ちょっとしたお宝自慢をさせてください。
下の写真は、石ノ森章太郎先生の、仮面ライダーのイラスト入りサインです。デパートの特設会場のようなところでやっていたマンガ展で、石ノ森先生のサイン会があった時にもらいました。
サインをもらうのに必要な図録を買った上で、持ち込みの本にサインしてもらったのです。カバンから取り出した『仮面ライダー』の単行本を見た石ノ森先生は、
「おっ!仮面ライダーか。懐かしいなあ」
と言いながら、その場でサラサラッと描いてくれました。
コミュニケーション能力の著しく欠乏した私は、こみ上げる喜びを顔に出すこともできず、むっつりとした表情のまま、おざなりなお礼だけ言って、そそくさと立ち去りました。
今でもその時のことを思い返すと胸が疼きます。もう少し適切なリアクションはできなかったのか。
それにしても石ノ森章太郎といえば、原稿を描くスピードの速さが有名で、数々の伝説<1>を残しているのですが、はからずも、その技の一端を眼前に見る思いでした。
ビデオの早送りかと思うほどの超絶的なスピードで、ここ以外にないという正確なラインを見事に引いていき、最後にペン立てにあった赤ペンを素早く取って、チョンチョンとアクセントをつけて差し出してくれたのです。
いったい何が起こったのか頭がついていけないほどの出来事でした。
さて、今回は、その「仮面ライダー」・・・ではなく、それよりもう少し前、石ノ森章太郎の脂が最も乗りきっていた頃の「サイボーグ009」を模写してみようと思います。
石ノ森章太郎「サイボーグ009」模写
(出典:石ノ森章太郎『サイボーグ009』秋田書店)
1964年より連載の始まった『サイボーグ009』から、最初期の頃の絵を模写してみました。
のちの009と比べると、まだ、子どもっぽいタッチが強く感じられますが、とにかくカッコいいですよね。【風になびくブロンドの髪】、異様に長い【マフラー】、【マッシュルームのような足】につながる膝と足首のたるみジワ、大きすぎるボタン、肩の部分の独特のシワのより方など、なにからなにまでカッコいいです。
それまでの少年マンガも、それぞれの作家がカッコいいと思うヒーローを描いていたわけですが、石森章太郎は、飛び抜けたセンスをもって「カッコいいとはこういうことだ!」というのを示してみせたわけです。
このカッコよさは、子どもよりもうちょっと上のお兄さんのセンス、ちょっとオシャレに目覚め始めたティーンエイジャーのセンスなんですね。ちょっと青臭いような、世間知らずの生意気さ、思春期的な気恥ずかしさ、みたいな感覚まで含めて、石森章太郎は、まさに「青年」の作家だったと言えます。
それから爆発の煙もいいですよね。爆発シーンっていうのは、今では誰しも力を入れて描くところですが、こういった【カッコイイ爆発】を発明したのも石森章太郎でした。
コマ割りは意外と保守的です。石森といえば実験的なコマ割りを多用するイメージですが、のべつ幕なしにそうしていたわけではなく、ふだんはわりと4段×3コマのフレームを素直に使っていました。
■「石森」章太郎
石ノ森章太郎は、以前にも紹介したとおり松本零士と全く同じ1938年1月25日生まれ。
故郷の宮城県登米郡石森町からペンネームを拝借し「石森章太郎」を名乗りました。80年代の半ばにいきなり「石ノ森」に改名したときには驚きましたが、今では、わりとみんな慣れてしまったようですね。
実をいうと私は、まだ慣れてません!(なんて頑固なんだ)
当連載では、これまでにも石ノ森章太郎の名前は、何度か出ているのですが、表記が「石森」になったり「石ノ森」になったりしていました。編集部の方でも「統一が取れていないのではないか」とのご指摘があったのですが、基本的に改名前の事績については「石森」、改名後、あるいは時代を特定しない全体的な業績に関わる場合は「石ノ森」と使い分けています。今回もその方針で書いているので、記載箇所によってバラバラなのですが、ご了承ください。
さて、石ノ森章太郎のワークヒストリーは、「漫画少年」から始まります。当時、全国の少年たちを惹きつけていたこの雑誌の投稿欄で頭角を現した小野寺章太郎(のちの石森)の名は、早くから多くの人たちの注目を集めていました。そのインパクトがいかに大きかったかについては藤子不二雄A『まんが道』にも描かれているとおりです。
