺らぎは、恋慕とも嫉妬とも陶酔とも憧れともつかず、複数の情が重なり合った曖昧さを帯びています。しかし、ひとたび言語化されれば、「恋」「色事」「風流」といった既存のカテゴリーへ回収され、その曖昧さは失われてしまう。脚本はこの“語れば壊れる揺らぎ”こそが第四十三回の核心であることを、冒頭から明確に提示していたのです。歌麿が捉えようとしているのは、語りが形を与えるより前にふっと立ち上がる情――言葉に触れられていないからこそ、もっとも純度の高い形で顕れる心の揺らぎだったのです。

 

 この構造は、量子論の“観測問題”を思い起こさせます。量子の粒子が観測されるまでは波として多様な可能性を湛え、観測された瞬間にただ一つの値へと確定してしまうように、人の情もまた、名づけられる前には複数の感情が重なりあう広がりを持っています。しかし言葉という観測が行われた瞬間、その幅は収束し、ただ一つの「恋」や「嫉妬」といった確定した名目へと押し込められてしまう。歌麿が描こうとしているのは、まさに観測以前――まだ波として存在する“情の重ね合わせ”そのものなのです。

 

 ここから導かれる本回の価値原理は、「語られぬもののほうが、語られたものより真実に近い」という倫理であり、同時に「語った瞬間に情は制度(正名/狂言)の枠に押し込められ、その多くが失われる」という現実でもあります。正名は、血筋や格式といった秩序によって関係と出来事を“確定”する制度です。対して狂言は、もともと“秩序の外側へズラす”ことで世界の読み替えを可能にする表現でした。しかし、このズラしもまた、ひとたび名が与えられ、形式として反復されれば、制度化された枠組みとして定着していきます。つまり狂言は、制度の外側を装いながら反復の過程で“ズラしの制度”へと変質していくのです。

 

 正名も狂言も、心の揺らぎを揺らぎのまま保持できず、情を何らかの名へと押し固めてしまう点では同質です。この意味で、言葉とは心の揺らぎを“観測し、確定させてしまう装置”であり、名づけとは不確定な情がもつ幅と重層性を失わせる行為にほかなりません。

 

 だからこそ歌麿は、正名にも狂言にも回収される前の第三の領域――名づけられるよりも前の、不確定性を帯びた情そのもの――を紙の上に留めようとします。彼が捉えようとするのは、観測される前の波としての情であり、その不確定性にこそ美の核があると信じているのです。

 

 対照的に蔦重は、常に制度の言葉を通して歌麿を理解してきました。義弟として、絵師として、吉原再生の同志として、耕書堂を支える右腕として――蔦重は、制度が付与する確定したラベルを用いて歌麿との関係を“観測”し、理解したつもりになっていました。しかし、その網目からこぼれ落ちる余白、すなわち歌麿の蔦重に対する“名づけられぬ愛”が潜む場所だったのです。この愛は、名づけられないからこそ存在し、語られた瞬間に壊れてしまう。蔦重の観測体系(=語り=分類=制度)では決して触れ得ない領域でした。

 

 脚本家は、この構造を明らかにするために、正名と狂言という二項対立を超えた第三の領域を提示していました。正名は秩序の名により確定を行い、狂言は逸脱のズラしによって世界を読み替えますが、どちらも反復されれば制度としての確定へ向かう力学から逃れられません。そのどちらにも属さない観測前の揺らぎこそが、歌麿が追求する愛であり、第四十三回が提示する美学の中心に据えられているのです。

 

 そして、この第三の真実こそが、後に訪れる三つの断絶――歌麿との決別、ていの流産、定信の失脚――を読み解くための基盤となります。第四十三回の冒頭の一言は、語り手である蔦重に向かって「あなたの語り方では捉えられない真実がある」と告げる警鐘であり、蔦重が制度=言葉=分類=物語では決して触れられなかった領域に、強制的に向き合わされる回として緻密に構築されていたのです。

