日本で最も知名度の高いマンガは『サザエさん』でしょう。
八十代半ばを迎えるうちの父も、ドラえもんは知らないかもしれないけど(名前ぐらいは知ってるかな)サザエさんは知っているはずです。日本で過ごしてきた日本人で、サザエさんを知らないことなど、想像しにくいですね。
しかし、これが日本国外となると、ほとんど知られていません。リオ五輪閉会式のフラッグハンドオーバーでも、キャプテン翼やドラえもん、スーパーマリオ、キティちゃんなどは、クールジャパンの象徴として誇らかに登場しましたが、サザエさんは出てきませんでした。
ことほど左様に『サザエさん』は、世界に誇られることもなく、日本人だけが、こよなく愛するドメスティックな文化財となっているのです。
しかし、こういうものこそが、真の意味での国民文化なのではないでしょうか。
今回は、その『サザエさん』の記念すべき連載第一回を模写してみました。
長谷川町子「サザエさん」模写
(出典:長谷川町子『サザエさん』①姉妹社)
『サザエさん』は、終戦直後の昭和21年4月から連載が始まっています。
三コマ目で初登場するサザエさん。意外とスマートでオシャレですね。白いブラウスに黒のフレアスカート、そして揃いのボレロを着ています。連載初期のサザエさんは、ずっとこのコスチュームでした。
一応、「オイモを食べてるみっともない恰好」といったところですが、少しポーズをとっているところがかわいいですね。四コマ目の走り去るところも、なんだかバレエのステップのようなオーバーアクションです。
当時のサザエさんは、配給や闇市でも忙しそうですが、洋画雑誌をコレクションし、友人のイカコさんと部屋でショパンを聴いたりと、なかなかのお嬢さんでした。
サザエさんの不思議な髪型は、よく笑いのネタにされますが、これは当時流行の【パーマネント】を漫画風にデフォルメしたもので、いわば最先端のファッションでした。実は「サザエさん」は、オシャレに決めたアプレゲールなお姉さんの、意外に庶民的な暮らしぶりを紹介するマンガだったのです。このマンガが、戦後の開放的女性像を、自然なスタイルで提示して見せた意義は大きいでしょう。
一方、ワカメちゃんは、のちの頃とは違い、かなり子どもです。四、五歳か、あるいはもっと下の感じかな。二コマ目の、指をくわえながらお母ちゃんにもたれかかるポーズもいいですね。
カツオくんのイガグリ頭は、この頃はベタ塗りです。そしてフネさんは、現代人の感覚からは、だいぶ老けて見えますが、意外と若いのではないかと思います。ワカメちゃんもちっちゃいですからね。
さて、波平がいませんね。サザエさんは、まだ結婚する前なのでマスオさんやタラちゃんがいないのはわかりますが、波平さんがいないのはなぜでしょう。
実は、この時代の壮年男子は、戦死しているとか、まだ引き揚げていないとかで、不在である場合が多かったのです。連載開始時点では、まだ父親を出すかどうかは決めかねていたようです。
それにしても、総じて今回は模写の難易度が高かったです。
これまでにも何度か経験したことですが、意外と簡略化されたタッチの方が難しいんですね。
サザエさんのキャラは、首から上はマンガ的ですが、首から下は写実的です。【略画的】といった方がいいでしょうか。マンガ的デフォルメが少ないんですね。
初期の頃のサザエさんのタッチは、こういった戦前マンガによく見られた墨絵風のやわらかいものだったのですが、それが徐々に、戦後の大人マンガに特徴的な、【針金のような硬質なタッチ】に変質していきました。
■この世界の片隅に生きた町子
さて、1920年生まれの長谷川町子は、LEGEND50の中では、杉浦茂につぐ二番目の年長者。水木しげるの二歳年上です。
この世代は「赤紙」世代。莫大な数の戦死者を出した中核の世代にあたります。町子さんも女性でなかったら赤紙が来て、戦場で地獄の体験をしていたかもしれません。
もちろん内地にいても安全でいられるわけもなく、空襲でたくさんの死体を目撃しています。決戦下の緊迫した空気の中を、町子は生きてきたのです。
戦時中のある日、町子は、海の見える丘でスケッチしていました。すると、後ろから突然、憲兵が現れ、襟首をつかんで彼女を連行していったといいます。彼女のスケッチしていた海の向こうには軍の施設があったため、スパイの嫌疑をかけられたのでした。
おや?このエピソード、どこかで聞いたことがありませんか。
そうです。こうの史代『この世界の片隅に』に出てくる、あのエピソードの元ネタは長谷川町子だったのです。