当時、高校二年生だった小野寺青年に電報を打ち、東京に呼び寄せたのは手塚治虫でした。逼迫した仕事に対処するため、臨時アシスタントを依頼したのです。そのときに描かれたのが『鉄腕アトム・電光人間の巻』でした。この作品のそこここに当時の石森の流麗なタッチの跡を見ることができます。
そして、その年の年末に石森は「漫画少年」連載の『二級天使』(1954)でデビュー。この作品で、後年、石森の特徴とされるコマの実験や前衛的な技法が早くも登場しています。映像のアナロジーでつなぐフェイドイン-アウトや、絵物語風の細密な描き込みのインサートなど、毎回手を変え品を変え、様々な趣向を披露してみせました。青年らしい客気に満ちた石森の頭の中に「やりすぎ」という言葉はなかったのです。
(石ノ森章太郎『二級天使』ふゅーじょんぷろだくと)
■ホンモノのイノベーター
しかしこの伝説の雑誌「漫画少年」も、石森デビューから間もなくして廃刊。その後の石森は、これまでご紹介した多くの作家たち同様、少女マンガ家として活動することになります。石森を「少女クラブ」に引き込んだのは、水野英子の回でも紹介した名編集者・丸山昭でした。
石森の行った表現技法上のさまざまな実験ということで、しばしば象徴的に語られるのが『ファンタジーワールド ジュン』ですが、実は本当に重要な仕事をしていたのは、それより少し前、昭和30年代の少女マンガです。この頃の少女マンガは、少年マンガより一段低く見られていたために、大手の雑誌でも編集部の縛りが比較的ゆるく、自由に描ける余地が大きかったのです。
それでも石森の斬新すぎる表現は、編集部からしばしばダメ出しされることが多く、その対抗策として、手の速い石森は、実はとっくに仕上がっている原稿をわざと隠して締め切りギリギリに渡す、という作戦を使ったといいます。リテイクを要求できる限界を超えているため、編集者もそのまま原稿をひったくって入稿せざるを得なかったとか。
この頃の石森はとにかく貪欲で、少女マンガでスリラーやミステリー、はては四次元SFやミュータントものなどまで手掛けていました。名作の誉れ高い「きりとばらとほしと」は時空をまたぐバンパイヤもので、のちの萩尾望都『ポーの一族』に大きな影響を与えています。
(石ノ森章太郎『龍神沼』朝日新聞出版)
少女マンガ集ということで、「龍神沼」「夜は千の目をもっている」
「きりとばらとほしと」「昨日はもうこない だが明日もまた」
「あかんべえ天使」といった名作全部乗せという贅沢な内容。
一度は読んでおきたい。
石森がデビューし、活躍し始めた昭和30年代は、マンガという表現ジャンルそのものが急成長を遂げていた時代でした。そして、それを最前線で推し進めていたのが、他ならぬ石森章太郎だったのです。
若き石森は、編集者とたびたび激突し、ときにボツを食らうこともものともせず、果敢に表現技法の拡張に挑み続けました。
モンタージュやカットバックなどの映画的技法を次々と導入し、コマ割りの実験も様々に試みています。同じ絵のコマを連続させたり、見開き二ページをタチキリの大画面で描いたりする手法は、石森の創始によるものと言われています。心象風景を表す技法の開発にも余念がなく、その結果、キャラクターの内面は、格段に深化していくことになりました。
■マンガ青少年の二つのバイブル
さて、石森章太郎のマンガ以外の大きな仕事の一つに『マンガ家入門』(1965年)があります。
これは、ある世代以降のマンガ志望者に、計り知れない影響を与えた記念碑的名著<2>なのですが、この本の一体どこが凄かったのかというと、普通の意味でのマンガの技法、たとえばつけペンに製図用黒インクで描きましょう、といったことの他に、マンガの演出や編集技法にまで踏み込んでいたことです。それまでのマンガ入門書にも、プロットが大事、起承転結を意識しましょう程度のことは書かれていたのですが、『マンガ家入門』の説明は、そんなレベルのものではありませんでした。
この本の白眉は、なんといっても自作の短篇「龍神沼」をまるまる掲載した上で、仔細に解説したページです。右ページに「龍神沼」、左ページに解説という構成になっていて、一コマ一コマ、ていねいに演出意図が説明されていました。この本はかなりのロングセラーだったはずで、少なくとも私が小学生だった70年代末には、まだ新刊で入手可能でした<3>。子どもの頃、これを読んだときの衝撃は忘れられません。なにげなく読んでいたマンガに、これほど膨大な仕掛けが施されていたとは!