 

蔦重と歌麿の決別──取りこぼされた“名づけられぬ愛”

 

 歌麿が“名づけられぬ愛”を拠り所にしていたのに対し、蔦重は語り・編集・出版という“名づける制度”の只中で生きてきました。彼は正名の世界に真正面から敵対するのではなく、狂言の軽やかなズレを差し込みながら、秩序の隙間に新しい名づけの回路をつくってきた人物です。つまり、制度を壊すのではなく、制度の内部に新しい概念(名づけ)を編み足していくようにして、江戸の情報流通に別の動きを生み出してきたのが蔦重の方法論でした。

 

 しかし、この“名づけ”こそが、蔦重と歌麿の関係を決定的に蝕んでいきます。蔦重は歌麿を、義弟として、絵師として、同志として、耕書堂を支える右腕として理解し、その分類のうえに関係を築いてきました。けれども、これらのラベルは制度が与える確定した関係性であり、分類が行われるたびに、必ずその網目からこぼれ落ちてしまう愛や情が存在します。ラベリングとは、同時に“削り取る行為”でもあるからです。

 

 歌麿の内面には、複数の情が重ね合わさっていました。尊敬、嫉妬、渇望、愛慕、羨望、そして愛。それらは一つの名前では呼べない複雑な重層性をもち、まさに量子的な重ね合わせのように確定しないまま存在していました。しかし、蔦重がそれらの感情を観測し理解しようとした瞬間、それらは重層性を喪い、「義弟としての情」あるいは「同志としての情」へと再定義されてしまいます。

 

 歌麿にとって、これはあまりにも耐えがたい心理的暴力でした。自分が抱いた情の振幅が、蔦重の語りの制度に触れた途端に平板化され、別の名前に置き換えられ、正名や狂言として処理されてしまう。しかも、その制度的動作を蔦重自身が無自覚のまま続けていることこそ、歌麿にとって最も痛ましい点でした。自分の最も大切な情が、蔦重の“語りの本能”によってただ別の役割へと分類されていくのを、歌麿は言葉にできないまま受け止めざるをえなかったのです。

 

 だから、歌麿は恋心を語ることができませんでした。語った瞬間、その恋は狂言として笑いに変換されるか、色情として消費されるか、義弟の分をわきまえぬ発言として排除されるか――いずれにしても、制度の網に絡め取られてしまうからです。語れば壊れる。語れば回収される。だからこそ、歌麿は沈黙を選ばざるを得なかったのです。

 

 その沈黙の帰結として、歌麿は蔦重との関係に終止符を打ちます。「蔦重とは終わりにします」という冷ややかな宣言は、愛を伝えることが不可能だったゆえに選ばれた、最後の自己防衛でした。この決別は単なる断絶ではなく、蔦重に対して「あなたの語り方では決して触れられない情がある」という厳しい真実を突きつける行為でもありました。

 

 しかし、これだけ強烈な自己防衛が行われたにもかかわらず、蔦重は明確に歌麿の真意を理解できたわけではありません。歌麿の沈黙が守ろうとした感情の重さも、分類の網目からこぼれ続けていた愛の存在も、この時点の蔦重にはまだ読み取れていませんでした。彼は依然として、

語りの枠組みの内部で出来事を理解していると信じ、真実には一切触れることができていませんでした。歌麿の決別は、蔦重が作った枠組みが長いあいだ取りこぼしてきた“名づけられぬ愛”の、避けがたい帰結だったのです。

 

蔦重の受動への転落──“語りの制度”が通じぬ生死の際

 

 歌麿が沈黙というかたちで蔦重との関係を断ったことで、視聴者にはすでに“語りの制度の網目から必ずこぼれ落ちる情”が確かに存在するという事実が、前提として提示されていました。しかし蔦重本人には、その沈黙が守ろうとした感情の重さも、その奥深くに潜んでいた“名づけられぬ愛”の気配も、まったく届いていませんでした。彼のなかには依然として、語りと枠組みによって世界を整理し切れるという、揺るぎない――そして悪い意味で男性的な“世界を把握したい衝動”が根を張っていたからです。

