イシス編集学校未知奥連に関わるメンバーの、記憶の最深部にあるトポスの物語を尋ねる「未知奥トポスめぐり」。今回は未知奥声文会の常連メンバー花岡安佐枝師範代のトポスを訪ねる。花岡はずっと、未知の奥からの声に耳を澄ませてきた。
生まれたのは、祖父の代から続く諏訪の味噌醸造家。幼いころ、父がよく麹を発酵させるための室に連れて行ってくれた。麹が発酵するときには熱を帯びるため、室に入った瞬間、全身に熱気が押し寄せてくる。息も苦しくなるほどだ。見えない生命の存在をひしひしと感じた。
異界につながる鍵
三内丸山遺跡や大湯の環状列石など、北海道・北東北の縄文遺跡群が2021年7月に世界遺産に登録される見通しとなったが、東北で縄文文化が栄えたのが縄文後期。それに先駆けて、縄文土器の造形がもっとも装飾的で派手だった中期に、縄文文化の中心だったのが諏訪だ。国宝の土偶5点のうち2点もが諏訪から出土している。
花岡の母の実家からも、矢じりが出土した。父が遊びに連れて行ってくれた遺跡では、土器に残る煤や手の跡をじっと見つめた。
諏訪は、標高が高く乾燥しているせいか、光が日本的でなく物質的な感じがするという。子どものころは諏訪湖が全面結氷し、氷の伸び縮みでするコーンと澄んだ音に耳を澄ませた。
諏訪湖とぐるりと取り囲む山々、遠く望む八ヶ岳に人は聖地を見出し、古代から集落が築かれた。そして、柱を立てて天と地を繋ぎ人の世界を開こうとする原初の信仰が生まれた。お祭りの日には、ののさまが来るから、と聞いた。伝説のある木や塚が身近で、かつてここにいたものに繋がる鍵がいたるところに落ちていた。
感覚と身体のフィードバックループ
小学校低学年のころは月の半分も学校に行けず、父の書斎にあった百科事典を手に取って、鉱物や鳥類の挿絵を眺めたり、ヴィッシュゲームのように次から次へとページをめくった。なにか特別な行事の前に訳もなく嘔吐したり起き上がれなくなってしまう、自家中毒症だった。内臓を休めるために絶食し、ゆるくしたおもちなどの回復食を経て、床を上げる時には、まるで生まれてはじめて外に出るようだった。
自分の身体の重さを感じながら起き上がり、立ち上がろうと足首に力が入って、歩き出せばおなかの中でも筋肉が動く。身体の動きが細分化され、空気の揺らぎや地面の固さにアフォードされて、一瞬先の感覚を予期する。
音の響きや言葉や目に映る色それぞれの身体への作用も逐一感じた。この音はぐるっと回るよう、この言葉は首のうしろに停まった、この色は銀紙を噛んだような感じがする、というふうに。
ランボオの詩を読んだ時、「あ、仲間がいる」と思った。
勅使川原三郎のダンスをはじめて見た時も、「自分が踊っている」と思った。「自分の感じたことを形にしていいんだよ」と言われているようだった。そして大学3年生の時、勅使川原のワークショップに参加した。
「色と触覚のキューを出すから、そのかたちをとって」というワークがあった。同じ色や触覚でもその時々でかたちが違う人もいるだろう。でも花岡にとっては色と触覚とかたちは元から結びついていた。
色や触覚だけじゃない。音が下がった時のかたち。ランボーの言葉を頭の中に置いた時のかたち。風の匂いを感じた時に、なにかを見た時。それぞれがかたちを伴ってくる。
その場に捧げる踊り
そのワークショップから、コンテンポラリーダンスをはじめた。
花岡の踊りは、内面の現実だ。だから、そのリアリティがない動きはわかる。そこに漂う我の匂い。それに遮られて、その場の受信器になりきれていないのだ。
花岡にとってダンスは、見ている人に「この場は、わたしの身体を通すとこんなふうになるけど、あなたにとってはどうですか」と問いかけるものだ。自分を身体の外側にあるものに明け渡して。わたしを見るのではなく、今あなたを取り囲んでいるものを見て、と。
場の一部になっていなければ、きっとコミュニケーションの出発点にも立っていない。その場に応ずるということは、何色を着るか、何を食べるかの選択からはじまっている、と花岡は言う。
メディアや道具によって「モデルとしての世界」と「カミの気配」と「自分という存在」とをつなげる見方が古代に満ち満ちていた。これをアニミズムという。アニミズムは、アニマ(魂)によって世界と自分をつなぎとめ、その連想と連携と連動によって日々を生きていくことをいう。
(千夜千冊757夜 岩田慶治 『草木虫魚の人類学』)
諏訪大社の本宮のご神体は、現在守屋山と一般的に認識されている。しかし、明治時代の始まりまでは、諏訪明神の依り代とされた諏訪氏出身の大祝(おおほうり)と呼ばれる神職が、ご神体ないし現人神として崇敬されていた。
踊ることも、神と人間との仲立ちであり、トポスに宿るものの依り代と言える。
生きものたちからのレスポンス
本の中に見つけた仲間はほかにもいる。いろんな動物にスターリング・ノースが共感して書いた『はるかなるわがラスカル』。工作舎から出たローレン・アイズリーの自伝的なエッセイ『夜の国』。動物や化石や洞窟と交感することを近しく感じたのは、もちろん諏訪の地と無関係ではない。闇の中で手触りと息遣いから相手の存在を感じるように、本を読みながら原初の生きものに戻っていった。
体調が悪く寝ている時は、自分の布団の周りを透明なイルカや馬やふくろ鼠が囲んで座っているイメージを持っていた。
元気になって学校に行けるようになったら、行き帰りの道もイルカたちと一緒だった。行列になって、群れの中の一匹になって、歩いていった。
醸造業を営む家でペットを飼うことはできない。だからこそ憧れていた。