(石ノ森章太郎『マンガ家入門』秋田書店)
さて、『マンガ家入門』で、自らの「方法」を、洗いざらい開示して見せた石森章太郎ですが、いわば、その実地における応用編ともいえるのが、1967年、月刊「COM」の創刊号より連載された『ファンタジーワールド ジュン』でした。
変則的なコマ割りで、はっきりしたストーリーのない叙情的イメージの乱舞のようなものが、ひたすら描かれるという、当時としては斬新極まりない作品で、これは、それまで石森が培ってきた前衛的な手法の、いわば総決算のようなものでした。『ジュン』が、のちの少女マンガに与えた影響は、計り知れないものがあります。
(石ノ森章太郎『ジュン』①ポット出版)
全五巻のうち第一巻が「COM」のオリジナル版。
とりあえずはこれだけでも読んでおこう
■『ジュン』騒動
とにかく何がなんでも新しいことをやるのだ、マンガ界に革命を起こすのだ、ということに、極めて自覚的かつ貪欲であった点で、手塚治虫と石森章太郎は、非常に似通った性質を持っています。
「キャラがめっちゃカブッてる」「その上、部分的には自分を上回っているところもあるっぽい」ということは手塚も意識していたでしょう。
才能ある新人に激しい嫉妬を燃やすことで知られる手塚治虫ですが、トキワ荘グループの中でも、とりわけその存在を意識していた相手が石森でした。発表当時大変話題になっていた『ジュン』を非難したのも手塚です。
いうまでもなく『ジュン』は、当の手塚が主催する「COM」の看板作品だったのですが、手塚はこの作品のことを快く思わず、とあるファンレターの返事に「あんなものはマンガではない」と、激しくこき下ろすようなことを書いたそうです。また、その手紙を受け取ったファンの人も、よせばいいのに石森先生にご注進に及び、ご丁寧にも「嘘でない証拠に」と手紙の原本まで同封したらしい。
さすがの石森も、これには相当ショックを受けたらしく、編集部に電話して「連載を降りたい」と申し出ました。その晩遅く、手塚はたった一人で石森の家に現れたといいます。悄然とした表情で平謝りする手塚に、石森も納得し、連載は継続されることになりました。この経緯は、のちに「風のように…」という作品の中で語られています。
■作家的ピーク
『ジュン』の連載は「COM」67年1月号に始まり69年2月号まで続きました。その間に「ガロ」では林静一、佐々木マキが登場し、つげ義春「ねじ式」(68年6月)が発表されています。マンガの前衛化が急速に進んでいた時代でした。
始まった頃には、あまりにも先端すぎて、ついてこられない読者も多かった『ジュン』の前衛性も、連載が終わる頃には、ちょっと古いものに感じられるほどになっていました。
石森の作家的ピークも、およそこのあたりまでではないかと思われます。
石森が最も得意とするSFマンガの方面では、平井和正との共作になる『幻魔大戦』(1967)、シリーズ最大の問題作である『サイボーグ009・天使編』(1969未完)、および自らの思弁的マンガの総決算とも言うべき『リュウの道』(1969~70)が発表されます。石森マンガの洗練はここに極まっており、70年代以降の特撮ヒーローものとは様相を著しく異にしています。
青年マンガにも進出し始めた石森は、1968年「ビッグコミック」創刊号より『佐武と市捕物控』の連載を開始。『ジュン』で開発した技法をエンタメ的に昇華した上で、最高度の表現に挑んだこの作品は、石ノ森章太郎の最高傑作として推す人も多いようです。
その後も『馬がゆく!』『さんだらぼっち』など「ビッグコミック」の連載は延々と続いていきますが、アバンギャルドな手法は徐々に手控え、抑えたタッチの作品が多くなっていきました。
(『幻魔大戦』①『サイボーグ009』⑩秋田書店、『リュウの道』①講談社、『佐武と市捕物控』①小学館)
『幻魔大戦』は石森オリジナルバージョンもあり、そちらもオススメ。
『009・天使編』はサンデーコミックス10巻に収録。
『リュウの道』は『原始少年リュウ』『番長惑星』と三部作をなす。