 

 この“理解されない空白”に残酷な輪郭を与える出来事として、身重のていが、まだ踏み入れてはならない領域へと押し出されてしまいます。ていが腹を押さえて倒れた瞬間、物語は質感を変え、それまで蔦重が生きてきた「語りの領域」は一気に後景へ退き、生の現実だけが圧倒的な強度をもって前にせり出してきます。

 

 産婆がていの身体に触れ、短く判断を下す場面は象徴的です。

 

 「こりゃ、産んじまうしかないね」

 

 この言葉の背後には、江戸の医学の限界と、生物としての生命の物質的条件がむき出しのまま横たわっています。そしてていが必死に発する問い――「いま産まれたら、生きてはいけませんよね?何か、ございませんので、子を腹の内にとどめる手は!」

 

 この声には、母としての願望だけでなく、「語りによって未来を動かせる」と信じてきた夫・蔦重への申し訳なさ、縋るような思いも滲んでいます。しかしこの願いは、産婆の乾いた一言により、即座に断ち切られます。

 

 「……ないね」

 

 この短い否定は、蔦重の世界観を根底から揺るがす宣告です。蔦重がどれほど語り、未来を描き、人を動かしてきたとしても、この瞬間の生命の行方には一切関与できない。ここには「あなたたちの物語が入り込む余地はない」という冷然たる現実が、文字どおり命をもって示されています。

 

 つづく産婆の一言は、その構造をさらに露わにします。

 

 「男は出てっとくれ」

 

 これは血と苦痛と切迫の、他者に見せることを許されない場面――を男に見せまいとする配慮の言葉というだけではありません。

 

 語り、制度、名づけ、編集――それらを担ってきた“男の語り”を、生の中心から排除する宣告そのものです。

 

 蔦重は生涯、語りによって世界を動かし、文化をつくり、人の人生に意味を与えてきました。しかし、この場面ではそのすべてが不要とされます。必要なのは語りでも制度でもなく、ただ“女性の生身の肉体と生命の力”のみです。

 

 この瞬間、男である蔦重は、世界を編集する側ではなく、ただ結果を待つしかない受動的存在へと突き落とされます。脚本家がこのシーンに託したのは、「男が物語を語り、名を与え、制度を組み立てることで世界を動かしてきた」という長い歴史認識そのものへの批判でした。それは単に一人の男の無力を示すだけでなく、“男性の語り=制度”の特権性を根底から問い直す、きわめてラディカルな批評装置として機能しているのです。そして、その批評が大河ドラマという、そもそも制度の語りの総本山のようなジャンルの内部で成し遂げられている点にこそ、痛烈な逆説が宿ります。まさに、大河ドラマというカテゴリー付けによって失われた真実を、脚本家がここで逆照射してみせたかのようです。

 

 

 もちろん、大河ドラマはこれまでにも『いのち』『春日局』『おんな城主直虎』といった女性主人公の物語を数多く生み出してきました。しかし、これらの作品が描いてきたのは、あくまで男性が支えてきた制度の内部で、女性がどのように奮闘し、生き抜くかというドラマでした。物語の基盤となる制度的枠組みは、揺らぎながらも最終的には温存されていました。

 

 ところが『べらぼう』第四十三回は、そのさらに一段深い地点に踏み込みます。ここで問われているのは、女性が制度の中でどう生きるかではなく、そもそも制度とは誰の語りによって成り立ってきたのかという根源的な問いです。男性が語りを通して世界を定義し続けてきた構造そのものが、産婆の短い一言によって一瞬にして解体されます。

 

 「男の語りは、この場には入り込む余地がない」この宣告こそ、第四十三回の核心にある批評であり、同時に大河ドラマという巨大な物語制度の内部で発せられた、きわめて稀有な抵抗の声なのです。

