<多読ジム>Season10・春の三冊筋のテーマは「男と女の三冊」。今季のCASTは中原洋子、小路千広、松井路代、若林信克、増岡麻子、細田陽子の面々だ。男と女といえば、やはり物語。ギリシア神話、シェイクスピア、メリメ、ドストエフスキー、ポール・ボウルズ、アレクシエーヴィチ、『とりかへばや物語』に漱石に有島に春樹に村田沙耶香までが語られる。さらに話は、戦争や民俗学や生物学やフェミニズムやブルシット・ジョブにも展開していく。
時代の変革期には、女は解放を求めて太陽を目指し、男は改革を恐れて月になる。「元始、女性は太陽であった」これは日本のフェミニストの先駈けの一人、平塚らいてうの言葉である。太陽でありたいという女の意志は、ときに男を惑わし彼を振り回す。これはそんな男と女の三冊である。
『マクベス』:逡巡する男を叱咤するブレない太陽
「あなたは、そんなことをやめようと思うより、ただそうすることを怖がっているばかり。早く帰っておいでなさい。ここへ、この私のところへ、あなたの耳に注いであげよう、私の胸のこの毒気を」
荒野での「やがて王になる」という魔女の予言はマクベスの秘めた野望を抉り出し、同時に限りない怖れを抱かせる。国王暗殺に躊躇する夫をマクベス夫人は決然として駆り立てる。
イギリスは女王の時代に繁栄する。シェイクスピアの生きたエリザベス1世の時代と、漱石がその繁栄に目を見張ったヴィクトリア女王の時代である。エリザベス1世の時代は王位継承をめぐって身内同士が殺し合う時代だった。エリザベスは冷酷な決断力で生き抜いてきた。
マクベス夫人は決断する女である。彼女は現実だけを信じる女である。彼女はマクベスが野望を秘めていることを知っている。それを実行できない彼の弱さも知っている。魔女の予言はマクベスの野望を露わにした。あとはマクベスを王暗殺に駆り立てるだけである。マクベスは夫人の言葉に自分の人生を委ねる。「どうともなれ。どんな嵐の日でも時はすぎる」。そこから悲劇が始まる。
『白痴』:無垢な男を惹きつける孤独な美しすぎる太陽
「これからこの人が、わたしのほうに来ず、わたしを選ばず、あなたを棄てもしないなら、どうぞこの人をもって帰りなさい、ゆずってあげるから、そんな人、わたしに用はないわ!」
ナスターシャは自分をとるかアグラーヤをとるか迫る。ムイシキンの一瞬の躊躇を見たアグラーヤは絶望して部屋から飛び出していく。
『白痴』の背景となるロシアは、農奴解放令により従来の農村共同体が崩壊し、外部から急速に資本主義経済が入り込んできた時代だった。人間関係が金銭を媒介に構築されるようになる。
ナスターシャは信じない女である。世界をひっくり返せるほどの美貌の持ち主であり、誇り高く、独立心が旺盛であったがゆえに、利害関係で動く社会に利用され、凌辱された女性である。彼女は何も信じない。富も、他人も、おそらく自分自身も。そんな彼女をそのまま受け入れようとしたのが無垢の人ムイシキンだった。彼女は彼の純粋さを知っているがゆえに彼から離れていく。彼女には死しか選択肢はなかった。ドストエフスキーは彼女の最後をハンス・ホルバインの『死せるキリスト』の絵に擬えて描いた。彼はエゴイズムや利己主義によって崩壊していくロシアの共同体社会に対して、「ロシアとは何か」「信仰とは何か」という問いを提起している。
『三四郎』:迷える男を誘い出す真摯で妖しい太陽
「私、なぜだかああしたかったんですもの。野々宮さんに失礼するつもりじゃないんですけれども」女は瞳を定めて、三四郎を見た。三四郎はその瞳のなかに言葉よりも深き訴えを認めた。
美禰子は野々宮に惹かれているが彼は振り向かない。彼女は野々宮の前でわざと三四郎にもたれかかる。三四郎は野々宮を愚弄していると美禰子を非難する。しかし、三四郎はそんな美禰子にだんだん惹かれていく。
『三四郎』は、日露戦争が終わり、日本が近代国家としての体裁を整えようしている時代を背景にしている。急速に変化しつつある社会の中で、国家や家族のためにという利他意識が薄れ、自己本位の自我意識が芽生えてくる。それは男も女も「自分は何者なのか」を問いかけ始めた時代だった。
美禰子は惑わす女である。同時に彼女は「無意識の偽善者」でもあった。田舎から上京したばかりの三四郎にとって、都会で自由気ままに生きる美禰子は、まぶしいほど輝いてみえる存在だった。それを感じ取っている美禰子の三四郎に対する仕草は、彼をますます美禰子に惹きつける。「結婚なさるそうですね」という三四郎の問いに美禰子は「我はわが愆(とが)を知る」と聞き取れないくらいな声で呟く。美禰子にとって愆とは何か。それは三四郎や野々宮に対する愆であり、無意識のうちに自分を欺いてしまった自分自身の愆でもあった。