『佐武市』は少年サンデー版とビッグコミック版がある。
■突然の変貌
その一方で、「少年マンガ家」としての石森にも、大きな転換期が来ていました。ご存じ1971年「仮面ライダー」に始まる一連の特撮ヒーローものです。
このあたりからの石森は、それまでの攻めていくスタイルから大きく舵を切り、プロデューサー的立場から「割り切った」作品を描くようになっていきます。
しかし、世代によっては、このへんの作品群に愛着を感じる読者も多いようです。『仮面ライダー』にはじまり『変身忍者 嵐』『人造人間キカイダー』『ロボット刑事』『イナズマン』といった作品群は、劇画の影響を受けた密度のある背景(ほとんどアシスタントが描いてるでしょうが…)のもと、どれもこれもが陰鬱で暗いトーンに満ちており、ヒーローものらしい痛快さはありません。『嵐』や『キカイダー』のビターな結末が記憶にこびりついている読者も多いことでしょう。
(石ノ森章太郎『仮面ライダー』①朝日ソノラマ)
サイン貰ったのはこの単行本でした
■最終ラウンド
その後の石森章太郎の八面六臂の大活躍はご存じのとおり。
「ビッグコミック」などの青年ものもコンスタントに描き続け、1984年から始まる最長連載作『HOTEL』へ至ります。その他、『009』や『ジュン』の続編なども求められるまま各誌に描いていきました。『二級天使』の続編なんてのまであります。『009・天使編』の完結も諦めていたわけではなく、着々と準備を進め、膨大なアイディアノートを残していました。
そして「石ノ森」と改名した彼が、真っ先に放った大ヒットが1986年に刊行された『マンガ日本経済入門』です。
この作品の大ヒットは、はからずも学習マンガの手法をサラリーマン層向けにアレンジした「情報マンガ」というジャンルに道を開くことになり、政治経済から、自然科学、古典、伝記ものなど様々な「情報マンガ」の追随を呼びました<4>。
そんな石ノ森も、21世紀の世界を見ることもなく、98年1月28日、早すぎる死を遂げました。天才には加速装置でもついているのでしょうか。あまりにも生き急いだ人生の中で、膨大な作品群を私たちに残してくれたのです。
くしくも享年は、手塚治虫と同じ60歳でした。
ところで、ここまで書き綴ってきたように、「かつて大天才だった石森章太郎も、70年代に入る頃から才能が枯渇し、あとはプロデューサー的才覚で余生を終えた…」というのが、彼についての大方の見方でしょう<5>。ところが最近、ちょっと違った解釈をしている人がいることを知りました。
二ヶ月ばかり前に刊行された『日本短編漫画傑作集1』の中で山上たつひこは、こう書いています。
「石ノ森章太郎はあらゆるジャンルを手がけ、商業的成功もおさめたが、彼にとってそれは長い助走期間にすぎなかったように思う。石ノ森章太郎は晩年に真の才能が開花した。その意味で稀有な作家である。」
石ノ森章太郎の全業績をどのように位置づけるべきかについては、今なお決着のつかない問題として、私たちの前に残されているようです。
◆◇◆石ノ森章太郎のhoriスコア◆◇◆
【風になびくブロンドの髪】68hori
風になびく髪をカッコよく描く技は、石森章太郎と白土三平により開発されました。
【マフラー】66hori
マフラーのカッコよさっていうのもあったんですよね。今では水木一郎のコスプレなどでギャグになっていますが。
【マッシュルームのような足】87hori
吾妻ひでお亡き今、デカ足派の水脈は島本和彦で途絶えようとしています。
【爆発の雲】95hori
とくに白黒ツートンの爆発雲が、すごくカッコよくて好きだったんですが、時代が下るにつれ、斜線を多用するようになり、あのカッコイイ描き方は、あまり使われなくなりました。
<1>原稿の速さ
以下はチーフアシスタントだった永井豪先生の証言