町子は『この世界の片隅に』のすずさんよりは少し年上だと思いますが、おおむね同じ時代を生きていたことになります。買い出し中に米軍機の機銃掃射を受けたり、空襲の焼夷弾によって家が焼かれるなど、一通りの体験は彼女もしているのです。
(こうの史代『この世界の片隅に』双葉社)
映画版は「君の名は。」と同年に公開され、
史上最長のロングランヒットとなった。
長谷川家は母親と三人姉妹の家族でした。父親は町子が13歳のときに亡くなっています。その後は母、貞子の腕一つで家族を養っていくことになるのですが、このお母さん、なかなかの孟母でした。三姉妹は、この母のもとで、それぞれの才能を伸ばしていくことになります。
といってもステージママのようにビシバシ鍛えるなんてことはしません。自由放任でもない。しかるべき時にしかるべき助言を与え、しっかり道筋をつけてやるのです。
そして、この時代の親には極めて珍しいことに、娘たちが適齢期になっても「そろそろ嫁に行ってはどうか」ということは、いっさい口にしませんでした。
特に長女毬子と次女町子は、幼少の頃より無類のお絵描き好きだったので、この二人を絵の道に進ませてやりたいと貞子は考えていたようです。
■人気作家の押し掛け弟子に
ある時、町子は自宅で寝転んでアメ玉をなめながら、「田河水泡の弟子になりたいな~」と、なにげなく、つぶやいたそうです。有名人のサインが欲しいぐらいの軽い気持ちで言ったそうですが、その言葉を聞き逃す貞子ではありませんでした。
それならそうしなさいということで、町子に描き貯めたスケッチブックを持たせ、姉、毬子のつきそいで、田河邸を訪問させます。ツテも紹介もない、いきなりのアポなし訪問でした。
当時、『のらくろ』で飛ぶ鳥を落とす勢いだった田河水泡のもとには全国から弟子志願者が押し寄せていたといいます。
当然、町子たちは玄関先で書生さんに追い返されてしまいます。
しかし、そこで簡単に引き下がる彼女たちではありません。母からも言い含められていたのでしょう。「先生にお会いするために、わざわざ九州から上京してきたのです」との切り口上で、何度も押し問答をした末に、ようやく家に通してもらえることになりました。
応対に出た田河水泡は、最初はめんどくさそうにしていましたが、町子のスケッチを見て気が変わります。子ども離れした絵のうまさもさることながら、対象の切り取り方や、そこに添えられた言葉のセンスに非凡な才能を見て取ったのです。
「わかりました。弟子に取りましょう」
いきなりの即決でした。弟子入り志願者に対しては、片っ端から門前払いを食わせていた田河でしたが、決めるときは早いものでした。
こうして14歳の長谷川町子は田川水泡の弟子となったのです。兄弟子には、あの杉浦茂(LEGEND31)や、倉金章介(のちに「あんみつ姫」が大ヒット)がいました。
その後、町子は田河の口利きで15歳にしてデビューとなります。「少女俱楽部」に掲載された二ページマンガ「狸の面」が、そのデビュー作でした。
■「天才少女」現る
今でもよくある“天才子役”だの“ちびっこプレーヤー”だの、大人顔負けなことをする子どもを愛でる風は、実は昔からあって、戦前にも“綴方教室”豊田正子さんのような大スターがいました。
長谷川町子がデビューした時も「天才少女」という触れ込みで、ヴァイオリニストの諏訪根自子、女優の高峰秀子と並んでグラビアを飾ったりしたそうです。
しかし「十で神童、十五で才子、二十すぎればただの人」と言うように、「天才少女」がいつまでも「天才」でいられる保証はありません。
ところが、長谷川町子は、ホントの「天才」だったのです。そのことは、その後の生涯を通じて証明されていくことになります。
田河水泡の住み込み弟子をしながら順調なスタートを切った長谷川町子は、次々と飛び込んでくる依頼仕事をなんなくこなしていきました。「少女俱楽部」に連載された『仲よし手帖』のようなヒット作も出ています。
(長谷川町子『長谷川町子の漫畫大會』小学館)
戦前の貴重な作品群をまとめて読むことができる
しかし戦局の悪化により、町子は、徐々に仕事を失っていくことになります。町子だけではありません。師匠の田河も、あれほどの人気作だった『のらくろ』が、時局にそぐわないという理由で打ち切りの憂き目に遭っていました。
こうしたこともあって、父親の死を機に東京に出ていた長谷川一家は、再び郷里の福岡に引き上げることになります。