平塚らいてうは漱石の門下生の一人である森田草平と心中未遂事件を起こす。美禰子はらいてうがモデルと言われている。男を振り回した女として非難された彼女は、その後、日本の女性解放運動をリードする存在になっていく。
Info
⊕アイキャッチ画像⊕
∈『マクベス』ウィリアム・シェイクスピア/光文社古典新訳文庫
∈『白痴』フョードル・ドストエフスキー/光文社古典新訳文庫
∈『三四郎』夏目漱石/青空文庫
∈「夢遊病に冒されたマクベス夫人」(wikipedia パブリック・ドメイン)
https://ja.wikipedia.org/wiki/マクベス_(シェイクスピア)#/media/ファイル:Johann_Heinrich_Füssli_030.jpg
⊕多読ジム Season10・春⊕
∈選本テーマ:男と女の三冊
∈スタジオ彡ふらここ(福澤美穂子冊師)
∈3冊の関係性(編集思考素):三位一体型
⊕著者プロフィール⊕
∈ウィリアム・シェイクスピア
シェイクスピアは1564年、イングランドのストラトフォード=アポン=エイヴォンに生まれた。1592年ころロンドンに進出し俳優兼劇作家として演劇活動を始める。1594年に宮内大臣一座の共同経営者となり。グローブ座の共同株主になった。1603年のジェームズ1世即位後は、劇団名を国王一座と改名。1613年に故郷ストラトフォードへ引退し。1616年52歳で没した。
彼の戯曲は全37本とされている。それらは悲劇・史劇・喜劇の3ジャンルに分類される。初期の作品は生硬な史劇と軽快な喜劇が多い。1595年以降の中期の作品は円熟味を増し、複眼的な作風になっていく。1599年以降の後期の作品は人間の実存的な葛藤を描いた四大悲劇や、人間心理の不可解さを描いた問題作といわれる喜劇がある。1610年以降の作品はロマンス劇と呼ばれ、超現実的な劇作法で20世紀以降に再評価されるようになった。
∈フョードル・ドストエフスキー
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは1821年モスクワで生まれる。父は医師、母は裕福な商人の娘である。1846年『貧しき人々』で作家デビュー。64年『地下室の手記』、66年『罪と罰』、67年『賭博者』を発表。その後、4年間の海外生活を送る。その間、68年『白痴』、72年『悪霊』を発表。帰国後、75年『未成年』、80年『カラマーゾフの兄弟』を発表。1881年に死去する。
彼の後期の大作群は、時代の先端的な社会的、思想的、政治的問題、さらには文化や科学の状況にまで鋭敏に反応しながら、同時に人間存在の根本問題を提起しえている点に特色が求められる。
∈夏目漱石
1867年に江戸の牛込馬場下(現在の東京都新宿区喜久井町)で生まれる。1890年に帝国大学英文科に入学。1893年に卒業し高等師範学校の英語教師になる。1900年文部省より英語教育法研究のため英国留学を命じられる。ロンドンで『文学論』の研究を行なったが神経衰弱に陥り1903年に急遽帰国する。帰国後、東京帝国大学の講師となる。1904年に高浜虚子から神経衰弱治療の一環で創作を勧められ、処女作になる『吾輩は猫である』を執筆し、1905年に『ホトトギス』に掲載される。その後『倫敦塔』『坊っちゃん』を発表し、人気作家としての地位を固めていく。
1907年に朝日新聞社に入社し職業作家としての道を歩み始め、『三四郎』『それから』『門』の前期三部作などを執筆する。1910年に修禅寺で療養中に吐血を起こし、生死の間を彷徨う危篤状態に陥る。その後、神経衰弱、胃潰瘍に悩まされながら、人間のエゴイズムを追求した『彼岸過迄』『行人』『こころ』の後期三部作を執筆。1915年に最後の作『明暗』を執筆中に49歳で死去する。
若林信克
編集的先達:アラン・チューリング。[離]を退院後、校長校話やイシスフェスタの文字起こしをする蔵出し隊のリーダー格を務め、多読ジム通いと愚直な鍛錬を続ける元エンジニア。ピアノの修練にも余念がなく空港ピアノデビューを狙っている。
<多読ジム>Season09・冬の三冊筋のテーマは「青の三冊」。今季のCASTは小倉加奈子、中原洋子、佐藤裕子、高宮光江、大沼友紀、小路千広、猪貝克浩、若林信克、米川青馬、山口イズミ、松井路代。冊匠・大音美弥子と代将・金 […]
14世紀北イタリアの僧院で禁書とされたある書物を巡って次々に殺人事件が発生する。ウンベルト・エーコのミステリー『薔薇の名前』である。その書物とはアリストテレスの「笑い」を論じた喜劇論『詩学 第二部』。その書物に触れたも […]