「あるとき、石ノ森先生のあるギャグ作品の原稿が締め切りを遅れに遅れ、担当編集者が真っ青な顔で駆けつけてきた。「先生、もう半日しかありません。今日原稿を印刷所に入れなかったら、本当にアウトです!」。すると石ノ森先生はこう言った。「あ、半日ね、大丈夫大丈夫」。それからネームを始め、先生がペンを入れて手放すまで30分。そのあと僕らが背景に2時間ほどかかったが、担当編集者が待っている間に、ゼロの状態から16ページの原稿ができあがってしまったのだ。これには担当編集者も、狐につままれたような顔をしていた。」(永井豪『豪』より)
<2>『マンガ家入門』
竹宮惠子がこの本を読んでマンガ家になることを決心した話は、前にも触れましたが、24年組や、それ以降の世代の多くのマンガ家が、この本を読んでいて、その衝撃の大きさを口々に述べています。石森章太郎の最高傑作は『マンガ家入門』だ、という説もよく耳にします。
<3>70年代まで入手可能
私がこれを手にしたのは小学生の頃でしたが、本屋で見かけた『続・マンガ家入門』の方を先に買い、後から正編の方を注文した記憶があります。ものすごく気の小さい子どもだった私は、本屋に行って、紙を見せて「これを取り寄せてください」と、ひとこと言うだけのことが、なかなかできず、レジの前を2~30分くらい行ったり来たりした覚えが…。
そうやって苦労して手に入れた『マンガ家入門』でしたが、実は子どもの頃に受けたインパクトの強さでは続編の方が大きいものでした。この続編は、一般読者から石森先生宛てに寄せられたファンレターを(たぶん無断で)掲載した上で、それに対して石森先生が答えるという構成になっていました。今では考えられないことですが、読者の住所氏名などもバッチリ掲載されています。これには理由があり、「同じ目的の人同士が、大いに語り合うことも、あすのためには必要なことです」「さあ、どなたでも好きな人を選んで――おたより交換といきましょう」と書かれています。私より少し年上のティーンの方たちの真摯で熱い手紙の数々は、その文体も含めて、子ども心に強い印象を残しました。それに答える石森先生も負けず劣らず熱かった。
のちに正続合本され再版されたときに、ファンレターの方は短く要約されてしまい(もちろん住所氏名などはカット)、もとの味わいがなくなってしまったのは残念です。
<4>『マンガ日本経済入門』
しかし、ちょっとでもマンガを読み慣れている人なら、すぐに気がつくことですが、この作品、どう見ても石ノ森章太郎の絵ではありません。あからさまにアシスタントの絵です。大ヒットを受けて制作された『同・パート2』から『4』までが石ノ森の絵になっているので、よけいおかしさが際立ちます。
のちのインタビューで石ノ森は、この作品の大成功について「これからの時代は、大人こそがマンガの主要な読者になることを見据えて、こういったものにもチャレンジしてみた」などといった発言をしていますが、ほんとのところは、注文仕事の一つとして、たいした注意も払わずスタッフに丸投げしていたのでしょう。
しかしどんな形であれ新しいムーブメントを創り出したという意味で、石ノ森章太郎という作家のもつある資質が、良い方向に作用した例として銘記しておく必要があります。実際、こういうことは他の誰もできなかったのです。
<5>大方の見方
山田夏樹『石ノ森章太郎論』(青弓社)は、まさに、このようなステレオタイプな言説に異を唱えた本でした。冒頭の「はじめに」で、「石ノ森=70年代以降凋落」説を唱える文章をいくつか引用した上で、「またその際、いくつかの例に見られたように、かたくなに「石森章太郎」と呼び続けることも特徴の一つである」としています。このように言われると、当記事など、まさに山田氏の糾弾する旧弊な物言いの一変種に過ぎないかもしれません。
アイキャッチ画像:石ノ森章太郎『サイボーグ009』①秋田書店
堀江純一
編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。
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