マンガ家業から、すっぱり足を洗った町子は、終戦を迎えた後も、しばらくのあいだ、家庭菜園で汗を流しながら、なんとか食いつないでいたそうです。新創刊された地元の新聞社から原稿依頼を受けた時も、畑仕事の合間にやる、ついでのアルバイトぐらいの軽い気持ちで引き受けたのだとか。
こうした生まれたのが『サザエさん』でした。
この作品がたちまち評判を呼び、東京からの強引な引き抜き工作により、舞台を朝日新聞に移して全国区の人気となるのです。
■史上最強の女性一家
このとき、『サザエさん』を自分たち家族で自費出版しようと発案したのも母、貞子でした。出版事業のノウハウも知らないズブの素人が手を出して上手くいくはずもないと三姉妹たちは全員反対したのですが、物怖じしない貞子は、どんどん話を進めていき、印刷会社や製本屋などとの人脈も、いつの間にか作りあげてしまいます。
こうして生まれたのが「姉妹社」でした。
挿絵画家として活躍していた姉、毬子は仕事をすっぱり辞め、姉妹社の社長として会社経営に専念していくことになります。文筆の道に進みかけていた妹、洋子も経理担当として会社を支えました。すべての司令塔となったのは母、貞子です。
こうして、次女町子の執筆活動を家族全員でサポートする体制が整えられたのです。
以後、『サザエさん』をはじめとする長谷川作品はすべて、家族経営のこの出版社から発売されることになりました。
マンガの単行本が商売になるなど、まだ誰も考えていなかった時代に、この大事業に乗り出した貞子の先見の明には目を見張るものがあります。姉妹社の大成功により、長谷川町子は(おそらく)日本で最も稼いだマンガ家<1>となりました。
模写に使った姉妹社版『サザエさん』第一巻。
たしか古本屋で300円ぐらいで買ったものです(意外と安いですね)。
■ひたすら描き続ける
朝日新聞での「サザエさん」連載年数は25年。夕刊フクニチ時代から数えると28年の長きに及びます。
掲載期間だけでいえば、実は今、朝日新聞で連載している、いしいひさいち『ののちゃん』の方が長いのですが、感覚的には『サザエさん』の方が、はるかに長い印象がありますね。昭和21年から昭和49年の間という、めまぐるしい変化の時期であったからでしょう。
七輪や木のおひつ、板塀の路地に囲まれた初期のサザエさんと、様々な家電製品に囲まれた後期のサザエさんとでは、まるで別作品のようです。図らずして『サザエさん』は、戦後日本の生活史を記録する一級資料となりました。
さらに『サザエさん』のスゴイところは、連載期間の長さだけではなく、そのクオリティの高さです。まったく一本一本が粒だっています。
新聞四コマって、ご存じのとおり、どんな才人でも、連載が長期化するにつれ、ネタ切れになり、だんだんグダグダになっていきます。
「これって、全然オチてないじゃん」みたいなヒサンな四コママンガを、新聞紙上で見かけた人も少なくないのではないでしょうか。
『サザエさん』にそれはありませんでした。長谷川町子は必ず一定の水準をクリアした作品だけを納品しつづけたのです。そしてネタ切れどころか、作品のキレには、ますます磨きがかかり、とくに連載終盤期、朝日文庫版最後の10巻ほどは傑作の宝庫です。
長谷川町子は、必ず数本のラフ案を作っては、妹の洋子の判断を仰いでいたといいます。洋子が、どの作品も面白いので決めかねていても、とにかく一本だけ選ばせ、残りはためらいなく廃棄していました。
その話を洋子から聞かされた朝日新聞の記者は、
「ちょっと待ってください。それはもったいないじゃないですか。その捨ててしまったボツ案というのも取っておいて、あとで『屑籠サザエさん』として出版しましょう」
と提案したといいます。
町子は一笑に付して、取り合わなかったとか。
長谷川町子は、作品に対しては、いっさいの妥協を許さない人でした。
町子の仕事部屋は、二階の風通しのいい部屋で、南向きの窓からは庭の四季が一望できる最高のロケーションだったそうです。それにもかかわらず、妹・洋子は、この部屋がなぜか暗く感じられたと言います。
「二十余年、姉はこの部屋でまんがの案をひねり続けてきた。毎日、呻吟し、イライラし、時には鬱になってムカついたりする日々、そんな目に見えない思いが沈殿して空気を重くしているのではないか」(長谷川洋子『サザエさんの東京物語』朝日出版社)
と洋子は記しています。
町子は、終生、持病の胃痛に悩まされ続けました。