 

 やがて赤子は、名を与えられる前に、制度に位置づけられる間もなく隠れていきます。これが“名づけられぬ死”です。前章の“名づけられぬ恋”と完全に対を成し、どちらも蔦重の語りの制度を突破する“制度外の実在”として、物語の根に横たわります。

 

 ここで決定的なのは、赤子の死は後からなら語り得るが、その瞬間には絶対に語りが介入できないという脚本の構造です。蔦重は後の人生で、この出来事を意味づけ、物語化し、転機として再解釈することができるでしょう。しかし、いまこの瞬間だけは、語りは完全に封じられ、言葉は役に立たず、いかなる制度もこの現実に触れることすら許されません。

 

 蔦重は過去にも数々の擬死を経験し、そのたび“語り”によって復活してきました。吉原の焼失、忘八衆による暴力、源内や瀬川との別れ、田沼政治の崩壊、定信による身上半減の弾圧——これらはすべて“語り得るもの”であり、物語化することで昇華できる危機でした。

 

 しかし今回は違います。ていの危機的状況だけは、“語りが一切介入できないもの”でした。蔦重にとって、過去のどの擬死よりも深く、制度の外側で起きた決定的な断絶だったのです。

 

 この断絶は、続けて描かれる松平定信の失脚——すなわち“男による語り”の死——を理解するための前提となり、蔦重の世界観を根底から揺るがす準備として巧妙に配置されていたのです。

 

蔦重と定信──“男による語り”の敗北

 

 田沼意次が失脚したあとの『べらぼう』は、田沼の文化政策のもとで育った蔦重と、寛政の改革を推し進めた松平定信という、思想的にはまったく逆の位置に立つ二人の男性が、実は極めてよく似た構造を抱える人物であることを、非常に精密に描いていました。両者は表向きには田沼的逸脱と定信的規律という対極の価値観を掲げていますが、その語りの運用においては驚くほど同じ罠を共有しているのです。

 

 蔦重は、田沼政治の「才ある者が身分や格式を越えて躍進できる」という世界観のなかで成熟しました。本や噺や芸といった、制度外の才覚こそが江戸を更新する力であると、身体を通して信じてきた人物です。彼にとって、公的秩序=正名は、しばしば世界を固くする抑圧であり、それを軽やかにズラし、笑いへと変換する狂言の力こそ、文化を再生させる源でした。

 

 これに対し、定信は倹約と規律を重んじ、幕府の権威・格式・序列という正名の世界を一点の揺らぎなく信じる人物です。田沼が広げた雑多で混沌とした文化空間を、彼は「乱れ」として拒み、制度を再び堅固に仕立て直すことで世を正そうとしました。思想的には、蔦重のズラしに対する徹底的な否定であったはずです。

 

 ところが脚本は、この両者を「男性の語りの構造」という深層でぴたりと重ねて描きます。蔦重は狂言=逸脱と物語の力で、定信は正名=法と布告の力で、いずれも“語りによって世界を導ける”と信じて疑わない男性観測者として描かれているのです。

 

 方法は違えど、二人はともに「制度化された語り(=男による語り)の万能性」を信仰していました。定信は条目と布告が正しさを制度として担保すると信じ、蔦重は反復して制度化した逸脱が江戸を更新すると信じている。この点で、二人は思想的には敵であっても、構造的には同型の人物であると言えます。

 

 さらに重要なのは、両者が互いを否定することでしか自らの立場を確証できないという、きわめて構造的な依存関係にあった点です。蔦重は定信という“正名の暴力”を批判することで自らの語りの自由を正当化し、定信は蔦重という“逸脱の象徴”を排除することで自らの制度の正統性を補強していた。二人は対立しているのではなく、むしろ互いを鏡像として必要とする関係にあったのです。

 