小学校4年生の時、カナリヤを飼えるようになった。ある日、鳥籠に手を入れたら、カナリヤがちょんと手に乗った。その日から手乗りになって、やがて、飛んで肩に停まるようになった。はじめて世界の方からレスポンスが返ってきて、回路が開けた気がした瞬間だった。
ちょうどこのころを境に、自家中毒症状は起きなくなっていった。
呼び覚ますためのトポス
踊れない者はダンサーに憧れる。言葉よりも確実なものを伝えられるような気がして。だが、言葉を書くダンサーは多いと花岡に聞いた。世阿弥も書いた。
言葉はダンスに必要なものだという。振りの核も言葉だ。そして、言葉だけで言い当てられないところをダンスで埋める。
花岡には、見たり聞いたりしたことを言い当てたい、名指したいという欲望がある。その核がなんであるか、そこに自分がアクセスしたい。そうすれば、あちらから応答の雫を降りこぼしてくれる。
舞台で踊る時には、まずその場所を歩いて読む。だんだんとダンスが立ち上がってくる。「ここに柱を立てよう…ここには井戸を掘ろう…ここは光が吹きあがってくるところ…あ、風が吹いてきた…」というふうに。
四角い舞台に対して、言葉を置いて、全体が動き出すようにデザインしていく。舞台という平面が立体になる。
そうしたら、ここに蠢くものにあいさつをする。さあ、誰を呼び入れようか。ネイティブアメリカンやアイヌの村に見るコスモス構造のようだ。
ブラドウォーディンは、記憶のためには、まずもって自分が使いやすい「場所」をいつでも取り出せるように思いついておくことを奨める。その場所は光がよくあたるオープンスペースがいいらしい。大きすぎても小さすぎてもいけないし、注意をそらす装飾があってはならず、教会や市場のような人が集まる場所もよくない。まったくの想像上の場所ではなく、自分でときどき訪れた場所がよく、いつでもそこへ行けるような場所ならもっといい。
おそらく「庭」や「中庭の歩廊」のようなスクウェアなところがいいのだろう。しかし、その場所にはわかりやすい時間的な変化があったほうがいい。
(千夜千冊1314夜 メアリー・カラザース 『記憶術と書物』)
花岡のトポス感覚は、身体と直結して、日常の中にある。自分の中に入った情報がどこに宿っているか、どこから呼び出してくるか、わかっている。
会社のスタッフに言われたことは、首の後ろあたりにある感じ。来週に出さなきゃいけない車の修理の予定は、なんだか腰のあたりにくっついている。記憶を探る場所は自分で決めたわけじゃない。
身体の部位だけじゃなく、匂いや味や動きを伴うこともある。たしかにトポスは視覚だけじゃない。視覚的な情報でしか場所をイメージできないことも、そこに埋めた記憶をつまらなくさせているかもしれない。
言葉で言い当てられないものには、視覚でもなく、触知感覚や身振りなどの前言語的な要素を鍵にしないとアクセスできない。
触知感覚を携えて未知奥を進む
その皮膚感覚を誤魔化すことはできなかったから、花岡は趣味で自分のための石鹸やクリームを作っていた。まだ黎明期だったインターネット上で、そのレシピやなぜ作るのかという考えを書いていたら、化粧品会社を立ち上げるので手伝ってほしいと声をかけられた。そして18年前からチェンマイに住み、素材や製法を大切に選んで、石けんやバームやパッケージのための手工芸品を作っている。
化粧品のブランドを立ち上げてから、素材の調査や製造のために、モロッコやネパールやトルコなどを巡ってきた。
その間に各地で目に見えて変わっていったのは、インターネットの普及状況だった。変化は辺境ほど早く起きた。流れていく時間が近くなっていって、世界がのっぺりとしていくような気がした。
自分も外国人である以上、外から影響を与えた側だと考えると、ここに仕事を持ってくることがよいことなのかと頭を悩ませた。毎年行くたびに、土の家がコンクリートに、木のテーブルがプラスティックになっていく。なにかよきものを犠牲にして、変化をもたらしてしまったのではないかと思った。
そんな時に思い出すのが、ヴァルター・シュピースだ。19世紀末、ドイツ人としてモスクワに生まれ、バリ島に渡り絵画やガムラン音楽を西洋に紹介し、バリ人とともに今観光客が見るケチャというダンスの形を整えた。
シュピースを思うと、伝統的なものと外から来た近代的なものが結びつけられそうだと思えた。礼節をもっていれば、外からやってきた者でももとからあるよいものを生かすことができるのだ!と。
今はチェンマイで地元の女性を雇用して一緒に、つくるもののかたちを見出していっている。つくりたいものやそこにあるうつくしいものの原型からその形を磨きあげて、あぶり出していくように。
花岡たちのつくるバームは、自分たちで育てたジャスミンで香りづけられている。ジャスミンはタイの人たちが日々神さまに捧げる花だ。タイ北部の山岳少数民族の高度な刺繍技術を継承して、ジャスミンをあしらったバッグもつくるようになった。
「ずっと見て大事にしているもの、身体とか記憶にあるものの連想が形になっていくところに立ち会えることが、とてもありがたい」と花岡は言う。
自らの身体を使って、またチェンマイの女性たちの指先を見つめて、トポスに埋め込まれたものを取り出す鍵を、空間を撫でるように探し続けている。
林 愛
編集的先達:山田詠美。日本語教師として香港に滞在経験もあるエディストライター。いまは主婦として、1歳の娘を編集工学的に観察することが日課になっている。千離衆、未知奥連所属。
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