極端な人見知りで、業界内のつき合いも全くといっていいほどなく、外出も、ほとんどしなかったといいます。浮いた話もなく、独身を貫き通し、ひたすらマンガを描き続ける日々でした。
作家やクリエイターといわれる人の中には、連日のように飲み歩いたり、派手なケンカや浮名を流すなど、放蕩無頼な生活を送ることで芸の肥やしにする人もいれば、ひたすら机に向かって仕事をし続けるタイプもいます。長谷川町子は後者でした。
アウトプットばかりで、いつインプットするんだという気もしますが、むしろアウトプットし続けることで、注意のカーソルが動き出し、自然と情報が入ってくるのでしょう。ことさら波瀾万丈な人生など送る必要はないのです。
マンガ家は、その職業の性質上、激務に追われることが多く、ひたすら机に向かって一点に集中し続けるパラノ・キッズ(そんな言葉は聞いたことがありませんが(笑))が多いような気がします。
■「サザエさん」終了
長期にわたって高品質の作品を送り出し続けた『サザエさん』でしたが、その間には山もあれば谷もありました。連載中にも大きな休載が何度かあります。
その中でも、特に大きかったのが昭和35年3月22日から36年9月30日にかけての一年半にわたる休載でした。このとき、町子は本気でマンガ家を辞めるつもりでいたようです。画材や資料も全部燃やし、税務署に漫画家の廃業届まで出してしまいました。
さすがに精神的にそうとう追い込まれていたのでしょう。その様子を見ていた家族も、町子が廃業を切り出したときに全く反対しなかったそうです。
それでも町子は復活しました。ある編集者から「どうですか、そろそろ描いてみては」という暖かい手紙をもらうと、ほろりと来てしまい、いそいそと連載を再開させたのです。
その後も病気による一年三か月にわたる長い休載があった他、小さな休載は何度もありました。
そんなわけで、昭和49年2月21日掲載分を最後に連載がストップした時も、いつもの休載だと思われていたのです。しかし、これが結果的に「サザエさん」最後の作品となりました。
その後、朝日新聞朝刊の四コママンガ欄は五年に及ぶ大空位時代が続きます。誰もが再び帰ってくるサザエさんを信じていたのです。しかし昭和54年1月1日、とうとう夕刊で人気を呼んでいたサトウサンペイの「フジ三太郎」が朝刊に繰り上がり、空位期間にピリオドが打たれました。そして、空いた夕刊枠に登場したのが園山俊二「ペエスケ」だったのです。
その後の長谷川町子は、『サザエさんうちあけ話』『サザエさん旅あるき』などのエッセイマンガを、ときおり新聞紙上で発表するほかは、悠々自適の生活を送られていたようです。1985年には長年趣味で集めていた絵画コレクションを開放するため、長谷川美術館を開館(のちに「長谷川町子美術館」と改称)。
1992年5月に亡くなられた時には、三年前の手塚治虫に続く、戦後を代表する巨匠の死去ということで世間を騒がせました。享年72歳。
町子の没した翌年の1993年、姉妹社は、さっさと店をたたんで解散してしまいます。あざやかな退き際でした。
現在、長谷川町子の作品は、版権を引き継いだ朝日新聞出版などを中心に刊行されています。
◆◇◆長谷川町子のhoriスコア◆◇◆
【パーマネント】62hori
戦前戦後を通しての女性のパーマネントへの偏愛は今以上に激しいものがありました。
(書影『非国民な女たち-戦時下のパーマとモンペ』中央公論新社)
「贅沢は敵」と批判されたパーマネントは、実は戦時中も流行していた?
戦前から続く女性たちのオシャレへの飽くなき追求
【略画的】73hori
このへんは師匠の田河水泡よりは、兄弟子の倉金章介に近い感じです。
【針金のような硬質なタッチ】78hori
横山泰三や加藤芳郎など、戦後の大人マンガの基本的なタッチです。
<1>日本で最も稼いだマンガ家
長谷川町子の死去ののち税務署によって公示された遺産総額は、およそ30億円でしたが、これはあくまで町子の個人資産です。大部分の収益は会社その他の名義に計上していたことが推測されますが、その総額は謎に包まれています。
アイキャッチ画像:長谷川町子『サザエさん』⑰朝日新聞出版
堀江純一
編集的先達:永井均。十離で典離を受賞。近大DONDENでは、徹底した網羅力を活かし、Legendトピアを担当した。かつてマンガ家を目指していたこともある経歴の持主。画力を活かした輪読座の図象では周囲を瞠目させている。
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