 だからこそ、第四十三回における定信の制度崩壊は、蔦重の語りの崩壊でもあります。正名の制度が破綻した瞬間、狂言の語りもまた拠って立つべき“敵”を失い、制度的な位置づけを喪失する。蔦重の転倒は、定信の失脚と同じ構造を共有しているのではなく、まさに“共倒れ”として準備された必然の結末だったのです。

 

 そしてドラマは、この二人がいかにして“同じ種類の敗北”へと導かれていくのか、そのプロセスを一対として描いていきます。定信は、言葉としては決して表面化しない“沈黙の政治力学”──家斉と治済の無言の合意、老中たちの水面下での結託、形式上の手続きでは捉えられない権力の流れ──を読み違えたことにより、語りの制度の限界に直面し、一挙に失脚へと追い込まれます。彼の語り(正名)は、沈黙の真実を前にして機能停止したのです。

 

 一方の蔦重は、歌麿が守り抜いた“語られぬ愛”を読み落とし、身重のていが陥った危機的状況から排除され、さらにそれを経験したにもかかわらず、吉原の女郎たちの沈黙の領域──語れば傷つき、語れぬままそれでも生きる情の層──を読み取れず、語りの制度(=男の制度)がもっとも大切な情をこぼし続けていた現実を、避けられない形で突きつけられていきます。

 

 こうして定信と蔦重は、思想的には真逆でありながら「語りの力を過信した観測者が、沈黙の真実によって破局へと至る」という、同じ構造の中に収められていきます。第四十三回は、この“同型性の暴露”を、派手な演出ではなく、沈黙・断絶・名づけの不在という繊細な語りの装置によって物語の底からじわりと立ち上げており、その構造批評性はシリーズ全体でも屈指の鋭さを放っていました。

 

『春琴抄』の構造と響き合う“語りの擬死”

 

 第四十三回における蔦重の崩壊と転倒は、谷崎潤一郎『春琴抄』の語りの構造と驚くほど深く共鳴しています。両作品に共通するのは、「沈黙しつづける女性の中心核」を前に、男性の語り手が記録・伝聞・分類・物語といった制度的装置を幾層にも積み重ねながらも、その核心にはついに触れ得ないという、語りの宿命的構図です。ここで響き合うのは単なる主題の類似ではありません。むしろ「語り=制度」が抱え込む限界そのもの、そしてその限界をいかに倫理として引き受けるかという問題が、両者を本質的に結びつけているのです。

 

 『春琴抄』では、盲目の琴士・春琴が沈黙の核として存在・機能しています。春琴は、自らの感情を語ることをほとんどしません。愛情も、憎悪も、屈辱も、支配の衝動すらも、言語ではなく、微細な身振りや沈黙の気配として周囲に滲み出るだけで、その核心は語りの制度に触れられることを徹底して拒んでいます。こうした沈黙ゆえに、春琴は制度化できない“中心”となり、キャラクターや読者を引き寄せ支配する強烈な重力場を形成しているのです。

 

 そして、この沈黙をどうにか埋めようとし続けるのが、奉公人であり弟子であり、やがて愛人へと位置づけを変えていく佐助です。佐助は、春琴の言葉にならない感情を”理解したつもり”で世話を焼き、奉仕し、自らの人生を春琴に捧げていきます。しかし、その観測はいかに丹念であっても春琴の核心には届かず、春琴は終始、沈黙の奥で不可視のまま揺れ続ける。物語が到達するクライマックスは、まさにこの“沈黙の不可侵性”が最も鋭く露わになる瞬間に置かれているのです。

 

 春琴を襲った報復者から硫酸を浴びせられた佐助は、視力を失いかけた状態で、最終的に自ら視力を捨てる決断をします。彼は、自らの目を潰すことによって、春琴と同じ盲目の世界へと身を投じるのです。この自己失明は、単なる献身や愛の誓いではありません。

 

 それは、語り手としての観測能力を自ら断ち切り、自分自身を“春琴という幻想の内部”へ閉じ込める行為でした。

 

 つまり佐助は、自らの観測(=語り)を停止し、春琴という“名づけられぬ沈黙”の側へと身を沈めることを選んだのです。さらに言えば、谷崎はこの物語を「匿名のナレーター」によって記録させています。

 

 この語り手は、文章として整える伝聞を集めて語り継ぐ資料を分類し整理するといった「制度的な語り」のすべてを動員しながら、なお春琴の核心には触れられず、沈黙を輪郭として描くことしかできません。つまり、『春琴抄』は三重構造でできているのです。

 

・語らない核:春琴

・観測を断念して沈黙へ殉じる観測者:佐助

・周縁にとどまる語り手:匿名のナレーター

 

この構造は、『べらぼう』でも驚くほど忠実に反復されています。

 

 春琴の沈黙に相当するのが、歌麿の“名づけられぬ恋”と、ていの“名づけられぬ死”です。言葉も物語化も拒む沈黙の中心としての存在です。佐助の“観測者としての揺らぎ”に重なるのが、ていの沈黙に触れて崩れ落ちる蔦重であり、政治の沈黙に踏み誤る定信です。そして、匿名の語り手にあたるのが、語りの制度を武器にしながらも核心には触れられない視聴者や現代の批評者、あるいは“べらぼう”という語りそのものです。

・語らない核:歌麿/てい/家斉・治済らの“沈黙の政治”

・沈黙に触れようとして崩壊する観測者:蔦重/定信

・周縁にとどまる語り手:視聴者/現代の批評者/“べらぼう”の語り

 

 歌麿が沈黙の奥に抱えていた情は、蔦重がどれほど語り・編集し・名づけようとしても捉えられませんでした。ていの身体が示した“語りの拒否”は、蔦重の語りの制度そのものを外側から破っていきます。

 

 ここで重要なのは、蔦重と定信が佐助とは異なる運命を辿る点です。佐助は“沈黙に殉じるために語りを捨てた”のに対し、蔦重は“語りへの過信ゆえに沈黙を読み違え続け、強制的に破局へ追い込まれる”のです。歌麿の恋を読み違え、ていの身体の沈黙を受け取れず、江戸の微細な揺れ(民の不安)や家斉・治済らの“沈黙”を読み取り損ね、そして定信の失脚によって制度そのものが崩れ落ちたとき、蔦重は初めて“語りは世界を救えない”という現実に直面します。

 

 つまり蔦重は、語りの制度を信じ続けたがゆえに沈黙に敗れた語り手なのです。しかしこの敗北は、蔦重本来の“ゆらぎ”を露出させる契機となります。語りの制度(=男の制度)が死んだとき、初めて人間の本質としての“名づけられぬ揺らぎ”が浮かび上がる。これは、佐助の自己失明が示した構造と同型の現象です。

 

 佐助が観測能力を捨てたときに春琴の沈黙の核へ触れることができるように、蔦重もまた、語りによる支配力を失ったとき、“他者の沈黙の核心”へと目を向けはじめるのかもしれません。第四十三回は、この瞬間に到達するための精密な下準備として構築されていました。語りの制度が崩れ、男性の語り(編集/名づけ/制度化)が死んだとき、初めて露わになる“名づけられぬ不確定な核心”。脚本はその構造を提示するために、歌麿・てい・定信の断絶を綿密に配置し、蔦重を“語りの擬死”へと追い詰めていったのです。

 

 無精ひげのまま、虚ろな瞳で座りこむラストシーンの蔦重は、この“語りの擬死”の象徴であると同時に、最苦の擬死を経て、いよいよ最後の脱皮をせんとする蛹、ようやく“揺らぐ者としての蔦重の核心”を露出する直前の、最後の姿であったのかもしれません。男性の語りを喪失したその空白から、蔦重がどのような変貌をとげるのか──ラストシーンで窺い知ることができたのは、その可能性の輪郭のみでした。

 


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